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今日の辞世の句
ΚΑΤΑ ΤΟΝ ΔΑΙΜΟΝΑ ΕΑΥΤΟΥ
Truth to your own spirit
自分自身の精神への真実
ジム・モリソンの墓碑銘。ジム・モリソンはアメリカのミュージシャン、詩人。ロックバンド、ドアーズのボーカリスト、作詞家として知られる。また、バンド活動とは別に数冊の詩集を発表している。米ローリング・ストーン誌の選ぶ「史上最も偉大なシンガー100人」において第47位。ジェームズ・ダグラス・モリソンは、アメリカ海軍の軍人であり後に提督となるジョージ・スティーヴン・モリソンと、クララ・クラーク・モリソン夫妻の息子として、フロリダ州メルボルンで生まれた。後に妹と弟が一人ずつ生まれた。モリソンは厳格で保守的な両親によって育てられたが、成長した彼は両親の教育とは徹底的に異なった価値観に基づく作品表現を行うことになる。一家は父の職業の影響で転居を重ね、そのためかジムは家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後はフロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する(なお、同級生にフランシス・フォード・コッポラがいた)。1965年夏、UCLAでレイ・マンザレクに出会ったモリソンは、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。モリソンはマンザレクと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを制作。その後リックがバンドを辞め、代わりに同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加。こうしてザ・ドアーズのラインナップが完成した。「ドアーズ」というバンド名は、ウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」から採られた、オルダス・ハックスレーの「知覚の扉(The Doors of Perception)」が元になった。ドアーズの結成前からモリソンは様々なドラッグを服用し、多量の飲酒で様々などんちゃん騒ぎに耽っていた。時にはレコーディング時も酔っぱらい、その様子はたびたび録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」の中では彼のしゃっくりが聞かれる。また、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酔っぱらった様子が録音されている。1969年3月、マイアミでのコンサートで彼はズボンを下げ自慰行為を見せたという容疑で公然わいせつ罪で逮捕され、後に有罪判決を受けた。このスキャンダルによってドアーズそのものが反社会的であると非難され、ライブ活動はしだいに縮小していった。1970年12月12日のニューオーリンズでのステージを最後にモリソンはライブ活動を停止。1971年1月に『L.A.ウーマン』のレコーディングを終えると、同年3月、著作に専念するためパリへ移り住んだ。1971年7月3日、ジム・モリソンはパリのアパートにあるバスタブの中で死体として発見された。事件性がないと考えたパリの警察は検死を行わず、死因は心臓発作と発表した。
ジム・モリソンの遺体はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、この墓地はパリの人気観光名所の一つとなっています。モリソンの死はブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、カート・コバーンらと同じくロックスターの悲劇となり、偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しているので、27クラブというロック界におけるひとつのジンクスとなっています。ジム・モリソンは自身をミュージシャンよりも詩人と位置付けており、複数の詩集を発表しています。音楽においては、デビューアルバム『ハートに火をつけて』が大きな話題となり、セカンドシングル「ハートに火をつけて」はビルボード週間ランキングのトップとなりました(年間ランキングでも第2位)。翌68年にはサード・アルバム『太陽を待ちながら』がついに全米No.1アルバムとなり、シングルカットされた「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」もNo.1シングルに輝きました。ジム・モリソンはいわゆる「ロックスター」であることに極めて自覚的であり、ステージでは革パンツでセクシャルに立ち振る舞い、雑誌等のインタービューではメディアの飛びつきそうなキャッチーで過激な語句を使用するなど、マスメディアによるグループのイメージ構築を、意図的に、試験的に行っていました。しかし、人気が全米的なものになると、彼はスターとしての地位の中で次第にフラストレーションを感じるようになっていったようです。最期は恐らくヘロインの過剰摂取によるものであると考えられていますが、不摂生な生活が続いたことによりぶくぶくに太ったことも、死期を早めた要因の一つでしょう。墓碑銘の原文はなぜかギリシア語で書かれており、誰が書いたのかは不明ですが、ウィリアム・ブレークやオルダス・ハックスレーから影響を受けた、彼にふさわしい言葉になっています。
Truth to your own spirit
自分自身の精神への真実
