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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I know that I am going where Lucy is.

私はルーシーがいる所へ行くと分かっているよ。

ラザフォード・ヘイズの最期の言葉。ラザフォード・バーチャード・ヘイズ(英: Rutherford Birchard Hayes, 1822年10月4日 - 1893年1月17日)は、第19代アメリカ合衆国大統領。ホワイトハウスで就任の宣誓をした初の大統領。大統領として彼はレコンストラクションの終盤と、アメリカ合衆国の第二次産業革命初期に国を率いた。ヘイズは南北戦争で分断された南北の和解を試み、後には官庁改革に取り組んだが、いずれも成果を上げるには至らなかった。ヘイズはオハイオ州デラウェアで生まれ、ロウワー・サンダスキー(現在のフリーモント)で弁護士を開業し、1858年から1861年までシンシナティの法務官を務めた。南北戦争が始まると、好調な政治活動を離れて北軍に加わる。彼は5度も負傷し、最も重い負傷はサウス山の戦いでであった。戦闘における勇気と功績で名声を得、少将まで昇進した。戦後は共和党員として1865年から1867年まで下院議員を務めた。議員退職後オハイオ州知事選に出馬し、二期を務める。二期目の終了後弁護士業を再開したが、1875年に知事の三期目を務めた。1876年、ヘイズはアメリカ史上最も議論を呼んだ選挙の結果大統領に就任した。彼は民主党候補、サミュエル・ティルデンに一般投票では敗れたものの、選挙委員会が資格に疑問の余地があった選挙人票20票全てをヘイズのものとし、ヘイズは選挙人選挙を185対184で制し、僅差で大統領の座を得た。結果は1877年の妥協となり、民主党はヘイズの選挙を黙認し、ヘイズは南部の軍事占領の終わりを受け入れた。ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を信じた。彼は1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、レコンストラクションが終了すると連邦軍の南部撤退を命じた。彼は1880年代から90年代にかけて控え目な官庁改革を実行し、それは更なる改革のために土台となった。ヘイズは大統領再選に出馬しないという誓いを守り、オハイオの自宅に退き、社会および教育改革の支持者となった。ラザフォード・バーチャード・ヘイズは1822年10月4日、ラザフォード・ヘイズとソフィア・バーチャード夫妻の息子としてオハイオ州デラウェアで生まれた。バーモントで雑貨店を営んでいた父親は、1817年に家族と共にオハイオ州に移住したが、息子が生まれる10週間前に死去した。母親のソフィアが一家を支え、ヘイズと妹のファニーを育て上げた。4人の子供のうち、この2人だけが成人まで生き残った。ソフィアは決して再婚しなかった。ソフィアの弟サルディス・バーチャードが家族と同居し、ヘイズの幼少時の教育に貢献した。サルディスはヘイズの父親的存在であった。ヘイズの祖先はニューイングランド植民地の移民であった。最も早いアメリカでの祖先は、1625年にスコットランドからコネチカットに移住した。ヘイズの曾祖父、エゼキエル・ヘイズはアメリカ独立戦争におけるコネチカットの民兵大尉であったが、その息子(ヘイズの祖父、ラザフォード)は戦争中にニューヘイヴンの家を離れ、比較的平和であったバーモントに移り住んだ。母方の祖先がバーモントにやってきたのはその頃で、オハイオ州以外の親戚のほとんどはバーモントで暮らしている。結婚によっておじとなったジョン・ノイズは、バーモントにおける父親の仕事のパートナーで、後には連邦下院議員に選出された。彼のいとこ、メアリー・ジェーン・ノイズ・ミードは彫刻家ラーキン・ゴールドスミス・ミードと建築家ウィリアム・ラザフォード・ミードの母親であった。また、ジョン・ハンフリー・ノイズ(オナイダ・コミュニティ(英語版)の創設者)はいとこであった。ヘイズはデラウェアのコモン・スクールに通い、1836年にノーウォークのメソジスト・ノーウォーク・セミナリーに入学した。ノーウォークで順調に学び、翌年ミドルタウンのウェッブ大学進学予備校に通い、ラテン語と古代ギリシャ語を学んだ。