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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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立戦研議事録★6月24日 

議題:定例会議
日時:6月24日(月)18:00~19:30
場所:清心館504
参加:3名


 先週の定例会中止に依り,先々週に引き続き「戦場のピアニスト」を鑑賞する予定でありましたが,DVDの手配が完了せず,討議をする事と相成りました.当日討議致しました題材は,「戦争による技術革新とそれに伴うべき精神の革新」でありました.以下は,その討議による結論を要約した物であります.

 先の第一次・第二次世界大戦やその他の技術革新に依り,現代文明は高度な技術と其の恩恵による「物質的には」豊かなる生活を享受しつつある.
 然しながら現代人は,技術に溺れつつある.則ち,スマートフォンやインターネット等の利便なる情報媒体及び迅速なる情報伝達手段の技術革新に依り,自らで論理的に推察する事や,或いは自らで文献等の膨大なる情報から自らの求める情報を取捨選択する事で,自らの知識とする事を疎かにしつつある.此の様な技術頼みの生活に依存していると,どうしても相手に持論を的確に主張する能力が衰え,結果として精神的な活動である文芸・言論活動を始めとする文化的活動の一切が衰退してしまう.

 依って現代人は,現代の不断の技術革新に対して甘んじる事無く,不断の精神練磨を為さねば成らないのであり,そうする事に依って初めて「健康で文化的な生活」を営み,真の意味で「人間らしく生きる」事が出来るのであると考える.


文責 法学部一回生・戦史研究所見習研究員
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立戦研議事録★6月3日 



議題:定例会議
日時:6月3日(月)18:00~19:30
場所:存心館801
参加:4名(三役含む)


○2013年度学祭展示に向けての方針
・ラボメン統一テーマ決定。
・年代はWWⅠ~WWⅡとし、統一テーマで各人が扱う分野ごとに甲班・乙班に分かれる。
・各班員の研究を途中報告のかたちで普段の例会で発表していくこととする。→「他者の意見」を取り入れ、展示に活かす。
・学祭の際に機関誌を発行する。
※現所長の手元にある原稿以外に新たに執筆、若しくは改訂版として原稿を書くラボメンがいる場合、提出締め切りは10月1日の23:59とする。

○次週からの活動
7月に入ると試験を考慮して活動を行わないので、前期の活動は6月いっぱい。
あと3回の活動はラボメン全員で二時間映画を2回に分けて鑑賞し、映画を見て感じたことや疑問、意見をディスカッションする。
「ローレライ」を鑑賞する予定。

Category: かつどう!

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【鑑賞】戦場でワルツを 

『戦場でワルツを』(2008)を鑑賞

 5月27日の活動で『戦場でワルツ』を鑑賞。非常に有名な映画で話題になっていた記憶があるが、まだ観ていなかった。イスラエルの監督の自伝的なドキュメンタリーで、舞台がレバノン内戦であるということは知っていたが、実際に観てみるまでは、なぜアニメーションなのかという点もピンと来なかった。実際に観てみると、非常によくできているの一言。なるほど、というべきか。

 自分の中にある心象風景をもとに、同じ戦場を経験した部隊の仲間を訪ね、戦場の記憶を徐々に辿っていくというストーリー。前提知識なくこの映画をみると、①彼はなぜベイルートにいるのか。②何が起こったのか(主人公の失った記憶とは?)という命題を考えながら話を追う事になるが、そのへん、ストーリー構成が非常に良く出来ているのでよかった。「なんだ、なんだ?」という感じで、そうした視聴者の思考を追う形で話が展開して行くあたり、例えて言うなら芥川の『藪の中』に近い。『藪の中』は、「真相はなんだ」というのが読み手の中核にあるけれど、この映画は、「リアリティとは何か」というのを考えさせられる。その点でも、非常にうまい。

 まず、主人公がPTSDの症状を抱えていることを、女医が彼に戦場のカメラマンの例を話しながら説明する場面がある。そのカメラマンは旅行者として戦場にいた。カメラを通してみるフィクションのように戦場を眺め続ける彼は、まるでアクション映画をみているように「すごい!すごい!」と興奮していたんだけど、あるときカメラが撃たれる。自己防衛として存在したレンズを失った彼は、現実に素手で触れてしまった。それからおかしくなってしまったという話。その話のあと、女医の質問に主人公は「休暇の記憶は鮮明なんだ」と答える。