ジム・モリソンの墓碑銘。ジム・モリソンはアメリカのミュージシャン、詩人。ロックバンド、ドアーズのボーカリスト、作詞家として知られる。また、バンド活動とは別に数冊の詩集を発表している。米ローリング・ストーン誌の選ぶ「史上最も偉大なシンガー100人」において第47位。ジェームズ・ダグラス・モリソンは、アメリカ海軍の軍人であり後に提督となるジョージ・スティーヴン・モリソンと、クララ・クラーク・モリソン夫妻の息子として、フロリダ州メルボルンで生まれた。後に妹と弟が一人ずつ生まれた。モリソンは厳格で保守的な両親によって育てられたが、成長した彼は両親の教育とは徹底的に異なった価値観に基づく作品表現を行うことになる。一家は父の職業の影響で転居を重ね、そのためかジムは家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後はフロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する(なお、同級生にフランシス・フォード・コッポラがいた)。1965年夏、UCLAでレイ・マンザレクに出会ったモリソンは、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。モリソンはマンザレクと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを制作。その後リックがバンドを辞め、代わりに同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加。こうしてザ・ドアーズのラインナップが完成した。「ドアーズ」というバンド名は、ウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」から採られた、オルダス・ハックスレーの「知覚の扉(The Doors of Perception)」が元になった。ドアーズの結成前からモリソンは様々なドラッグを服用し、多量の飲酒で様々などんちゃん騒ぎに耽っていた。時にはレコーディング時も酔っぱらい、その様子はたびたび録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」の中では彼のしゃっくりが聞かれる。また、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酔っぱらった様子が録音されている。1969年3月、マイアミでのコンサートで彼はズボンを下げ自慰行為を見せたという容疑で公然わいせつ罪で逮捕され、後に有罪判決を受けた。このスキャンダルによってドアーズそのものが反社会的であると非難され、ライブ活動はしだいに縮小していった。1970年12月12日のニューオーリンズでのステージを最後にモリソンはライブ活動を停止。1971年1月に『L.A.ウーマン』のレコーディングを終えると、同年3月、著作に専念するためパリへ移り住んだ。1971年7月3日、ジム・モリソンはパリのアパートにあるバスタブの中で死体として発見された。事件性がないと考えたパリの警察は検死を行わず、死因は心臓発作と発表した。
ジム・モリソンの遺体はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、この墓地はパリの人気観光名所の一つとなっています。モリソンの死はブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、カート・コバーンらと同じくロックスターの悲劇となり、偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しているので、27クラブというロック界におけるひとつのジンクスとなっています。ジム・モリソンは自身をミュージシャンよりも詩人と位置付けており、複数の詩集を発表しています。音楽においては、デビューアルバム『ハートに火をつけて』が大きな話題となり、セカンドシングル「ハートに火をつけて」はビルボード週間ランキングのトップとなりました(年間ランキングでも第2位)。翌68年にはサード・アルバム『太陽を待ちながら』がついに全米No.1アルバムとなり、シングルカットされた「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」もNo.1シングルに輝きました。ジム・モリソンはいわゆる「ロックスター」であることに極めて自覚的であり、ステージでは革パンツでセクシャルに立ち振る舞い、雑誌等のインタービューではメディアの飛びつきそうなキャッチーで過激な語句を使用するなど、マスメディアによるグループのイメージ構築を、意図的に、試験的に行っていました。しかし、人気が全米的なものになると、彼はスターとしての地位の中で次第にフラストレーションを感じるようになっていったようです。最期は恐らくヘロインの過剰摂取によるものであると考えられていますが、不摂生な生活が続いたことによりぶくぶくに太ったことも、死期を早めた要因の一つでしょう。墓碑銘の原文はなぜかギリシア語で書かれており、誰が書いたのかは不明ですが、ウィリアム・ブレークやオルダス・ハックスレーから影響を受けた、彼にふさわしい言葉になっています。
今日の辞世の句
世の中の役をのがれてまたもとに 還るは天と土の人形
曲亭馬琴の辞世の句。曲亭馬琴は江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、瀧澤興邦)で、後に解(とく)と改める。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。現在確認できる限り本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。馬琴自身は「曲亭馬琴」という筆名について、中国の古典から取ったと説明している。しかし「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味であるとも指摘されている。明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(1000石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄2人が早世しているため、三男として育った。滝沢家には長兄・興旨、次兄・興春、妹2人があった。馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。