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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあるらむ

柿本人麻呂の辞世の句。柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三 十六歌仙の一人。彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料 である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただ し、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとさ れ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。 その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では 140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌 に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、『記紀』の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国 家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益 田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる 場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承 の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂 吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている。

鴨山の岩を枕として死のうとしている私を そうとは知らずに妻は待ち焦がれているのであろうか

鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有

この歌は『萬葉集』巻二に「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌一首」として載せられています。残念ながら鴨山というのがどこにあるのか分かっていないので、この人の最期についてはよく分かっていません。生前身分の高いひとではありませんでしたが、後世に 彼ほど神格化された歌人もいないでしょう。歌人としては最高の栄誉を与えられたといえると思います。歌は少し寂しげなところがありますが、愛する人を想った情緒あるものになっており、偉大な歌人の最後の歌としてふさわしいものです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Truth and History.
21 Men.
The Boy Bandit King
He Died As He Lived
William H. Bonney "Billy the Kid"

真実と経歴。
21人を殺した。
少年悪漢王
彼は彼らしく生きて死んだ
ウィリアム・H・ボニー "ビリー・ザ・キッド"

ビリー・ザ・キッドの墓碑銘。ビリー・ザ・キッドはアメリカ西部開拓時代のアウトロー。ニューヨークに生まれ南部のニューメキシコ州で育ったと言われる。本名はウィリアム・ヘンリ・マカーティ (William Henry McCarty) とされるが、偽名としてヘンリ・アントリム (Henry Antrim)、ウィリアム・H・ボニー (William H. Bonney) という名前も知られている。南北戦争期でも特に知られたアウトローで、ワイアット・アープ、ジェシー・ジェームス等とならんで盛んに西部劇の題材となり、一つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である。彼の激しく、短い生涯は作家達に主題を与え、まずはダイム・ノベルと呼ばれる三文小説が、そして劇が、時代が下ると映画がビリーの生涯をさまざまな伝説で彩ることとなる。12歳の時に母親を侮辱した男を殺してアウトローとなったとされるが、研究者によれば実際には家を出たのが母が死んだ15歳の時、最初の殺人を犯したのが17歳の時であったという。10代はじめに殺人を犯してから死ぬまでに21人を殺害した(メキシカンやインディアンは含まない)とされるが、確実だと目される実数はおそらく9人(自分1人で4人、他の助けを得て5人)ではないかとも言われているが、無論今となっては事実はわからない。射撃にかんしては天賦のものがあったようで、馬を疾駆させながら杭に止まった鳥を次々に打ち落としていった技術を賞賛する同僚のカウボーイの証言が残されている。目は青く、史伝などによれば身長は5フィート8インチないし9インチはあったとされる(西部劇のヒーロー的にあまり背が低いとまずかったのかもしれない)が、研究者の残された写真のウィンチェスターライフルとの比較などの分析の結果、身長は5フィート3インチ(160cm)に足らないくらい、華奢な体つきで、キッドの二つ名通り小柄で非常な優男だったようである。よく知られた彼の特徴として、修羅場の最中でも常に上機嫌な笑顔を浮かべて哄笑を発しながら人を殺したという。ビリーを射殺した保安官のギャレットの本に拠れば、新聞ではビリーは反っ歯と言われているが前歯がリスのように大きくて歯列全体が前にでているので意識しないと笑うつもりがないのに笑ったような地顔であったとされている、手と足がとても小さかったとされているが、この二つの特徴も残された写真からよく読み取れる。ビリーが世話になったポーリータ・マックスウェルの証言などに拠れば、とても身なりに気を使う伊達者でファンタンゴの名手であったとされる。その時代のアメリカ西部の無法者としては口が達者で、異様に親しみやすい態度の持ち主であったという。リンカーン郡でイギリス移民ジョン・タンストールの売店の用心棒となったが、商売敵との縄張り争いが拡大し、リンカーン郡戦争と呼ばれる騒動に発展、過失で4人を射殺し1880年12月に友人でもあった保安官、パット・ギャレットによって仲間と共に逮捕される。1881年4月18日に刑務所を脱走。このことが『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ、有名となる。同年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーにてギャレットに射殺される。その時ビリーは丸腰で寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われる。享年21。

ビリー・ザ・キッドは犯罪者でありながら、非常に人気のある人です。彼の人気は後に作られた西部劇の影響でしょうけど、フィクションの力とは強力なものですね。さすがに21人も殺したのでは、闇討ちされても自業自得でしょうが、裁判なしの即処刑というのはいかにも西部劇のようだと思います。無頼の果てに死んで、後の世でいくつもの映画の主人公にもなれたのですし、本人もそれなりに満足しているのではないでしょうか。

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今日の辞世の句 

こしらへて有りとは知らず西の奧

早野巴人の辞世の句。早野巴人江戸時代の俳人。与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿と改める。下野国那須郡烏山(現・栃木県那須烏山市)に生まれる。延 宝5年(1677年)の生まれの説もある。幼くして(9歳の頃)江戸に出て俳諧の道を志す。元禄2年(1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿って 旅をする。再び江戸に戻り、宝井其角、服部嵐雪の門人となり俳諧を学ぶ。享保12年(1727年)京都に移る。 元文2年(1737年)砂岡雁宕の誘いにより江戸へ戻り、夜半亭を日本橋本石町に構える。この時に号を宋阿とする。この頃、江戸に出てきた与謝蕪村が門人 となる。寛保2年6月6日夜半亭にて病没。享年67。

早野巴人は一般的な知名度の高い人ではありませんが、優れた俳人です。与謝蕪村の師であり、夜半亭の二世は蕪村が継ぎました。句は意味が取りにくいですね。西の奥とは西方浄土のことでしょうか。だとすると、私は極楽が存在するのか知りませんという無常を感じたという意味になるのか、それとも極楽が作り上げてあるとは (今まで)知らなかったという、死を前にして極楽往生を感じたという句なのか、分かりかねます。ちょっと解釈の難しい句ですね。

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今日の辞世の句 

Turn up the lights, I don't want to go home in the dark.