オハイオに戻ると1838年にオハイオ州ガンビアのケニヨン・カレッジに入学した。彼は大学生活を楽しみ、学業も順調であった。大学ではいくつかの学生会に加わり、ホイッグ党の政治に関心を持つようになった。1842年に優等で大学を卒業し、卒業生総代として演説した。コロンバスで短期間法律を学んだ後、ヘイズは東へ移り住み、1843年にハーバード・ロー・スクールに入学する。1845年にオハイオ州の法曹界入りし、ロウワー・サンダスキー(現在のフリーモント)で法律事務所を開業した。当初は好調ではなかったものの、次第に数人の顧客を得、また、叔父のサルディスの不動産訴訟における代理人を務めた。1847年にヘイズは病気になり、医師は彼が結核でないかと考えた。気候の変化が回復のためになると考え、彼は軍に入隊し米墨戦争に従軍することを考えたが、医師の勧めでニューイングランドの家族を訪問した。そこから戻ると、ヘイズは叔父のサルディスと共に再びテキサスへの長期旅行を行い、ケニヨンでの友人であり遠い親戚であったガイ・M・ブライアンの元を訪れた。ロウワー・サンダスキーに帰ったとき、事務所は細々と続いていたが、彼はシンシナティへの転居を決心した。ヘイズは1850年にシンシナティに転居、チリコシー出身の弁護士ジョン・W・ハーロンと共に法律事務所を開業した。その後ハーロンはより大きな事務所に加わり、ヘイズは新たなパートナーのウィリアム・K・ロジャース、リチャード・M・コーウィンと事務所を経営した。シンシナティでの事業は以前よりも好調で、シンシナティ文学協会とオッド・フェローズ・クラブに加わり、大都市での様々な出来事を楽しんだ。彼はまたシンシナティの聖公会教会の礼拝に出席したが、メンバーにならなかった。彼は後の妻、ルーシー・ウェッブにそこで出会った。彼の母親は何年も前にルーシーと知り合うよう勧めたが、ヘイズは彼女が若過ぎると考え他の女性に注意を向けていた。4年後二人はより多くの時間を過ごすようになる。二人は1851年に婚約し、1852年12月30日にルーシーの母親の家で結婚した。続く5年間でルーシーは三人の息子、バーチャード・オースチン(1853年)、ウェブ・クック(1856年)、およびラザフォード・プラット(1858年)を産んだ。ルーシーはメソジストであり禁酒主義者かつ廃止論者であり、ヘイズは彼女の宗教に絶対に加わらなかったが、彼女の考えはその意見に影響を及ぼした。1845年5月10日に法曹界に入り、ロウワー・サンダスキー(現在のフリーモント)で弁護士業を始めた。1849年にシンシナティへ移り住み弁護士業を再開した。1857年から1859年まで市の法務官だった。1861年6月27日、陸軍に入隊し第23オハイオ志願歩兵連隊の少佐に任官。1861年10月24日には中佐、1862年10月24日に大佐に昇任し、1864年10月9日に准将、1865年3月3日に少将に名誉昇進した。南北戦争で5回瀕死の重傷を負っている。ヘイズは1876年の大統領選挙において史上まれに見る僅差で勝利した大統領である。ヘイズの対抗馬は民主党のサミュエル・ティルデンニューヨーク州知事であった。選挙後の最初の開票結果では、選挙人票でティルデンが184票を獲得しヘイズの165票を上回ったが、まだ集計されていない票が20票あった。南部のサウスカロライナ州(7票)・フロリダ州(4票)・ルイジアナ州(8票)とオレゴン州の一人の選挙人の票の20票が論争となり、議会は15人の委員からなる選挙委員会を作り問題を決着させる法律を通した。委員会は論争のあった選挙人票20票全てをヘイズのものとする裁決を下し、ヘイズは185対184で選挙を制した。この選挙結果に不信を抱く人々は、裏で共和・民主両党による裏取引があったと噂した(南部がヘイズの当選を黙認する代わりに、共和党は南部から連邦軍が引き上げることに同意しレコンストラクションを終わらせるという裏取引があったとされる)。結果、ヘイズは“His Fraudulency”(イカサマ閣下)と呼ばれることとなった(ちなみに、近年まれに見る接戦であった2000年アメリカ合衆国大統領選挙でも、一般投票ではジョージ・W・ブッシュ50,456,002(47.87%)に対しアル・ゴア50,999,897(48.38%)と敗者の方が上回っている)。このため、4ヶ月近くも大統領が決定しない異例の事態となった。ヘイズは南北戦争以降、連邦軍が駐留していた南部から兵を撤収させた。