天明元年(1781年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳で吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明7年(1787年)21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集した。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。天明5年(1785年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛永3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。寛政8年(1796年)、30歳のころより馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から刊行された読本『高尾船字文』は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行した。太田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。文化元年(1804年)に刊行された読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化11年(1814年)に、『南総里見八犬伝』肇輯が刊行された。文化13年(1816年)、恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、故宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。馬琴は、お路を筆記者として、『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。
世の中の苦役をのがれてまたもとに 還るのは天と土の人形
曲亭馬琴は日本の作家の元祖のような人です。明治時代に坪内逍遥から勧善懲悪小説のレッテルを貼られて批判されますが、馬琴の小説こそ日本的な情緒と創作の原点であると言えるでしょう。特に『八犬伝』は『小説神髄』のなかで、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として批判されていますが、これは当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示しています。確かに馬琴の作品には古臭い儒教的な要素が多く見られますが、その発想と創意は今なお輝きを放っています。ちなみに明治期の文人は批判した逍遥自身も含め、『八犬伝』に親しんでいたことは、彼の作品が明治の文壇を形成する一つの遺産であったと言えるでしょう。
曲亭馬琴の辞世の句。曲亭馬琴は江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、瀧澤興邦)で、後に解(とく)と改める。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。現在確認できる限り本人は滝沢(瀧澤)馬琴という筆名は用いていない。馬琴自身は「曲亭馬琴」という筆名について、中国の古典から取ったと説明している。しかし「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味であるとも指摘されている。明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(1000石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄2人が早世しているため、三男として育った。滝沢家には長兄・興旨、次兄・興春、妹2人があった。馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。天明元年(1781年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳で吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明7年(1787年)21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集した。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。天明5年(1785年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛永3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。寛政8年(1796年)、30歳のころより馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から刊行された読本『高尾船字文』は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行した。太田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。文化元年(1804年)に刊行された読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化11年(1814年)に、『南総里見八犬伝』肇輯が刊行された。文化13年(1816年)、恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、故宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。馬琴は、お路を筆記者として、『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。
世の中の苦役をのがれてまたもとに 還るのは天と土の人形
