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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

愛の前に死がかくまでも無力なものだとは此瞬間まで思わなかった

有島武郎の最期の言葉。有島武郎は日本の小説家。東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の子として生まれる。横浜に移り、4歳から横浜英和学校(現横浜英和学院)に通う。学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1916年に妻と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年には『或る女』を発表した。しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。1922年、『宣言一つ』を発表し、1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く。しかし秋子の夫春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げた。

この言葉は有島武郎の5通の遺書の内の、足助素一にあてたものの一節です。明るい作風で知られる白樺派の人たちの中では、有島武郎は暗い人でした。有島武郎は「恋愛と死の堅い結婚」という言葉を秋子への手紙の中で書いていましたが、心中はその結果なのかもしれません。ただ師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」ということを言明し、有島武郎の自殺を批判しました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Macht mir den rechten Flügel stark!
我に強い右翼を!

アルフレート・フォン・シュリーフェンの最期の言葉。シュリーフェンはドイツの軍人。陸軍元帥。大モルトケの2代あとの、ドイツ帝国参謀総長。戦術家であり、第二次世界大戦に至るまで使われ続けた、対仏侵攻作戦「シュリーフェン・プラン」の考案者。1833年2月にベルリンで、プロイセン軍少将の 息子として生まれる。1854年に軍に入り、1863年に参謀本部に移る。1866年の普墺戦争には大尉、1870年~1871年の普仏戦争に少佐の参謀 将校として参加した。1905年に仮想敵国ロシア帝国とフランスに対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。この計画は大モルトケやヴァル ダーゼーの基本計画を具体化したものであった。露仏両国との二正面戦争を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで鉄道輸送 を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画を実現するため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備 や、輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れた。1911年に元帥に列せられたが、純粋に名誉的な措置であった。第一次世界大戦勃発の前年、最期は 1913年にベルリンで死去し、軍人墓地に葬られた。墓所には皇帝ヴィルヘルム2世により献花が行われた。

シュリーフェンがフランス攻撃計画でベルギーを通過するドイツ軍右翼を最重視して、常々この言葉を述べていたそうです。シュリーフェン・プラン は、第一次世界大戦冒頭に改変された形で実行されるが、シュリーフェンの計画とは異なりドイツ軍の進撃はマルヌの戦いで頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった塹壕戦・総力戦に移行することになりました。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かったようです。

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今日の辞世の句 

なかなかに世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身のとがにして

今川真氏の辞世の句。今川氏真は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれたためその領国を受け継いだが、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟の成立に寄与した。桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。『甲陽軍鑑』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている。里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も三条西実澄や冷泉為益が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。永禄11年(1568年)末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日、に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻)。12月12日、薩埵峠で武田軍を迎撃するため氏真も興津の清見寺に出陣したが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、駿府もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。最期は慶長19年(1614年)12月28日、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の一月長得が江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られた。

生半可に世の中や他人を恨んだりはするまい、時勢にあわなかった自分の罪なんだから。

今川真氏は普通大国を潰したバカ殿様の典型として書かれるが、実は歌道、蹴鞠、剣術に長けていたという逸話も残します。要するに趣味に溺れて、実務をないがしろにしたということでしょう。松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記していますが、これは国を統治する人間は過度に趣味に没頭してはならないという戒めです。真氏本人も最期には自分の過ちを理解し自責の念があったのか、辞世の歌でも反省しています。

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死にともなあら死にともな死にともな ご恩をうけし君を思えば

本多忠勝の辞世の句。本多忠勝は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。 忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。元亀元年(1570年)の 姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となっ て朝倉軍を討ち崩した。元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃 がし撤退戦を無事に完了させた。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加する。天正12年(1584年)の小 牧・長久手の戦いでの活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日、従五位 下・中務大輔に叙位・任官された。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に康政と共に、家臣団 中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近 として台頭してきたため、忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、不遇であった。慶長14年(1609年)6月、嫡男・本多忠政に家督 を譲って隠居する。慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63。

死にたくない死にたくない死にたくない ご恩を受けたあなたを思えば

非常にストレートな辞世の句です。この辞世の句は晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っていると言えるでしょう。名将としても忠臣としても名を残せたのは、彼の本望だったのではないでしょうか。歌は死にたくないという、自分の本心を正直に詠んでいるところに、好感が持てます。上手い歌ではありませんが、変に悟り済ましているよりも、よほど人間味のある辞世の句なのではないでしょうか。

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今日の辞世の句 

おのづから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそ又も結ばめ

諏訪頼重の辞世の句。諏訪頼重は戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大 社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。父の頼隆は天文8年(1539年)12月9日に死去し、頼重は祖父の頼満から後継に指名され、諏訪家の 家督を継ぐ。諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた。天文10年(1541年)5月13日には信虎・村上義 清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い、5月23日には海野平合戦で海野棟綱を破り上野国へ追放している。同年6月に甲斐では武田信虎が駿河へ追 放され嫡男武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ諏訪郡への侵攻を開始する。晴信は6月、諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏 訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽 閉された後に自刃する。頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。

自然に枯れ果てた草の葉も 主人あればこそまた芽吹くのだ

諏訪氏は武田、上杉、北条、今川らの強国と隣接していたために、何かと苦労の絶えなかった家です。実際この当時の甲信越は戦争だらけでした。また南北朝時代に全くの同姓同名の人物がいますが、その人とは別人です。辞世の句の方は自分たちが死んだとしても、宗家が絶えなければ再興できるという願いを 込めたものとなっていますが、実際に諏訪家は近世に中興され大名となっています。

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