これにより、南北戦争以降黒人解放が進んでいた南部では再び旧白人支配層が実権を握り、黒人への人種差別が再び始まった。ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言した。また、労働運動に対しても軍隊を動員してストライキを弾圧するなど強硬な手段を取った。ヘイズは1880年に再選を求めないと決心し、その誓いを守って二期目は出馬しなかった。彼は後任となったジェームズ・ガーフィールドが当選したことに満足し、その任期に関して相談を行った。ガーフィールドの就任後にヘイズと家族はスピーゲル・グローヴに戻った。彼は忠実な共和党員のままであったが、ニューヨークの民主党の官庁改革に関する意見を認め、1884年の大統領選でグロバー・クリーブランドが当選したことにそれほど失望しなかった。彼はまた軍時代の仲間であり、政治的に擁護したウィリアム・マッキンリーが政治経歴を積み重ねたことに喜びを感じた。ヘイズは教育的チャリティの積極的な提唱者となり、全ての子供のための連邦教育補助金を支持した。彼は教育がアメリカ社会の溝を埋め、個人が自らの状況を改善する最も良い方法であると信じていた。ヘイズは1887年にオハイオ州立大学の評議会議員に任命された。同大学は彼がオハイオ州知事時代に支援した学校であった。彼は研究としての職業教育の必要性を強調した。「私は仕事主義を説きます。私は教育の一部として熟練労働者を信じます。」と書き記している。彼は、初めて教育に対する財政援助を行うように上院議員のヘンリー・W.ブレアが提出した法案が成立するように議会に働きかけたが、不成功に終わった。ヘイズは1889年に、スレーター基金(彼が加わった慈善団体の一つ)に奨学金を申し込むようにと、黒人学生を励ますための演説を行った。そのような学生の一人であったW・E・B・デュボイスは1892年に奨学金を受け取っている。ヘイズはまた、刑務所の待遇改善を支持した。引退に際して、ヘイズは社会の貧富の甚だしい差異に悩んでいた。1886年の演説では「資産が主に少数の手の内にあるならば、自由な政府は長く持ちこたえることができない。そして、大くの民衆は家、教育、そして老年期における保護を得ることができない。」と語っている。翌年、ヘイズは日記にそのことに関する考えを記した。「教会で私は、現在は人々がこの国の巨大な悪と危険について聞く時間である、何者にもまさる危険は、少数によって所有、コントロールされる巨大な富である、と思いついた。お金は力である。連邦議会、州議会、市議会、法廷、政治集会、マスコミ、宗教界、教育を受けた者と才能を持った者の輪、その影響はどんどん大きくなっている。少数の手にある過度の富は、大衆の多くに対する極端な貧困、無知、悪徳と不幸を意味する。しかし、もはや療法に関して討論するべき時間ではない。危険に先駆けて解決する問題がある - 悪。人々に悪に関して完全に伝え、確信させるべきだ。彼らに治療を本気で求めさせなければならない。そうすれば、それは見つかるだろう。悪を完全に知ることは、その根絶にたどり着くための第一歩である。ヘンリー・ジョージは現行制度の腐った様を描くとき、力強い。我々は、控えめに言っても、彼による治療の準備ができていない。我々は会社、資産、信託、課税とその他の重要な利益を管理している法律の変化によって困難に達して、それを取り除くかもしれない。それは土地やその他の資産を省略しない。」ヘイズは1889年の妻の死を大いに悲しんだ。妻の死に際して彼は「魂は(スピーゲル・グローヴを)去った。」と書き記した。ルーシーの死後、娘のファニーが彼の旅行相手となり、孫の元に訪れるのを楽しんだ。1890年にはモホンク湖会議の黒人問題会議の議長を務め、人種問題についての改革者達の議論をまとめた。ヘイズは1893年1月17日、心臓発作のためオハイオ州サンダスキー郡フリーモントの自宅で死去した。最期の言葉は「私はルーシーの元に行くのを知ってるよ。I know that I'm going where Lucy is.」であった。遺体はオークウッド墓地に埋葬され、次期大統領グロバー・クリーブランドとオハイオ州知事ウィリアム・マッキンリーが葬列を導いた。オハイオ州のスピーゲル・グローヴ州立公園に邸宅が寄贈され、1915年にそこに再埋葬された。翌年、ヘイズ記念図書館・博物館(アメリカ合衆国における最初の大統領記念図書館)がオハイオ州とヘイズの遺族からの資金によって公園内に開館した。