曲亭馬琴は日本の作家の元祖のような人です。明治時代に坪内逍遥から勧善懲悪小説のレッテルを貼られて批判されますが、馬琴の小説こそ日本的な情緒と創作の原点であると言えるでしょう。特に『八犬伝』は『小説神髄』のなかで、近代文学が乗り越えるべき旧時代の戯作文学の代表として批判されていますが、これは当時『八犬伝』が持っていた影響力の大きさを示しています。確かに馬琴の作品には古臭い儒教的な要素が多く見られますが、その発想と創意は今なお輝きを放っています。ちなみに明治期の文人は批判した逍遥自身も含め、『八犬伝』に親しんでいたことは、彼の作品が明治の文壇を形成する一つの遺産であったと言えるでしょう。
今日の辞世の句
Die, my dear? Why, that's the last thing I'll do!
死ぬよ、私のいとしい人。どうしてそれが私がする最後のことになるんだい!
ジュリアス・ヘンリー”グルーチョ”マルクスの最期の言葉。グルーチョ・マルクス(1890年10月2日-1977年8月19日)はアメリカのコメディアン。マルクス兄弟として活躍し、クイズ番組『You Bet Your Life』で司会を務めた。マルクス兄弟の三男だが、その態度の大きさ故、しばしば長男に間違えられる。マルクス兄弟(Marx Brothers) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身のコメディ俳優 。最初は音楽中心だったが、のちに喜劇を中心に活動。15〜20年にわたり巡業を続けるが、その間、兄弟のメンバーはめまぐるしく移り変わり、第一次世界大戦後に、グルーチョ・チコ・ハーポ・ゼッポの四人兄弟が生まれた。そのうち、彼らの活躍が徐々に認められ、1924年のニューヨーク公演が雑誌『ザ・ニューヨーカー』の批評家アレクサンダー・ウールコットに絶賛されたことで注目される。1925年には『ココナッツ』がロングランとなり、1928年には『けだもの組合』が大当たりとなる。こうして、1929年パラマウント映画社に招かれ、第1作『ココナッツ』で映画デビューする。続く『けだもの組合』(1930年)・『いんちき商売』(1931年)・『御冗談でショ』(1932年)と立て続けにヒット作を発表、チャールズ・チャップリンやバスター・キートンに代わる新時代の喜劇映画スターとして君臨する。世代的には、「サイレント・コメディ映画」の喜劇王たちと比較すると、チャップリンと同世代で、キートン、ハロルド・ロイドよりは年上だった。が、映画がトーキーの時代となり、しゃべりと音楽で笑いを取る彼等の出番が来て、ようやく映画が作られるようになった。そのため、映画が作られ始めた時点で彼等の年齢は既に、40代前半から30代後半であった。その(当時としては)高年齢で、あれほどの動きをみせたのは、長年の舞台での修練の賜という他ない。舞台時代の演目を映画化したものが多い初期の作品はアメリカの「大不況」の時代でもあり、彼等の過激で狂騒的な笑いは時代に絶望していた庶民を大いに惹きつけた。しかし1934年に公開された『我輩はカモである』はあまりに荒唐無稽すぎて興行的には失敗したため、同作を最後にパラマウント映画から離れMGMに移籍。以降は制作側の意向もあってギャグを減らしストーリー性を重視した作風に変化する。だが、彼らをメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)に迎え入れた名プロデューサー、アーヴィング・タルバーグの死後は作品もマンネリ化、人気も凋落して往年の冴えは見られなくなり、第二次世界大戦終結直後の1946年の『マルクス捕物帖』を最後に映画から撤退、コンビも解消する。マルクス兄弟の笑いは、同時代よりも後の喜劇人、映画人に計り知れない影響を与えた。61年のチコ、64年のハーポに続いて77年8月19日にグルーチョもこの世を去った。
よくパーティー用品として売られている「メガネと鼻とヒゲ」の扮装グッズは、実はグルーチョ・マルクスを模したものなのです。また、ドリフターズのかつてのギャグ「ヒゲダンス」も、グルーチョのヒゲと動作を参考にしたものであります(最初に始めたのは大阪の芸人Mr.ボールドですが)。マルクス兄弟はナンセンスでスピーディーなギャグで有名で、ハーポの狂奔的な動きと、グルーチョのナンセンスなマシンガントークが最大の売りでした。「イタリア訛り」でしゃべるチコは、ハーポとコンビでの役柄が多いですが、喋らないハーポとグルーチョとの間のコミュニケーション・ギャップの通訳的役割で笑いを取ることも多かったです。淀川長治は、マルクス兄弟について「映画ではなく舞台である」と発言しており、実際、彼等の初期の傑作は、舞台でのヴォードヴィル・コメディを、ほぼそのまま映画で再現したものでした。兄弟が人気絶頂のころ、チャップリンは「せめて君たちのように喋れたらなあ」とグルーチョにこぼしたところ「あなたはあれほど稼いで、まだ欲張るのかね」とやり返されたというエピソードが残っています。日本のコメディアンたちに与えた影響も大きく、横山エンタツなど戦前のコメディアンには、グルーチョの影響を受けたモノが多いです。日本では他にも小林信彦、筒井康隆、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、いとうせいこうらが熱狂的なファンであります。最期の言葉の意味は少し分かりにくいですが、笑いに人生をかけた彼が最後にしたことが、死ぬという人々を悲しませる行為だったことについて、言っているのではないでしょうか。
死ぬよ、私のいとしい人。どうしてそれが私がする最後のことになるんだい!