 舞台は戦場。それなのに、時折流れる陽気な音楽。遠足気分の兵隊。で、その瞬間、一発の弾丸で世界が変わる。そんな描写が冒頭にある。(このへんの雰囲気はシュタゲに似てる)女医の話のところで、ああ、我々がみているのは主人公の自己防衛としての映像で、時々起こるシュタゲ的な風景描写は、その自己防衛からこぼれ落ちた現実の断片なんだなと気付くわけだけど、それもどこか〝リアリティー〟がない。

 リアリティーがないとはどういうことか。例えば、物語の後半。西ベイルートへ抜ける広い幹線道路での戦闘シーン。その様子を周りの建物から見物している住民。戦場のリアリティーの中にいる兵士とその様子を外から見ている周囲の住人(観客)という不思議さ。その場にいた記者も「不思議な光景だった」と回想する場面だが、その刹那、ショパンの曲に合わせて狂ったように銃を乱射し始める主人公の上官シュミュエル・フレンケル。(どうやら、「バシール暗殺の復讐劇だ」と叫んで、ショパンに合わせて機関銃乱射しながら気の狂れたワルツを踊るこのシーンが映画タイトルの由来らしい。)このへんの不思議さがなんとも。

 さらにうまいのは、話が終盤に差し掛かって、サブラー・シャティーラの虐殺になると、今度は、虐殺を主人公のイスラエル人が外からみているという図式に変わる。さっきの気の狂れたワルツの幹線道路の戦闘とは逆転して、虐殺の現実はパレスティナ人のリアリティー。それを何のことか分からず戸惑いながらみている主人公たち。アングルがぐるっと変わるわけね。でも、本人たちもなにがなんだか分かっていないという点では、さっきと同じ。なんだか不思議な感じで図式が変わる。そこにあるのは永遠と続く弱者の列。―これがアウシュヴィッツの記憶と重なって主人公の記憶を欠落させたんだ云々というのは、まあ、ともかくとして―その虐殺は、イスラエル軍幹部の「ストップ・シューティング。」の一言で終了するという。「GO HOME!」の一言で列は消えて、虐殺の結果だけが残る。これで終われば、「リアリティーとは何か」という命題を感想としてなんとなく漠然と終わったんだろうけど、ラストだけ「実写」というのがよかった。ただ不思議な感じで終わるんじゃない。「あ、そうだ。現実だったんだ。」と気づかされてそのままプツンと終わる。そんな映画でした。


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【鑑賞】劇場版『機動戦士Ζガンダム A New Translation』 

●「文学、映画、アニメ、評論・・・いろんな媒体を通して「戦争」に関する言説をみながら「戦争」について考えるという半分冗談、半分真面目な活動企画」班の活動報告(雑記)

・第一弾の作品は『機動戦士ガンダムZ』(劇場三部作)
→1st(全43話)を春休みに観終わったラボメンの「ガンダムってのは、ほんとに愛とロマンだけの作品なんですかね?」がきっかけ。

毎週一幕ごとに鑑賞・議論。(三週間)

①星を継ぐ者(2005年5月28日公開)

・Zの世界(宇宙世紀0087)は如何にして作られたのか。
→一年戦争から7年後の世界。連邦軍の内ゲバ。

・シャア・アズナブルの評価。(シャアについて、語り合う場面)
→二部以降の伏線。
・戦場の描き方。
→1stよりも、若干ロマンスっぽい?ロマンスは二部で遺憾なく発揮(笑)
・映画とTV版の違いは?
→さあ、みんなで考えよう。

②恋人たち(2005年10月29日公開)

・TV版を踏まえないと展開が早すぎて追いつけない。
・謎のロマンス。
→カミーユ「大人の都合なんだよね、それ」⇒第三幕でのカツコバヤシに対するカミーユの発言に注目。

③星の鼓動は愛(2006年3月4日公開)

