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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

住みなれし里も今更名残りにて 立ちぞわづらふ美濃の大牧

平田靱負(ひらた ゆきえ)の辞世の句。平田靱負は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。父は平田正 房、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。諱は宗武のち、宗輔、正輔。通称は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。宝暦治水の責任をとって自害した 後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する。享保20年(1735年)この年の旧暦2月2日に父の隠居により家督相続。また同年、日向国諸県郡馬関郷地頭兼 任。延享5年1月21日(1748年):島津宗信より家老に任じられ、同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の伊佐市大口地区》地頭職兼務。両方とも死去まで勤 める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。また、職田1千石を賜る。1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を 得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が 「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね(総額22万298両)、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終 的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害、享年50。遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。

住みなれた里も今更ながら名残おしくて 出発しようにも思い悩む美濃の大牧

平田靱負は鹿児島では小学校の道徳の副読本に掲載されており、その名を知らない人はいないと言っても過言ではない人物です。このような露骨な薩摩藩への弾圧をしたのでは、幕末に薩摩藩が討幕運動に走ったとしても因果応報と言えるでしょう。歌は死に臨む意志と名残惜しいという気持が拮抗して現れています。平田靱負も本当はこんな無茶な工事を、やりたくなかったことははっきりしているでしょう。元々薩摩藩の弱体化が目的だっただけに、残念ながらこの工事の効果はあまりなく、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われました。平田靱負は立派な人ではありましたが、これではその奮闘も空しいですね。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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