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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

大内を出にし雲の身なれども 出雲の浦の藻屑とぞなる

大内晴持の辞世の句。大内晴持は周防山口(山口県)の戦国大名。多々良姓大内氏当主大内義隆の養嗣子。実父は土佐中村の一条房冬。母は房冬の側室 であった大内義隆の姉。実は一条房家の四男と記す記述もある。幼名は太郎。元服して一条恒持と称し、大内家の養子となると同時に足利義晴から一字を賜って 大内晴持を名乗った。没後、養父の幕府への働きかけで将軍家から一字が追贈され大内義房となった。3歳の時に男子のなかった大内義隆の養嗣子となる。文武 に秀で和歌や管弦などの雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋もあってなのか義隆に可愛がられた。後に養子となった大友晴英(大内義長)の扱いに比べると雲泥の差である(養子になった後、義隆に嫡男・義尊が生まれたことが大きいが)。 1541年に出雲の尼子経久が没すと、義隆は1542年1月に晴持らを率いて出雲に出陣したが、三刀屋久扶、本城常光らの寝返りで大内軍は総崩れとなり、 義隆と晴持は別々の船で周防に退却することになった。しかし、船が途中で転覆したため、晴持は溺死。享年20。晴持の死後、義隆は幕府に工作して将 軍家の「義」の字を賜り、大内義房として弔った。このため、後世の系図には義房とも記されている。また、その死を哀れんだ人が晴持を社に祀り、大内権現 (大内神社)として残っている。

大内晴持は大大名である大内氏の養子となった上に文武に秀でており、将来を約束されたような立場にありながらも、僅か二十歳で死んだ悲運の人です。大内氏は後に毛利氏に滅ぼされますが、この人が生きていたらまた違った展開もあったかもしれません。人の運命と歴史とははかないものですね。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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