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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

かかるときさこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思ひ知らずば
 
太田道灌の辞世の句。太田道灌は、室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務め才幹をうたわれた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。『永享記』などによると鶴千代は鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問 を修め、足利学校(栃木県足利市)でも学び、幼少ながらその英才ぶりが世に知られた。江戸城は、古河公方方の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両 勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があったので、資長(道灌)は秩父江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。道灌の活躍に よって主家扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていたが、最期は文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇 谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。

大田道灌が殺された時、暗殺者が「こんな時はよほど命が惜しいだろうね」と言ったのに対して「かねてより死ぬ覚悟ができてなかったらな」と言い返したという逸話のある辞世の句です。このエピソードは、新渡戸稲造の「武士道」にも勇気ある人物の最期として紹介されています。しかし『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを、曽我兵庫に襲われ斬り倒されたとなっており、死に際に「当方滅亡」という身も蓋も無いことを言ったという説もあります。これは自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言であったのでしょうが、実際道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走ったことにより、扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになりました。翌長享元年(1487年)山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げ、やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して後北条氏が台頭し、早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

石川や浜の真砂子はつくるとも 世に盗人の種はつくまじ

石川五右衛門の辞世の句。石川五右衛門は安土桃山時代の盗賊。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記などを史料として、同名の人物の実在が確定した。『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。あらゆる伝説の持ち主であるが、三好氏の臣石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいたとされている。伊賀流忍者の抜け忍であったのではないかという説もある。墓は京都の大雲院にある。

石川や浜の砂はつきたとしても 世の中に泥棒の種はつきはしない

伝説にまみれた人なのでこの句が実作なのかは分かりませんが、大泥棒としてのプライドと取るか言い訳と取るか、どういう印象を受けるか難しい歌だと思います。江戸時代には伝説の大泥棒として認知され、浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ人気を博したことは周知事実です。彼がこれほど人気を博したのは、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようなり、また権力者の豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたからでしょう。

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