日本人で第19代アメリカ合衆国大統領ラザフォード・ヘイズのことを、よく知っている人は珍しいかと思います。彼はアメリカ南北戦争により、アメリカ連合国と奴隷制システムが崩壊した後の問題を解決しようとしたレコンストラクションの終盤を飾る人であり、南北の和解を試み結局失敗しました。ヘイズは元々は弁護士であり市の法務官でしたが、南北戦争に従軍して5回もの瀕死の重傷を負い、1865年3月3日に少将にまで名誉昇進しました。戦後は共和党員として1865年から1867年まで下院議員を務め、オハイオ州知事を3度務めました。1876年、ヘイズはアメリカ史上最も議論を呼んだ選挙の結果大統領に就任しました。この選挙は史上まれに見る接戦だったのですが、サミュエル・ティルデンが一般選挙でもヘイズを破り、選挙人投票でも184票を獲得してヘイズの165票を上回っていました。しかし、まだ集計されていない20票が全てヘイズの票となり、逆転でヘイズの勝利となりました。多くの歴史家達はある非公式の取り引きが論争を収めるために使われたと信じており、南部がヘイズの当選を黙認する代わりに、共和党は南部から連邦軍が引き上げることに同意し、解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人) の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等を目指したレコンストラクションを実質的に終わらせたとされています。この一連の政治的妥協は「1877年の妥協」と呼ばれ、南部では民主党の圧倒的優位な体制が固められました。この妥協でアフリカ系アメリカ人は実質的に政府の権力から排除され、これにより1877年以降、南部では白人優位によって連邦政府役員の選挙では民主党員に投票することとなり、ソリッドサウスと呼ばれました。この傾向は1966年まで90年間近く続くことになります。この裏取引の噂により、ヘイズは“His Fraudulency”(イカサマ閣下)と呼ばれることになりました。黒人への人種差別が再び始まると、ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言し、また、労働運動に対しても軍隊を動員してストライキを弾圧するなど強硬な手段を取りました。ヘイズは1880年に再選を求めず、大統領を辞しました。このような話を聞けば、ヘイズは非常に人種差別的な人物であったように思われるでしょうが、一方で彼は、教育的チャリティの積極的な提唱者となり、全ての子供のための連邦教育補助金を支持し、1889年には、スレーター基金(彼が加わった慈善団体の一つ)に奨学金を申し込むようにと、黒人学生を励ますための演説を行ってもいます。他にも、1890年にはモホンク湖会議の黒人問題会議の議長を務め、人種問題についての改革者達の議論をまとめました。また、彼は大変な愛妻家でもあり、妻のルーシーが亡くなった時には、「魂は(スピーゲル・グローヴを)去った。」と書き記しています。ヘイズは1893年1月17日、心臓発作のためオハイオ州サンダスキー郡フリーモントの自宅で、上記の通り妻の元へ行くと言って死去しました。遺体はオークウッド墓地に埋葬され、次期大統領グロバー・クリーブランドとオハイオ州知事ウィリアム・マッキンリーが葬列を導きました。最後に1877年の妥協についてのゲーテの『ファウスト』を元にした、面白い風刺画があるので紹介しておきます。

