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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

露草や赤のまんまもなつかしき

泉鏡花の辞世の句。泉鏡花は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家。戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎。金沢市下新町生れ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深くうけた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。他の主要作品に『照葉狂言』、『婦系図』、『歌行燈』などがある。最期は1939年(昭和14年)9月7日午前2時45分、癌性肺腫瘍のため逝去。10日、芝青松寺にて葬儀がおこなわれ、雑司ヶ谷霊園に埋葬。戒名は幽幻院鏡花日彩居士。佐藤春夫の撰に係る。

露草は青く、赤まんまとは犬蓼 (いぬたで)の別名で、当然赤いです。死を前にして野草を懐かしむというのも、風情のある句ではないでしょうか。ちなみに泉鏡花は異常に潔癖症だったことで有名な作家で、食事は家で夫人の作るものしか口にせず、もらいものの菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)そうです。

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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

ビアンション!ビアンション(自作小説中の医者)を呼んでくれ!
あいつなら、私を救ってくれる……。

オノレ・ド・バルザックの最期の言葉。19世紀フランスを代表する小説家。なおド・バルザックの「ド」は、貴族を気取った自称である。イギリスの作家サマセット・モームは、『世界の十大小説』のなかで、バルザックを「確実に天才とよぶにふさわしい人物」と述べている。バルザックは90篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』を執筆した。これは19世紀ロシア文学(ドストエフスキー、レフ・トルストイ)のさきがけとなった写実的小説群である。『レ・ミゼラブル』で著名なヴィクトル・ユーゴーや、アレキサンドル・デュマの親友でもある。トゥールで生まれた。父親はトゥールの要職にある実務家、母親はパリ育ちで夫より30歳あまり年下だった。幼少時代からあまり母親に愛されず、生後すぐにトゥール近郊に住む乳母に預けられた。その後、寄宿学校に入れられて1807年から1813年まで孤独な少年時代を送る。その6年間に母親が面会に訪れたのは2度だけだった。母親からの愛の欠乏と、その後の彼の人生における女性遍歴の多さは、関連づけて言及されることが多い。バルザックの小説執筆スタイルは以下のようなものであった。まずコーヒーを牛飲し、主として夜間に長時間にわたって、何回も推敲を繰り返しながら執筆した。執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した。小説を書いている以外の時間は、社交界でご馳走をたらふく食べるか、知人と楽しく過ごすかのいずれかに費やされた。もはや伝説になっているバルザックの大食いは、(糖尿病が原因と思われる)晩年の失明や、死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われる。借金も豪放、食事も豪胆であった。事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックがつくった莫大な借金は、ついに彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人の巨額の財産がその損失補填にあてられた。

最後に自分の作品の登場人物を呼ぶとは、作家としてはなかなかかっこいい最期ではないでしょうか。実生活の方は滅茶苦茶なひとだったようですが、天才と呼ばれる人はそういう破滅的な人生を送った人が多いです。

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今日の辞世の句 

宗鑑はいづこへと人の問うならば ちとようありてあの世へといえ
   
山崎宗鑑の辞世の句。山崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者。本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、近江国の出身とされるが、本名・出自については諸説あり定かではない。室町幕府9代将軍足利義尚に仕えた(近習とも祐筆とも)が、義尚の陣没(延徳元年、1489年)後出家し、摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、建物は修復を重ねながら現地に残されている。宗祇・宗長・荒木田守武などと交流し俳諧連歌を興隆した。宗鑑の連歌作品として伝わるものはわずかであるが、俳諧連歌のもっとも早い時期に編纂された俳諧撰集「犬筑波集」があり、自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えた。なお、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。能筆家としても有名で生計は書を売ることによって立てていたとも伝わる。 晩年「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失うことになる。

宗鑑はどこへ行ったのかと人が問うならば ちょっと用(ヨウ)があってあの世へと言え

この人は俳諧の創始者です。一休禅師の弟子です。できものという意味のヨウと用事の用をかけるという、洒落を詠んで死ぬというのは中々できることではないと思います。こういう少しとぼけた所が、いかにも俳諧の創始者として良いと思います。

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今日の辞世の句 

風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん

浅野長矩の辞世の句。浅野長矩は播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。元禄赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名な大名である。寛文7年8月11日(1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際病院がある場所)において生まれる。延宝3年3月25日(1675年4月19日)に長矩が9歳の幼少で浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7日(5月1日)には四代将軍徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日(1675年6月16日)には、浅野長治(備後三次藩主)の娘阿久里姫との縁組が幕府に出願され、8月8日(9月27日)になって受理された。浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は吉良義央であった。そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。ところが、儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ、長矩が背後から近づいてきて、突然吉良義央に対して小サ刀(実戦用ではなくアクセサリー的な刀)で刃傷に及ぶ。。梶川が書いた『梶川筆記』によれば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。しかし浅野は本来突く武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春や高家衆、茶坊主達たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏と畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。刃傷事件はこれまでも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。長矩は庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。

風に誘われて散る花も名残り惜しいけど、それよりもなお楽しかった思い出を、私はいったいどうすれば良いのだろう。

忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の辞世の句です。赤穂藩は今の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町辺りで、たったの五万石ながら塩田の開発で財をなした藩でした。浅野家は文化事業にも力を入れており、古文書の編纂事業をしていたため、日本文学を研究するとよく浅野文庫のお世話になります。訳は多少意訳が入ってます。「春の名残」を何と約すかが肝でしょう。しかし、昔の人はこれから死ぬって時に、どうしてこんなに凄い歌が詠めるのでしょうか?

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今日の辞世の句 

みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず

冷泉隆豊の辞世の句。冷泉隆豊は戦国時代の武士。戦国大名大内氏家臣。大内義興に早くから仕え、その没後は子の大内義隆に仕えた。大永7年(1527年)、安芸国に進出して仁保島、国府城で戦う。天文20年(1551年)、大内氏の家臣の陶隆房が決起。隆房は周到な根回しを行っており、文治派以外では、義隆に味方する者はほとんどなかった。大内義隆は山口を脱出し、石見国の吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐で船が出せず、長門国の大寧寺へと入る。陶軍が大寧寺を包囲すると大内義隆は自害し、隆豊は介錯を務めた後、自身も陶軍の中に突撃して討死にした(大寧寺の変)。武勇に秀でていただけでなく、和歌にも堪能であった智勇兼備の士と言われており、その忠臣ぶりは、高く評価された。

見てみなよ、あれほど煙も雲も空高く巻き上げていた風も、今では消えてしまったなあ。
 
 この人は昨日の大内義隆の家来だった人で、義隆に最後まで付き従ったそうです。これは和歌として非常に上手い歌であり、辞世の句としては最もよくできたものの一つです。隆豊の家系は大内氏の庶流で、母方を羽林家の冷泉家とする冷泉興豊が、母の名字を冒して冷泉を称したことに始まるので、御子左家(二条家)の分家です。現在冷泉家の本家は同志社大学の隣にあります。御子左家は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて著名な歌人である藤原俊成・定家父子が現れてから、歌道の家として確立していますので、流石の出来栄えと言えるでしょう。

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