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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

待てしばし勲のこしてゆきし友 あとなしたいて我もゆきなむ

山下奉文の辞世の句。山下奉文は、日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将である。官位は陸軍大将従三位勲一等功三級。太平洋戦争の緒戦 において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本の新聞はその勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評した。シンガポールの戦いの終結時に敵将イギリ ス軍司令官のアーサー・パーシバル中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名になったが、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・ 口調の会話だったという。しかし敗色が濃厚となった昭和19年(1944年)に第14方面軍司令官として起用され、日本軍が占領していたフィリピンの防衛 戦を指揮することになった。ダグラス・マッカーサーらの指揮する連合軍に対して善戦するが、台湾沖航空戦での誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決 戦を大本営から強いられ、本来予定していたルソン島での決戦を行うことはできなかった。つづくルソン島の戦いでは、ルバング島の小野田寛郎少尉からの「敵 艦見ゆ、針路北」との報告で、マニラ湾からリンガエン湾への迅速な陣地転換に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に 追い込まれている。昭和20年(1945年)9月3日フィリピンのバギオにて降伏した。降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニ ラにて軍事裁判にかけられ、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、死刑判決を受けた。最期はマニラで絞首刑に処せられた。処刑 は軍服の着用も許されず囚人服のままで行われている。

しばらく待って下さい勲功を残して死んでいった友よ 後を慕って私も行きましょう

マニラ大虐殺については、日本軍がやったのではなくアメリカ軍の砲撃での死傷者だったという説があり、事実ははっきりしていません。マッカーサーはフィリピンで山下に敗れたので、そのことの報復だったとも言われています。この人も歴史の闇に消えていった人ですね。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山かぜ

蒲生氏郷の辞世の句。蒲生氏郷は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(或いはレオ)。子に蒲生秀行。蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。永禄11年(1568年)、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り、織田氏の一門として手厚く迎えられた。武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。その後、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州の役や天正18年(1590年)の小田原の役などにも従軍する。また天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。最期は文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において死去。享年40。

限りあるものなのだから風が吹かなくても花は散るというのに 春の山風は気が短いな

蒲生氏郷は家臣を大切にしたとされ、諸大名からの人望も厚かったそうです。茶湯にも深い理解があり、利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられ、(千利休の死後、その子息・少庵は氏郷の許で蟄居している)。風流の利発人と評されています。和歌にも秀でており、会津から文禄の役に参陣途上、近江国武佐にて故郷日野を偲んで詠んだ歌「思ひきや人の行方ぞ定めなき我が故郷をよそに見んとは」が有名です。一方で「蒲生家では戦場に常に鯰尾の銀兜が先頭にある」という逸話が語られるほど、大将としては珍しく自ら陣頭に立って槍を奮う勇将でもありました。武辺談義や怪談など、話好きであったとも言われています。才人らしく辞世の歌はかなり上手くできているといえるでしょう。戦国時代の人らしい辞世の句と言えます。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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