ジョセフ・キープラーによる政治風刺漫画、メフィストフェレスに扮したロスコー・コンクリングが、婦人(ソリッドサウス)という戦利品を得て立ち去るラザフォード・ヘイズを見ている。見出しにはゲーテの『ファウスト』から「間違ったことをしようと思っている間に正しいことだけをやる能力が彼にはついている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/1877%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A6%A5%E5%8D%94#mediaviewer/File:Keppler-Conkling-Mephistopheles.jpg
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

(彼が椅子から落下した時に、動揺する娘に向かって苦悶しながら)

My right side is paralyzed. I need no doctor. I can overcome my troubles.

私の体の右側は麻痺している。医者はいらない。私は困難に打ち勝つことができる。

アンドリュー・ジョンソンの最期の言葉。アンドリュー・ジョンソン(英語: Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日)は、アメリカ合衆国の第16代副大統領および第17代大統領。南部11州の脱退時点で、ジョンソンは脱退したテネシ-州選出の上院議員であったが、脱退反対論の強かったグリーンビル出身であった。ユニオニストとして彼は、辞職しなかった唯一の南部出身上院議員であった。彼は最も著名な南部出身のタカ派民主党員となり、南北戦争の間、リンカーンの軍事政策を支持した。1862年にリンカーンはテネシー州軍政長官にジョンソンを任命した。ジョンソンは反乱への対処とレコンストラクションへの移行を始めるのに精力的に活動した。ジョンソンは1864年に国民統一党の副大統領候補に指名された。リンカーンと共に1864年11月に選挙に勝利し、1865年3月4日に副大統領に就任した。1865年4月15日にリンカーンが暗殺されると、大統領職を継いだ。リンカーン大統領の暗殺に続いてジョンソンは南北戦争後の4年間、合衆国のレコンストラクションを統括した。ホワイトサウスを支持する立場を取ったジョンソンは共和党のタデウス・スティーブンスら急進派共和党からの激しい政治攻勢を受け、弾劾訴追を受けることとなったが、無罪判決を受けている。1808年12月29日にジェイコブ・ジョンソン(1778年 - 1812年)およびメアリー・マクドノー(1783年 - 1856年)の息子としてノースカロライナ州ローリーで生まれた。父親のジェイコブはアンドリューが3歳頃に死去し、一家は貧困の中に残された。母親は家計を支えるため機織りの仕事を行い、後に再婚した。母親はアンドリューが10歳か14歳の時に洋服屋へ奉公に行かせた。1820年代に彼はサウスカロライナ州ローレンスの仕立屋で働いた。貧しい家庭のためジョンソンは正式の教育を受けず、独学で読み書きを学んだ。1826年、16歳もしくは17歳で見習いを終え、兄弟と共にテネシー州グリーンビル(英語版)へ移り住んだ。同地で洋服屋の従業員として働く 。1827年、19歳のジョンソンは17歳のイライザ・マカーデルと結婚した。1828年から52年までの間に夫妻は5人の子供をもうけた。:マーサ(1828年生)、チャールズ(1830年生)、メアリー(1832年生)、ロバート(1834年生)、アンドリュー・ジュニア(1852年生)。イライザは基礎的な代数までの計算をジョンソンに教え、彼の読み書きと作文を改善するために家庭教師を行った。1828年から1830年までグリーンビル市会議員、1834年から1838年までグリーンビル市長を務めた。1835年から1837年および1839年から1841年まで下院議員。同年に民主党上院議員に選出され、第28議会および次の4つの議会に選ばれた(1843年3月4日~1853年3月3日)。第31と第32議会の公共支出委員会の議長だった。自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であるが、脱退反対勢力の強かった東テネシー出身であり、南部諸州の脱退に反対であった。脱退した11州選出の上院議員のうち、ワシントンにとどまったのは彼だけであった。ゆえにリンカーンに気に入られ、副大統領の地位を手に入れる。リンカーン大統領暗殺事件後は大統領に昇格。リンカーンがやり残した南北戦争の戦後処理をおこなった。黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させた。戦後、北部出身で奴隷制反対論者の共和党内の多数派は黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いたが、ジョンソンは奴隷制廃止を唱える議会と対立。拒否権を29回行使している。連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーと馬が合わず、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことからThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられた。ジョンソンに対する弾劾の訴追は1868年2月24日に下院を通過した。弾劾法廷は同年3月5日に上院で組織された。上院での弾劾決議の採決では賛成35票・反対19票(賛成率が64.8%)となった。弾劾の成立には三分の二以上、つまり36票以上の賛成が必要だが、1票足りなかった。そのため、辛うじてジョンソンは大統領の座を保つことができた。しかし、この一連の騒動により議会とジョンソンの対立の溝は決定的なものになり、政権のレームダック化は免れなかった。1869年3月4日に任期満了に伴い退任した。ジョンソンは1998年12月19日にビル・クリントンが弾劾訴追で弾劾裁判にかけられるまで、唯一弾劾裁判にかけられた大統領だった。また、ウォーターゲート事件で追い詰められたリチャード・ニクソンは、弾劾訴追をうけると、弾劾裁判前に辞職している。ジョンソンは1868年の上院および1872年の下院選挙で落選した。1875年3月4日、民主党の上院議員として、大統領経験者としては唯一選出されたが、テネシー州の娘の家を訪れた際に病気に罹り、7月31日にテネシー州エリザベストンの近くで死去した。遺体はテネシー州グリーンビルのアンドリュー・ジョンソン国立墓地に葬られた。

アメリカ合衆国第17代大統領アンドリュー・ジョンソンは、史上最悪の人種差別主義大統領と言われることがあります。それは彼がリンカーンによって登用された副大統領であったにも関わらず、奴隷制廃止を唱える議会と対立したからです。しかし、これは少々一方的な意見かもしれません。なぜなら、リンカーンは確かに西部の新しい領土で奴隷制が拡大することには反対でしいましたが、「現在、南部に存在する奴隷制度については間接的にも直接的にも干渉する意思はない」と述べており、早急に奴隷を解放しようとしていた訳でありませんでいした。また、リンカーンはは1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない」とも語っています。これらのことを考えれば、リンカーンが奴隷を解放した英雄であり、ジョンソンがリンカーンの死後それを阻害したという考えは間違いであります。とはいえ、アンドリュー・ジョンソンは自ら奴隷を有し奴隷制の賛同者であり、南北戦争の戦後処理をにおいて、黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させたことは事実です。また、南部諸州では次々とジム・クロウ法(黒人差別法)が制定されていきましたが、ジョンソンはそれを黙認しました。しかし、連邦政府による南部再建(レコンストラクション)において、南部人に寛大な政策をとったとみられ、そのせいで共和党急進派のメンバーから、政敵である陸軍長官スタントンを罷免したことについてThe Tenure Law(政府高官が在職中は罷免を免れる法律)を破ったという口実で弾劾裁判にかけられましたが、反対票が1票足らずかろうじててジョンソンは大統領の座を保つことができました。しかし、ジョンソンと議会の溝は決定的なものとなり、政権のレームダック化は免れれず、1869年3月4日に任期満了に伴い退任しました。大統領の職務を退いた後は、1875年3月4日に民主党の上院議員として、大統領経験者としては唯一選出されましたが、テネシー州の娘の家を訪れた際に病気に罹り、7月31日にテネシー州エリザベストンの近くで亡くなりました。遺体はテネシー州グリーンビルのアンドリュー・ジョンソン国立墓地に葬られました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I am a broken piece of machinery. When the machine is broken... I am ready.