・カミーユ:「嘘ですよね?レコアさんが戦死なんて・・・戦場だからって、こんなこと・・・」
→反語的表現。本来であれば、逆説ではなく順接のハズ「戦争だからこんなこと」

・✖✖✖:「わたしは主義者ではないわ」
→第二幕の終わりから、ハマーンさま(&ヘップバーン:まさかのドズルの娘)乱入でいよいよ戦闘が複雑になる が、その複雑さは、彼らの(ハマーンさま、シロッコ、シャア)世界観の違いにある。各々の世界観のために戦 う連中と区別されたとき、ではお前は何のために戦うのか?⇒「女であること」(▲▲▲「できるわね、女やってるんだから」/■■■:「男って、女を道具としか使わない」「男ってそうだけど、そうだからって」)

・カミーユ:「戦場では個人の感情なんて・・・」
→第二幕ではロマンスだった君は、では何のために戦うのか?(ファ:「カミーユもカツの恋心はわかるでしょ!?」)/タイトルの意味?

・劇場での政治問答(ハマーンさま、シロッコ、シャア、そこへカミーユ乱入)
→本作の核心。あの戦闘の複雑さが世界観の相違に演繹された瞬間。人に理性をもとめるのは絶望的であるという前衛論理を振りかざすのは、ハマーンさまとシロッコ。(しかも、また彼らは彼らで違う)そこへ新たな可能性にかけるシャア・アズナブルの反駁の意味は何なのか。そして、その全てを含んで否定するカミーユとは誰か。

ハマーンさま:「大した役者だったなシャア。話し合いの余地がないのなら、ここがお前の死に場所だ」(ハマーンの真意は?_「女であること」要素も考慮)

シロッコ:「歴史の立会人として云々」「(シャアに対して)まだ世界を欲しがっているんだろ?」
ハマーン:「(シャアに対して)ザビ家再興に手を貸せ」
シャア:「世界を誤った方向に持って行きたくない云々。(ニュ-タイプの覚醒による可能性を主張)」
ハマーン:「人類がそれほど賢い存在だと思っているのか?愚劣な」

ここでカミーユ登場。

カミーユ:「違う、違う、違う、間違っているぞ!」
(ハマーン、シロッコ、シャアのすべてを否定=地球の重さと大きさを理解できない連中)
シロッコ:「天才の足を引っ張ることしかできない俗人どもに何ができる。つねに地球を引っ張ってきたのは、ひ      と握りの天才だ」
カミーユ:「それは人間を家畜にすることだ。人を道具にして。それはいちばん人間が人間にやっちゃいけないことだ」(「戦争を手段化している」云々→戦争は人間を手段化するものでは)

*劇場での一幕をどう理解するか。
→ハマーン、シロッコ、シャア、カミーユの世界観(政治哲学)の整理=「何のために戦っているのか」



参考メモ

★Z政治哲学問答理解のために
・「政治」とは何か―南原繁と丸山眞男の場合―
cf.「政は正なり」(南原繁:現実を知った上での理想主義哲学。政治を文化価値に位置づける)⇔「僕はどちらかと言うと、ヴェーバーのほうなんだ。正統的な暴力性の独占。」(丸山眞男:南原とは違った政治観。政治とは必要悪であるという考え。一方、シュミットへの反駁)

丸山:「そのヴェーバーの権力概念を肯定的な意味で継承したのがシュミットなのですが、僕は一部の人が言うように、決して正統的な継承だとは思いません。越ゆるべからざる断絶があると思います、シュミットとの間には。」
→人民の意志は、投票数などという機械的作業よりも、人民の喝采のほうがはるかに生き生きと表現されている。喝采の中での指導者と被指導者の一体性。(『現代議会主義の精神史的地位』:「学生の時に読んで「違うぞ、違うぞ!」と。僕は議会主義への懐疑[を説くシュミットへの疑問]から始まっている。それで今でも議会主義者ですから、そういうシュミットとどうやって戦っていくのかということですね。だから、代表原理から議会主義は基礎づけられないというシュミットの考えは僕も正しいと思います。」)

cf.シロッコとカミーユの政治哲学?
cf.ナチの恐ろしさ:ナチの持っているアンビヴァレンス。ナチが持っていた斬新さ、魅力。また、近代文明が行き着いたファシズムとは?(ガンダムをネタにファシズム論の検討??)