ジュリアス・ヘンリー”グルーチョ”マルクスの最期の言葉。グルーチョ・マルクス(1890年10月2日-1977年8月19日)はアメリカのコメディアン。マルクス兄弟として活躍し、クイズ番組『You Bet Your Life』で司会を務めた。マルクス兄弟の三男だが、その態度の大きさ故、しばしば長男に間違えられる。マルクス兄弟(Marx Brothers) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身のコメディ俳優 。最初は音楽中心だったが、のちに喜劇を中心に活動。15〜20年にわたり巡業を続けるが、その間、兄弟のメンバーはめまぐるしく移り変わり、第一次世界大戦後に、グルーチョ・チコ・ハーポ・ゼッポの四人兄弟が生まれた。そのうち、彼らの活躍が徐々に認められ、1924年のニューヨーク公演が雑誌『ザ・ニューヨーカー』の批評家アレクサンダー・ウールコットに絶賛されたことで注目される。1925年には『ココナッツ』がロングランとなり、1928年には『けだもの組合』が大当たりとなる。こうして、1929年パラマウント映画社に招かれ、第1作『ココナッツ』で映画デビューする。続く『けだもの組合』(1930年)・『いんちき商売』(1931年)・『御冗談でショ』(1932年)と立て続けにヒット作を発表、チャールズ・チャップリンやバスター・キートンに代わる新時代の喜劇映画スターとして君臨する。世代的には、「サイレント・コメディ映画」の喜劇王たちと比較すると、チャップリンと同世代で、キートン、ハロルド・ロイドよりは年上だった。が、映画がトーキーの時代となり、しゃべりと音楽で笑いを取る彼等の出番が来て、ようやく映画が作られるようになった。そのため、映画が作られ始めた時点で彼等の年齢は既に、40代前半から30代後半であった。その(当時としては)高年齢で、あれほどの動きをみせたのは、長年の舞台での修練の賜という他ない。舞台時代の演目を映画化したものが多い初期の作品はアメリカの「大不況」の時代でもあり、彼等の過激で狂騒的な笑いは時代に絶望していた庶民を大いに惹きつけた。しかし1934年に公開された『我輩はカモである』はあまりに荒唐無稽すぎて興行的には失敗したため、同作を最後にパラマウント映画から離れMGMに移籍。以降は制作側の意向もあってギャグを減らしストーリー性を重視した作風に変化する。だが、彼らをメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)に迎え入れた名プロデューサー、アーヴィング・タルバーグの死後は作品もマンネリ化、人気も凋落して往年の冴えは見られなくなり、第二次世界大戦終結直後の1946年の『マルクス捕物帖』を最後に映画から撤退、コンビも解消する。マルクス兄弟の笑いは、同時代よりも後の喜劇人、映画人に計り知れない影響を与えた。61年のチコ、64年のハーポに続いて77年8月19日にグルーチョもこの世を去った。
よくパーティー用品として売られている「メガネと鼻とヒゲ」の扮装グッズは、実はグルーチョ・マルクスを模したものなのです。また、ドリフターズのかつてのギャグ「ヒゲダンス」も、グルーチョのヒゲと動作を参考にしたものであります(最初に始めたのは大阪の芸人Mr.ボールドですが)。マルクス兄弟はナンセンスでスピーディーなギャグで有名で、ハーポの狂奔的な動きと、グルーチョのナンセンスなマシンガントークが最大の売りでした。「イタリア訛り」でしゃべるチコは、ハーポとコンビでの役柄が多いですが、喋らないハーポとグルーチョとの間のコミュニケーション・ギャップの通訳的役割で笑いを取ることも多かったです。淀川長治は、マルクス兄弟について「映画ではなく舞台である」と発言しており、実際、彼等の初期の傑作は、舞台でのヴォードヴィル・コメディを、ほぼそのまま映画で再現したものでした。兄弟が人気絶頂のころ、チャップリンは「せめて君たちのように喋れたらなあ」とグルーチョにこぼしたところ「あなたはあれほど稼いで、まだ欲張るのかね」とやり返されたというエピソードが残っています。日本のコメディアンたちに与えた影響も大きく、横山エンタツなど戦前のコメディアンには、グルーチョの影響を受けたモノが多いです。日本では他にも小林信彦、筒井康隆、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、いとうせいこうらが熱狂的なファンであります。最期の言葉の意味は少し分かりにくいですが、笑いに人生をかけた彼が最後にしたことが、死ぬという人々を悲しませる行為だったことについて、言っているのではないでしょうか。
今日の辞世の句
(副官の「よろしうございますか」という問いに)
「どうぞ」
南雲忠一の最期の言葉。南雲忠一は、日本海軍の軍人。太平洋戦争において日本海軍機動部隊の司令長官として主要な海戦で指揮を執った提督である。 海軍大将、従三位、勲一等、功一級。山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩士南雲周蔵、志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。米沢尋常中学興 譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校、三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与され、1908年(明治41年)、191人中7 番で卒業[2]。1920年(大正9年)には海軍大学校甲種第18期を2番で卒業した。その後、水雷畑を歩み「水雷戦術の第一人者」「猛将」として知ら れ、海軍内では数々の武勇伝が伝えられていた。軽巡洋艦那珂、重巡洋艦高雄、戦艦「山城」艦長や第11駆逐隊司令、第三戦隊司令官、軍令部の参謀、課長、 海軍大学校教官などを歴任。艦隊派(軍縮条約反対派)の論客としても知られ、山本五十六や井上成美と対立した。1941年(昭和16年)4月10日に第一 航空艦隊司令長官に親補され、そのまま太平洋戦争に突入した。真珠湾攻撃には懐疑的であり、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先 を主張していた。機動部隊出撃後にも「君はどう思うかね。ぼくはエライことを引き受けてしまった。ぼくがもうすこし気を強くして、きっぱり断ればよかった と思う。出るには出たが、うまく行くかな」と草鹿参謀長に内心を語っている。真珠湾攻撃までの道のりは燃料について問題があったがそれを解決するため軍務 局の暗黙の了解を得て南雲は自身の責任において軍紀違反である過剰な燃料の搭載を行っている。12月8日未明(現地時刻は7日朝)、第一航空艦隊(通称南 雲機動部隊)はハワイオアフ島真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾る。