私は壊れた機会の一部だ。機械が壊れる時……覚悟はできている。

ウッドロウ・ウィルソンの最期の言葉。トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領。進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウと並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている。合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジミール・レーニンの平和に関する布告に対抗して十四か条の平和原則を発表、新世界秩序を掲げて国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ウィルソンは第一次世界大戦におけるリーダーシップから、最も偉大な大統領の一人として見なされる。

ウッドロウ・ウィルソンは、アメリカ史上最も偉大な大統領の一人として高く評価されている人です。「戦争を終わらせるための戦争(The war to end war)」として第一次世界大戦への参戦を決断し、連合国を勝利に導きました。「戦争を終わらせるための戦争」という言葉は、世界大戦の最も一般的なキャッチフレーズだったのですが、たった一度しかこの言葉を使っていないウィルソンにこの言葉が帰せられることになりました。今でも多くの人がこの言葉を考えたのはウィルソンだと信じているようですが、元々は英国の作家で社会評論家のハーバート・ジョージ・ウェルズが書いた新聞記事とそれをまとめた本のタイトルです。大戦末期にはウラジミール・レーニンの平和に関する布告に対抗して十四か条の平和原則を発表し、その第14条「国際平和機構の設立」において国際的平和維持機構の設立を呼びかけました。ウィルソンは新世界秩序を掲げて国際連盟の創設に尽力しましたが、アメリカ合衆国自身は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジなどモンロー主義を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しませんでした。ウィルソンは1856年12月28日に牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目、長男としてバージニア州スタントンで生まれ父親は彼に牧師の後を継がせようとしましたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志しました。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となりました。ウィルソンはディスレクシア(失読症)の為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができませんでしたが、それを克服するため、速記を独学で覚え、彼は決断と自己規律を通して学業を修めました。彼は名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一のアメリカ大統領です。1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名し、ウィルソンは「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げました。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトがお互いに対立し、共和党が内部分裂したため、結果ウィルソンは大統領選に勝利しました。ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行し、企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にしました。一方、外交では強硬な姿勢を保ち中南米諸国から反発を招きました。また、中立の立場に保っていた第一次世界大戦に対して、ルシタニア号沈没事件による国民の反独感情を受けて、1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告しました。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧しました。ウィルソンはもともと偏頭痛が持病であったが、1919年10月2日、コロラド州で脳梗塞を発症し、一命は取りとめましたが、左半身不随、左側視野欠損、言語症と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となりました。しかし主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後国政の決裁はイーディスが夫の名で行いました。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期頃になってようやく閣議に出席できるまでに回復しましたが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事勿れ主義が目立つものとなりました。こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となりました。1921年、ウィルソンと妻はホワイトハウスを離れ、ワシントンD.C.のエンバシー・ロウにある自宅に移りました。ウィルソンの最期は1924年2月3日に自宅で亡くなりました。彼はワシントン大聖堂に埋葬されたのですが、彼はワシントンD.C.に埋葬された唯一の大統領でもあります。

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今日の辞世の句 

( 譫妄状態の中、副大統領ジョン・タイラーに向かって)

Sir, I wish you to understand the true principles of government. I wish them carried out. I ask nothing more.

閣下、あなたが政府の真実の原則を理解していることを願います。私はそれらが実行されることを願います。他に尋ねることはなにもありません。

ウィリアム・ハリソンの最期の言葉。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(英語: William Henry Harrison, 1773年2月9日 - 1841年4月4日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家で、第9代アメリカ合衆国大統領である。1811年のティピカヌーの戦いでの勝利で名声を獲得したため、「ティピカヌー」あるいは「オールド・ティピカヌー」の愛称で呼ばれた。他の多くの初期の大統領と同様に、バージニアのプランテーション所有者だった。68歳で大統領に就任したもの、在任期間わずか1ヶ月で死去した。また、アメリカ独立宣言の前に生まれた(つまり生まれながらの合衆国市民でない)最後の大統領であった。1773年2月9日にバージニア州チャールズシティ郡のバークレー・プランテーションで生まれた。ベンジャミン・ハリソンとエリザベス・バセット夫妻の7人の子供の末子で、3番目の息子だった。一家はバークレー・プランテーションでも著名な政治家一家で、父親は大陸会議で独立宣言へ署名を行い、1781年から84年までバージニア州知事を務めた。兄のカーター・バセット・ハリソンはバージニア州選出下院議員だった。1787年、ハリソンは14歳でハンプデン=シドニー・カレッジに入学した。彼は1790年まで同校で学び、ラテン語に精通し、基礎的なフランス語を習得した。学校で宗教復興の動きが起こり、父親は彼を退学させた。その後サウサンプトン郡の学校で短期間学び、そこで奴隷制度反対のクエーカーとメソジストに関わるようになったといわれる。奴隷制度を支持していた父親は腹を立て、ハリソンをフィラデルフィアに移させた。フィラデルフィアでハリソンはロバート・モリスの家に下宿した(そこで得られる医学的訓練のためだったといわれる)。1790年にペンシルベニア大学に入学、ベンジャミン・ラッシュ博士の下で内科を学んだ。ハリソンが彼の伝記作家に説明したように、彼は勉学を楽しんではいなかった。フィラデルフィアに着いて間もない1791年に父親が学費も残さずに死去したため、ハリソンはモリスの元に置き去りにされた格好になった。18歳の時、ハリソンは陸軍に入隊しオハイオ州に派遣された。ハリソンは白人の西部侵略に反発するインディアン部族連合軍を撃破。米英戦争でもイギリスとショーニー族の連合軍に勝利し、この活躍で白人社会で一躍国民的英雄となった。その後、ハリソンは政治家に転じ、1840年アメリカ合衆国大統領選挙でホイッグ党から立候補。当時のアメリカ大統領選挙は現在と異なり、候補者が選挙活動をすることを潔しとしない風潮があった。しかしハリソンはこの慣例を破り、派手なパレードや華麗なパーティーを大々的に開き、政治的発言は一切禁じた上で、自身の「戦争の英雄」というイメージを有権者に浸透させるのに成功した。ハリソンが就任宣誓を行なった1841年3月4日は非常に寒く風が強い日だった。しかしハリソンはコートを着用せず、ほぼ二時間近いアメリカ史上で最長の就任演説を行った。これでハリソンは風邪を引き、それで肺炎へこじらせ、1ヶ月後に死去した。ハリソンは在職中に死去した初の大統領であり、また任期が最短(31日)の大統領である。ハリソンの死去に伴い副大統領ジョン・タイラーが大統領に昇格した。