ランプの灯りを大きくしてくれ。暗闇の中を通って家に帰りたくはない。

オー・ヘンリーの最期の言葉。オー・ヘンリーは、アメリカの小説家。主に掌編小説、短編小説を得意とし、381編の作品を残した。市民の哀歓を描き出した短編が多く欧米ではサキと並んで短編の名手と呼ばれる。映画化されたものも少なくない。米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師アルジャーノン・シドニーの息子として生まれる。3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。本好きではあったが、15歳で学業を離れた。知人のすすめにより1882年、テキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々として数年を過ごす。1884年、テキサスのオースティンに移り住んだ後、1887年にアトール・エステスと結婚。1894年に『The Rolling Stones』という諷刺週刊紙を刊行した。しかし、あまりうまくいかず、同誌は翌年4月に廃刊となり、『ヒューストン・ポスト』にコラムニスト兼記者として参加するようになった。1896年、以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴された。経営がうまくいっていなかった『The Rolling Stones』紙の運営費に回したと思われたのである。銀行側も周囲も好意的であったにもかかわらず、裁判が行われるオーストン行きの列車から降り、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。1897年には、妻の危篤を聞きつけて家にもどった。保釈金をさらに納め、数ヶ月間は妻の看病に徹したが、甲斐なく同年7月25日に先立たれた。1898年2月7日に懲役8年の有罪判決を受ける。この横領の真相については、彼自身が何も語らなかったため、よくわかっていない。服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可まで出されていた。模範囚として減刑され、1901年7月24日には釈放となった。釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方で、作家活動を続けたのであるが、その後、たった9か月で娘のいるピッツバーグを離れ、1902年にはニューヨークへと単身移り住んだ。1904年、処女作『キャベツと王様』が出版され、1906年にも『四百万』が発表された。1905年、ヘンリーに宛てて一通の手紙が届き、それが縁で1907年11月27日、幼なじみのサラ・リンゼイ・コールマンと再婚。新居を構えると、娘のマーガレットを呼び寄せ、新しい生活を始めた。しかし、過度の飲酒からこのころには体を壊しており、1908年には、家族はまたバラバラに生活をすることとなった。最期は1910年6月5日、主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、病院で生涯を閉じた。テキサス州オースティンにオー・ヘンリー博物館がある。

オー・ヘンリーは偉大な作家ではありましたが、最期の言葉は寂しいものになっています。彼の有名な『最後の一葉』を読んだことのない人でも、病床に伏せる女が、窓からみえる蔦の葉がすべて落ちたなら私の命も尽きるだろうと告げたので、それを聞き知った貧乏画家が絶対に墜ちることのないようにと、葉の絵を徹夜で壁に描いた結果……。という話だと聞けば知っていると思います。彼は庶民生活の哀歓を軽妙に描いた短編小説の名手です。ヘンリーの最期の言葉は、死ぬことで自分の家に帰っていくというつもりだったのでしょうか。はたして彼の帰る家とはどこだったのでしょう?

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今日の辞世の句 

我が君の命に代わる玉の緒を 何いとひけむもののふの道

鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の辞世の句。鳥居強右衛門は戦国時代の足軽。奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。奥平氏はもともと徳川家に仕える小大名であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けてその傘下に下っていた。ところが、武田家の当主であった武田信玄が死亡すると、奥平氏は再び徳川家に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城を徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも大小の攻撃を受けながら、長篠城は周囲を谷川に囲まれた地形が幸いして、城兵たちは果敢に防衛を続けていた。しかし、13日の武田軍の猛攻によって、城の北側にあった兵糧庫を焼失。長篠城は食糧を失って、長期籠城の構えから一転、落城寸前にまで追い詰められていた。このため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した。しかし、武田の大軍によって十重二十重に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。この命がけの困難な役目を自ら買って出たのが強右衛門であった。彼は雑兵・軽輩の類であったとされるが、一刻を争う非常事態である以上、身分をとやかく言っていられなかった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。彼は水泳を得意とする男で、川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらました。翌朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡。15日の内に岡崎城にまで赴いて援軍を要請した。この時、幸運にも家康からの要請を受けた尾張国の織田信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手はずとなっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、城の仲間たちにこの朗報を一刻も早く伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げるが、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令した。こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へ引き立てられた。しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「あと二、三日のうちに援軍が来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で強右衛門を磔にして殺した。しかし、強右衛門の命を賭した忠義と壮烈な死に様を見届けた長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にはしないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通す事に成功した。この事が5月21日の鳶ヶ巣山の局地戦や設楽原本戦の勝利を呼び込み、後年には徳川氏の天下統一を成立させる結果へとつながった。

我が君主の命に代わる私の命を 何と言えるだろうか武士の道

鳥居強右衛門はただの足軽にすぎないにもかかわらず、その一死をもって歴史に名を残した人です。「人もとより一死あり、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽し」とは中国の歴史家司馬遷の言葉ですが、彼の命を賭した忠義によって、ついに長篠城は落ちませんでした。上述の通り鳥居強右衛門は、長篠の戦の勝敗とその後の天下の行方を決した人物の一人であると言えるでしょう。たった一人の歩兵が歴史を変えたと言いたいのかって? 全くその通りです! 強右衛門の命を賭した行為は、後世忠義の見本として大いに賞賛され、太平洋戦争中には『戦陣訓』と関連付けて評価されました。鳥居強右衛門はその最期の地にちなんで、今もJR飯田線の鳥居駅にその名を残しています。

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