1942年(昭和17年)6月、南雲は ミッドウェー海戦に第一航空艦隊長官として参加する。日本側の暗号を解読し日本軍の来襲を待ち受けていたアメリカ軍側に対し、日本軍は潜水艦や二式飛行艇 の索敵を怠り、機密漏洩もおざなりにするなど、不手際が目立った。さらに戦艦「大和」に座乗した山本長官以下連合艦隊主力が南雲機動部隊の後方600浬を 航行、戦略的に無意味なアリューシャン諸島に貴重な空母2隻(龍驤、隼鷹)を派遣して戦力を分散するなど、作戦計画そのものに問題があった。6月5日、南 雲機動部隊はミッドウェー島基地航空隊の空襲を撃退したものの、その直後に米軍機動部隊艦載機による急降下爆撃を受け、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、 飛龍)を失う大敗を喫する。南雲は炎上する空母「赤城」に残ろうとしたが、草鹿らの説得で艦橋前面の窓から脱出、軽巡洋艦「長良」(第十戦隊旗艦、木村進 少将)に移動した。1942年(昭和17年)8月、米軍はガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いが始まる。南雲は第三艦隊のうち準備が整っていた 空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「龍驤」を率いて最前線に進出したが、南雲は近藤信竹中将/第二艦隊司令官の指揮下にあり、打ち合わせすら行っていなかった両艦 隊の行動は混乱した。8月24日、第二次ソロモン海戦が発生し、米空母「エンタープライズ」を中破させるも空母「龍驤」が沈没して敗退した。10月26日 の南太平洋海戦では、米空母「ホーネット」を行動不能に追い込み、空母「エンタープライズ」を中破、戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷という戦果をあ げる。海戦後に呉鎮守府司令長官を経て第一艦隊司令長官に転出。第一艦隊は1944年(昭和19年)2月25日に解隊されたため、南雲は最後の第一艦隊司 令長官となった。1942年(昭和17年)11月17日、参内して昭和天皇に奏上を行う。1944年(昭和19年)3月4日に中部太平洋方面艦隊司令長官 を拝命し皇居に参内。鎌倉市の自宅で家族と最後の時間を過ごした後、サイパン島に着任したが、既に死を覚悟していたと言われている。同年6月15日にアメ リカ軍がサイパン島に上陸してくると迎撃戦闘の指揮にあたった。南雲は連合艦隊の救援を待ったが、小沢治三郎中将が率いる第一機動艦隊は6月19-20日 のマリアナ沖海戦で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を喪失して完敗、サイパン島救援は絶望的となった。約20日間の抗戦の末サイパン島守備軍は玉砕、南雲も 戦死した(サイパンの戦い)。戦死時の状況には諸説あり、7月6日に同艦隊参謀長の矢野英雄少将らと自決あるいは同日、最後の突撃に参加して戦死というも のがある。最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午後10時ごろ、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。日本 の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃った。南雲の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」だった。享年 57。 死後海軍大将に昇進。
実に軍人らしい最期であったと言えるでしょう。南雲忠一は水雷畑が長いこともあり、艦隊の運用については非常に優れており、急造の機動部隊を大過なくハワ イに導いた手腕についても評価すべきとの意見もあります。ミッドウェー海戦においては鈍重な旗艦「赤城」の操艦を青木泰二郎艦長に代わって自ら行い、魚雷 6本を回避してみせており、直接の操艦は艦長の職掌であり職掌の分担を犯すものではあるが、その腕には源田実航空参謀も舌を巻いたそうです。南雲忠一は太 平洋戦争時の大日本帝国海軍において、最も戦果をあげた提督でありながら、ミッドウェー海戦にて兵装転換を命じ、結果として空母4隻を失ってしまったため、評価は辛辣なものが多いのですが、この人については最近になって、再評価される動きも出てきています。戦前の部内での評価は「勇猛かつ決断力に富んだ 将来の海軍を背負う人」というものでありましたが、最期は皮肉にも陸上で戦死しました。南雲は中部太平洋方面艦隊司令長官に任命され、出征する壮行会の席上 で「今度という今度は白木の箱か男爵さまだ」と述べ、家族にも、鶴岡八幡宮に詣でたあと「こんどは帰らない」と告げており、死を覚悟していたようです。
「どうぞ」
南雲忠一の最期の言葉。南雲忠一は、日本海軍の軍人。太平洋戦争において日本海軍機動部隊の司令長官として主要な海戦で指揮を執った提督である。 海軍大将、従三位、勲一等、功一級。山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩士南雲周蔵、志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。米沢尋常中学興 譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校、三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与され、1908年(明治41年)、191人中7 番で卒業[2]。1920年(大正9年)には海軍大学校甲種第18期を2番で卒業した。その後、水雷畑を歩み「水雷戦術の第一人者」「猛将」として知ら れ、海軍内では数々の武勇伝が伝えられていた。軽巡洋艦那珂、重巡洋艦高雄、戦艦「山城」艦長や第11駆逐隊司令、第三戦隊司令官、軍令部の参謀、課長、 海軍大学校教官などを歴任。艦隊派(軍縮条約反対派)の論客としても知られ、山本五十六や井上成美と対立した。1941年(昭和16年)4月10日に第一 航空艦隊司令長官に親補され、そのまま太平洋戦争に突入した。