ウィリアム・ハリソンは、アメリカ合衆国大統領の最短任期記録(31日)の保持者です。この記録は今後も中々破られることはないでしょう。また、ハリソンの孫、ベンジャミン・ハリソンは1889年に第23代大統領に就任したため、アメリカ史上ウィリアムとベンジャミンは唯一の祖父と孫で大統領に就任した例でもあります。1800年にハリソンは新しく作られたインディアナ準州の知事となり、アメリカ植民地政策の拡張のために、インディアンの土地に対する所有権を確保しようとしました。ハリソンはアメリカ・インディアンと多くの土地の割譲に関する条約交渉を行い、1809年9月30日のウェイン砦の条約で完結させていました。それに激怒したショーニー族の酋長テカムセの呼びかけで、インディアン部族同盟が蜂起しテカムセの戦争が始まりました。この戦争は一般的に1811年のティピカヌーの戦いで終わったとされていますが、この闘いを指揮したのがハリソンでした。ハリソンはティピカヌーの戦いがテカムセの同盟に致命傷を負わせたと主張し、ハリソンはこのことで、「ティピカヌー」という渾名を貰いました。テカムセはさらに抵抗を続け、1812年に米英戦争を始めると、テカムセはカナダのイギリス軍に味方しましたが、ハリソンはこの戦いでも勝利し、一躍アメリカの国民的英雄となり1840年の大統領選挙で勝利しました。さて、「戦争の英雄」というイメージを有効に活用して大統領にまで登り詰めたハリソンでしたが、その最期はあっけないものでした。彼は1841年3月4日の極寒の日に、二時間近いアメリカ史上で最長の就任演説えお行い、それが元で風邪を引き肺炎を起こして亡くなりました。自身の就任演説のせいで死んだ大統領は、人類史上滅多にいないのではないでしょうか。上記の最期の言葉は、副大統領ジョン・タイラーに対して離されたものですが、ハリソンの死去に伴いタイラーが大統領に昇格しました。

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今日の辞世の句 

(新聞を読んでくれた妻に向かって)

That's good. Read some more.

