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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

私は真実を愛する……とても……真実を愛している。

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの最期の言葉。トルストイは帝政ロシアの小説家・思想家。ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並んで19世紀ロシア文学を代表する巨匠。代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで伯爵家の四男に生まれる。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族だった。富裕な家庭ではあったが、2歳のとき母親を、9歳のとき父親をなくし、親戚の女性たちに育てられる。カザン大学に入学するが、成績はふるわず、2年足らずで中退。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いた。1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指すが、農民に理解されず失敗。モスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ったのちコーカサスの砲兵旅団に志願して編入される。1852年24歳のとき、その地で執筆した『幼年時代』がネクラーソフの編集する雑誌『現代人』に発表され、新進作家として注目を集める。クリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリで激戦の中に身をおく。軍での体験は『セヴァストポリ物語』(1855)や『コサック』(1863)などに結実し、のちに非暴力主義を展開する素地ともなった。退役後、ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられたが、都会の雰囲気になじめず、その後ヨーロッパを旅行するも、西欧の物質文明に失望する。幸福な結婚生活の中で書かれたのが、世界文学史上に残る傑作『戦争と平和』(1864-69)と『アンナ・カレーニナ』(1873-77)である。世界的名声を得たトルストイだったが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった。作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった。1891年から93年にかけてロシアを飢饉が襲ったときは、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられたが、政府側はトルストイを危険人物視した。1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなり、1901年には教会はトルストイを破門にしたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判した。夫人との長年の不和に悩んでおり、1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅)で下車した。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。

小説家とは真実を追い求めるものですので、この最期の言葉は彼の理想を表していると言えるでしょう。死ぬ時にこんなことが言えるのも、彼の小説家としての矜持でしょうか。彼の作品と思想は時代を超えてソ連時代も共産党から公認され、その地位は揺るぎませんでした。レーニンが愛読者であったことはよく知られています。ロシア以外ではロマン・ロランやトーマス・マンらがトルストイの評伝を書き、マルタン・デュ・ガールが1937年ノーベル賞受賞時の演説でトルストイへの謝意を述べるなど、その影響は世界各国に及んでいます。また一方でトルストイの非暴力主義にはガンディーらが共鳴しています。当然日本での評価も高く森鷗外や幸田露伴といった一流作家も重訳ながら短編を翻訳しています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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