真珠湾攻撃には懐疑的であり、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先 を主張していた。機動部隊出撃後にも「君はどう思うかね。ぼくはエライことを引き受けてしまった。ぼくがもうすこし気を強くして、きっぱり断ればよかった と思う。出るには出たが、うまく行くかな」と草鹿参謀長に内心を語っている。真珠湾攻撃までの道のりは燃料について問題があったがそれを解決するため軍務 局の暗黙の了解を得て南雲は自身の責任において軍紀違反である過剰な燃料の搭載を行っている。12月8日未明(現地時刻は7日朝)、第一航空艦隊(通称南 雲機動部隊)はハワイオアフ島真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾る。1942年(昭和17年)6月、南雲は ミッドウェー海戦に第一航空艦隊長官として参加する。日本側の暗号を解読し日本軍の来襲を待ち受けていたアメリカ軍側に対し、日本軍は潜水艦や二式飛行艇 の索敵を怠り、機密漏洩もおざなりにするなど、不手際が目立った。さらに戦艦「大和」に座乗した山本長官以下連合艦隊主力が南雲機動部隊の後方600浬を 航行、戦略的に無意味なアリューシャン諸島に貴重な空母2隻(龍驤、隼鷹)を派遣して戦力を分散するなど、作戦計画そのものに問題があった。6月5日、南 雲機動部隊はミッドウェー島基地航空隊の空襲を撃退したものの、その直後に米軍機動部隊艦載機による急降下爆撃を受け、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、 飛龍)を失う大敗を喫する。南雲は炎上する空母「赤城」に残ろうとしたが、草鹿らの説得で艦橋前面の窓から脱出、軽巡洋艦「長良」(第十戦隊旗艦、木村進 少将)に移動した。1942年(昭和17年)8月、米軍はガダルカナル島に上陸してガダルカナル島の戦いが始まる。南雲は第三艦隊のうち準備が整っていた 空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「龍驤」を率いて最前線に進出したが、南雲は近藤信竹中将/第二艦隊司令官の指揮下にあり、打ち合わせすら行っていなかった両艦 隊の行動は混乱した。8月24日、第二次ソロモン海戦が発生し、米空母「エンタープライズ」を中破させるも空母「龍驤」が沈没して敗退した。10月26日 の南太平洋海戦では、米空母「ホーネット」を行動不能に追い込み、空母「エンタープライズ」を中破、戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻損傷という戦果をあ げる。海戦後に呉鎮守府司令長官を経て第一艦隊司令長官に転出。第一艦隊は1944年(昭和19年)2月25日に解隊されたため、南雲は最後の第一艦隊司 令長官となった。1942年(昭和17年)11月17日、参内して昭和天皇に奏上を行う。1944年(昭和19年)3月4日に中部太平洋方面艦隊司令長官 を拝命し皇居に参内。鎌倉市の自宅で家族と最後の時間を過ごした後、サイパン島に着任したが、既に死を覚悟していたと言われている。同年6月15日にアメ リカ軍がサイパン島に上陸してくると迎撃戦闘の指揮にあたった。南雲は連合艦隊の救援を待ったが、小沢治三郎中将が率いる第一機動艦隊は6月19-20日 のマリアナ沖海戦で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を喪失して完敗、サイパン島救援は絶望的となった。約20日間の抗戦の末サイパン島守備軍は玉砕、南雲も 戦死した(サイパンの戦い)。戦死時の状況には諸説あり、7月6日に同艦隊参謀長の矢野英雄少将らと自決あるいは同日、最後の突撃に参加して戦死というも のがある。最期を目撃した陸軍参謀によれば、7月6日午後10時ごろ、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲が右、井桁敬治陸軍少将が左に正座。日本 の方角を向き、割腹と同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃った。南雲の最期の言葉は副官の「よろしうございますか」という問いに「どうぞ」だった。享年 57。 死後海軍大将に昇進。
実に軍人らしい最期であったと言えるでしょう。南雲忠一は水雷畑が長いこともあり、艦隊の運用については非常に優れており、急造の機動部隊を大過なくハワ イに導いた手腕についても評価すべきとの意見もあります。ミッドウェー海戦においては鈍重な旗艦「赤城」の操艦を青木泰二郎艦長に代わって自ら行い、魚雷 6本を回避してみせており、直接の操艦は艦長の職掌であり職掌の分担を犯すものではあるが、その腕には源田実航空参謀も舌を巻いたそうです。南雲忠一は太 平洋戦争時の大日本帝国海軍において、最も戦果をあげた提督でありながら、ミッドウェー海戦にて兵装転換を命じ、結果として空母4隻を失ってしまったため、評価は辛辣なものが多いのですが、この人については最近になって、再評価される動きも出てきています。戦前の部内での評価は「勇猛かつ決断力に富んだ 将来の海軍を背負う人」というものでありましたが、最期は皮肉にも陸上で戦死しました。南雲は中部太平洋方面艦隊司令長官に任命され、出征する壮行会の席上 で「今度という今度は白木の箱か男爵さまだ」と述べ、家族にも、鶴岡八幡宮に詣でたあと「こんどは帰らない」と告げており、死を覚悟していたようです。
今日の辞世の句
Under the wide and starry sky.
Dig the grave and let me lie.
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.
This be the verse you grave for me:
Here he lies where he longed to be;
Home is the sailor, home from sea,
And the hunter home from the hill.