それは良い。もういくつか読んでくれ。

ウォレン・ハーディングの最期の言葉。ウォレン・ガマリエル・ハーディング(Warren Gamaliel Harding, 1865年11月2日 - 1923年8月2日)は、第29代アメリカ合衆国大統領。大統領に選ばれた最初の現職上院議員であり、在職中に死去した6人目の大統領。オハイオ州選出の上院議員であったハーディングは、影響力を持つ新聞を出版し、政界入りする前は有能な演説家であった。彼はオハイオ州議員(1899 - 1903)、オハイオ州副知事(1903 - 1905)を歴任した。ハーディングの保守主義、柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』という選挙戦略は、彼を1920年の共和党全国大会における妥協選択の候補とした。第一次世界大戦の余波の中で行われた大統領選キャンペーンで、彼は国の「正常」への復帰を約束した。この「アメリカが一番」というキャンペーンは、外国の影響から独立した工業化と強い経済を促進した。ハーディングは、セオドア・ルーズベルト大統領以来議会を支配していた進歩主義から離脱した。1920年の選挙で彼は、副大統領候補のカルビン・クーリッジと共に、アメリカ史上一般投票における得票率の最大差(60.36%対34.19%、26.2ポイント差)で民主党候補でありオハイオ州の仲間であったジェームズ・M・コックスを破った。ハーディングは大統領として、「オハイオ・ギャング」と呼ばれた友人や政治上の貢献者に対して財政的に大きく報いた。彼の任期は結局スキャンダルと不正が瀰漫することとなった。彼の閣僚1名、被任命者数名が裁判で有罪となり、贈収賄および連邦政府に対する背任のため刑務所に送られた。しかしながら、ハーディングは何名かの有能な人物も閣僚として任命した。外交政策では、ハーディングは国際連盟への加入を拒み、ドイツおよびオーストリアと単独講和条約と結び、第一次世界大戦を正式に終了させた。彼はまたワシントン会議を開催し、世界の海軍力削減を促進し、国際法廷へのアメリカ合衆国の参加を主張した。内政面では、ハーディングは合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名し、坑夫や鉄道従事者のストライキに対応した。アメリカ合衆国の失業率はハーディングの任期中に半減した。1923年8月にハーディングはアラスカ旅行からの帰路、カリフォルニアで病床に伏し死去した。彼の後任は副大統領のカルビン・クーリッジが引き継いだ。大統領とし、議会にあまり介入せず、職務も閣僚に丸投げすることもあり、また任期中にいくつかのスキャンダルがあったため、その死後ハーディングは「アメリカ史上最も成功しなかった大統領」として評されたが、近年は評価が見直されている。

ウォレン・ハーディングは、任期中のスキャンダルが多かったことで有名な大統領です。ウォレン・ハーディングは1865年11月2日にオハイオ州コルシカ(現在のオハイオ州ブルーミング・グローヴの近く)で、ジョージ・トライアン・ハーディング博士とフィービー・エリザベス(ディッカーソン)ハーディング夫妻の間に生まれました。少年時代はアレクサンダー・ハミルトンとナポレオン・ボナパルトに憧れていたそうで、これは後の彼の政治思想にも多少の影響を与えているかもしれません。学生時代に新聞の出版と運営を学び、経営失敗した「マリオン・デイリー・スター」紙を買収して、郡内でも最大の新聞にまで育て上げました。その後、ハーディングは、オハイオ州議会議員 (1899-1903)、オハイオ州副知事 (1903-1905) および上院議員 (1915-1921) を務め、1921年、好調な景気の流れに乗り大統領に就任しました。選挙に勝利するためハーディングは自らの知己の多くを重要な政治的地位に任命し、「オハイオ・ギャング」(チャールズ・ミーの同名の著書で使用された言葉)として知られた彼らは、自らの権限を政府からの搾取に使用しました。任期中にスキャンダルと不正が横行しましたが、ハーディング自身が彼らの不法行為をどのくらい認識していたかは不明瞭ではあります。最も有名なスキャンダルはティーポット・ドーム事件で、大統領がからむスキャンダルとしては、ウォーターゲート事件と双璧をなすといわれています。この事件は、内務長官のアルバート・B・フォールが関与し、彼は賄賂の収受と違法な融資の見返りに国有油田を取引相手に貸し出したことで有罪判決を下されました。同事件はハーディングの死後数年間国家を揺さぶることとなりました。さらに、彼のもっと個人的な醜聞として、黒人混血説がありますが、これは全く根拠のない話です。その全く逆の醜聞として、ハーディングがクー・クラックス・クランに関係していたという説も根強く語られていますが、これも何の根拠もありません。ハーディングは妻と仲が悪かったので、今日でも夫人による毒殺説が広く語られていますが、これも事実として信じるには無理があります。さて、このような醜聞の多いハーディングですが、政治家としては予算会計法を成立させ、今日の年度予算案の審議システムを作ったり、ワシントン会議を開き「国際規模の軍縮」を口実に海軍戦力を制限したりもしています。また、所得税の累進性を弱め富裕層への大規模な減税を実施し、貿易では保護貿易政策を取り現在では考えられない程の高率な関税をかけるなど、富裕層を優遇し保護貿易政策を取りましたが、同時に合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名し、坑夫や鉄道従事者のストライキに対応するなどの政策も行いました。好景気に見舞われた幸運もあって、合衆国の失業率はハーディングの任期中に半減しました。これにより、上記の通りハーディングは「アメリカ史上最も成功しなかった大統領」として評されていましたが、近年は評価が見直されています。ハーディングの最期は、全国遊説中にアラスカで自らの知らなかった不法行為が詳述された長い報告書を受け取り、そのショックでなのか帰途、カナダのブリティッシュコロンビア州を通過している間に、彼は重い食中毒となりシアトルで心機能不全で倒れました。サンフランシスコのパレス・ホテルに着くと彼は肺炎を発症し、1923年8月2日の午後7:35に痙攣を発し、亡くなりました。医師団は心隔壁破裂あるいは脳梗塞と診断している。57歳没。

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