・ハマーンさまやシロッコの前衛論理
→彼らの拠って立つイデオロギーが不明なのでなんともいいようがないが、それでも、お前たちだけ真理を把握できるという根拠は何か?とは問いたくなる。(自分自身のイデオロギー性についての盲目さ)
→シャアの世界観がイマイチわからないが、そのシャアも含めて全否定するカミーユ。その「われここに立つ」という確信はどこから?「地球の重さと大きさのわからない・・・」「星の鼓動は愛」の意味?

cf.党派性の問題。歴史主義(相対主義)から出てくるハズのマルクス主義はどうやって真理を演繹するのか?
「プロレタリアートのみが真理を把握する(=プロレタリアートの自己意識イコール社会意識。もっとも疎外されている階級こそもっともトータルに社会を把握できる)」(ルカーチ『歴史と階級意識』)
→ガンダムZにはいろんな意味で「大衆」が描かれていない?⇔1st


小括

・統一研究テーマであるファシズム論に如何に結びつけるのかという課題について(無理矢理)
・それぞれが「戦争」について以下に語っているのか。その論理は以下に演繹されているのかという点で、彼らの世界観の整理(主要人物)。その他にも、女の戦いとロマンスも存在(別カテゴリーの〝戦い〟)するが、それだけではない=「ガンダムってのは、ほんとに愛とロマンだけの作品なんですかね?」という最初の疑問への回答。一方、カミーユだけ、なんか全部ひっくるめたようなまとめ方での戦い。新たな問い:「カミーユ・ビダンとは誰だ」(理屈を超越した戦争論。cf.カントの平和論との比較)

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幸徳秋水の非戦論 

遅くなりましたが、5月13日分の活動報告です。
学園祭に向け、「現在の興味関心はどんなことか、今後どういった研究をしていきたいのか」を表明せねばなりません。その構想について報告しました。


幸徳秋水の非戦論云々については "加藤陽子『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書/2002) 第六講" が担当者の中では起点となっています。この講は前半部分で日本をとりまく国際情勢(外交、貿易事情)が少しずつ悪化し、それによって追い詰められた日本が戦争に向かわざるを得なかった様相を記しています。
こうして外部事情からやむを得ず始まった戦争に明確な意義を与えたのが吉野作造の征露論です。吉野はロシアが貿易の自由を認めないことからロシアを「文明の敵」であるとして攻撃します。さらに吉野はロシアの専制政府に関しても非文明であるとし、この手法で戦争の意義を明確化かつ正当化しているのです。この論理は広く流布しました。筆者は、「日清戦争後から日露戦争にいたる10年もの間、『臥薪嘗胆』のスローガンで国全体を戦争へ向かわせ続けたとする説は無理がある」としています。「臥薪嘗胆」を念頭に、一直線に戦争へと向かっていたわけではないのです。

対する非戦論で有名なものとして幸徳秋水が挙げられています。彼の非戦論の切り口は深く、その非戦論は積極派に対抗できる有効的なものでした。日本において帝国主義を一般的に認識されていなかった時代なので、彼の洞察の深さや先見性に驚かされます。


上記のように、幸徳秋水は日露戦争に対して一貫して非戦を唱え、戦後に社会主義者として確立します。
早い段階から国内で勢力をもった社会主義でしたが、「大逆事件」によって社会主義の冬の時代が到来、事件の翌年には特高警察が設置されます。大逆事件は以降の思想統制を考えるうえで重大な出来事ではないでしょうか。
現在から大逆事件を振り返り、この先の流れも考えると異質な思想の討伐は結果として国家の首をしめると言えるでしょう。深層にある思想を統制しても表面にある現実の状況は変わらないので社会問題は先送りされたままであり、行き着くところまで流されるしかないのでしょう。
私は昭和期の混乱もこうした流れと無縁ではないと感じています。


漠然とした問題意識ではありますが、この問題意識を軸に今後の個人研究をすすめていこうと考えています。
次回も今後の研究に向けての個人報告です。

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