広い星降る空の下
墓穴を掘って私は眠る
喜んで生きそして喜んで死ぬ
そしていさぎよく横たわる
これは私の墓のためのあなたの詩
船乗りは帰る海より帰る
猟師は帰る山より帰る
ロバート・ルイス・スティーヴンソンの墓碑銘。スティーヴンソンはイギリスのスコットランド、エディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイストである。弁護士の資格も持っていた。父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする建築技術者だった。母がマーガレット・バルフォア。彼もエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、のち法科に転科、弁護士になる。スティーヴンソンは生まれつき病弱で、各地を転地療養しながら作品を創作した。処女作は1876年の紀行文『内陸の旅人(内地の旅人)』、続いて1878年に『驢馬の旅』を執筆する。その後は『ヴァージニバス・ピュエリスケ』、『わが親しめる人と書物』の二つのエッセイを執筆した。1877年にパリで後に妻となるファニー・オズボーンと出会う。オズボーンは既婚で2人の子どもがいたが、1879年に夫が病気を患い、離婚した。スティーヴンスンはサンフランシスコに向かい、結婚した。2人の子どもとオズボーンを連れてイギリスに帰り、その後は精力的に創作に取り組んだ。1882年『新アラビア夜話』を出版した。同年、フランスに家を買ったが、父の病気が悪化したのでブァンマスに移り住んだ。1883年『宝島』を出版、1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』を出版、同年にはまた代表作の一つである『ジキル博士とハイド氏』を出版した。1887年父が死亡したのを機に、妻子と共にアメリカへ移住する。出版者スクリブナーズの依頼で取材した南太平洋の島々が自身の健康にすぐれていると思い、サモア諸島中のウポルー島に移住し、残りの生涯をそこですごした。彼は島人に「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をした。島での生活中は健康に恵まれ、多くの作品を発表した。だが1894年12月4日に発作を起こし、2時間後に死亡した。没後、バエア山山頂に葬られ、彼の邸宅は現在も「ロバート・ルイス・スチーブンソン博物館」として利用されている。
スティーヴンソンの作品では『ジキル博士とハイド氏』と『宝島』が特に有名でしょう。この人は非常に多くの名言や格言を残していますので、いくつか紹介しましょう。The cruelest lies are often told in silence.「いちばん残酷なウソは、しばしば沈黙という形を取る。」Keep busy at something.A busy person never has time to be unhappy.「何かに忙しくしていることだ。忙しい人間には不幸でいる暇などまったくない。」Our business in this world is not to succeed,but to continue to fail, in good spirits.「この世での私達の仕事は成功することではない。失敗を続けることである。ただし、元気はつらつとして。」中々しゃれたことを言いますね。墓碑銘も韻を踏んだ非常に良い詩だと思います。
Dig the grave and let me lie.
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.
This be the verse you grave for me:
Here he lies where he longed to be;
Home is the sailor, home from sea,
And the hunter home from the hill.
広い星降る空の下
墓穴を掘って私は眠る
喜んで生きそして喜んで死ぬ
そしていさぎよく横たわる
これは私の墓のためのあなたの詩
船乗りは帰る海より帰る
猟師は帰る山より帰る
ロバート・ルイス・スティーヴンソンの墓碑銘。スティーヴンソンはイギリスのスコットランド、エディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイストである。弁護士の資格も持っていた。父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする建築技術者だった。母がマーガレット・バルフォア。彼もエディンバラ大学の土木工学科に入学するが、のち法科に転科、弁護士になる。スティーヴンソンは生まれつき病弱で、各地を転地療養しながら作品を創作した。処女作は1876年の紀行文『内陸の旅人(内地の旅人)』、続いて1878年に『驢馬の旅』を執筆する。その後は『ヴァージニバス・ピュエリスケ』、『わが親しめる人と書物』の二つのエッセイを執筆した。1877年にパリで後に妻となるファニー・オズボーンと出会う。オズボーンは既婚で2人の子どもがいたが、1879年に夫が病気を患い、離婚した。スティーヴンスンはサンフランシスコに向かい、結婚した。2人の子どもとオズボーンを連れてイギリスに帰り、その後は精力的に創作に取り組んだ。1882年『新アラビア夜話』を出版した。同年、フランスに家を買ったが、父の病気が悪化したのでブァンマスに移り住んだ。1883年『宝島』を出版、1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』を出版、同年にはまた代表作の一つである『ジキル博士とハイド氏』を出版した。1887年父が死亡したのを機に、妻子と共にアメリカへ移住する。出版者スクリブナーズの依頼で取材した南太平洋の島々が自身の健康にすぐれていると思い、サモア諸島中のウポルー島に移住し、残りの生涯をそこですごした。彼は島人に「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をした。島での生活中は健康に恵まれ、多くの作品を発表した。だが1894年12月4日に発作を起こし、2時間後に死亡した。没後、バエア山山頂に葬られ、彼の邸宅は現在も「ロバート・ルイス・スチーブンソン博物館」として利用されている。
スティーヴンソンの作品では『ジキル博士とハイド氏』と『宝島』が特に有名でしょう。この人は非常に多くの名言や格言を残していますので、いくつか紹介しましょう。The cruelest lies are often told in silence.「いちばん残酷なウソは、しばしば沈黙という形を取る。」Keep busy at something.A busy person never has time to be unhappy.「何かに忙しくしていることだ。忙しい人間には不幸でいる暇などまったくない。」Our business in this world is not to succeed,but to continue to fail, in good spirits.「この世での私達の仕事は成功することではない。失敗を続けることである。ただし、元気はつらつとして。」中々しゃれたことを言いますね。墓碑銘も韻を踏んだ非常に良い詩だと思います。
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