FC2ブログ
01 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.» 03

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Turn up the lights, I don't want to go home in the dark.

ランプの灯りを大きくしてくれ。暗闇の中を通って家に帰りたくはない。

オー・ヘンリーの最期の言葉。オー・ヘンリーは、アメリカの小説家。主に掌編小説、短編小説を得意とし、381編の作品を残した。市民の哀歓を描き出した短編が多く欧米ではサキと並んで短編の名手と呼ばれる。映画化されたものも少なくない。米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師アルジャーノン・シドニーの息子として生まれる。3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。本好きではあったが、15歳で学業を離れた。知人のすすめにより1882年、テキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々として数年を過ごす。1884年、テキサスのオースティンに移り住んだ後、1887年にアトール・エステスと結婚。1894年に『The Rolling Stones』という諷刺週刊紙を刊行した。しかし、あまりうまくいかず、同誌は翌年4月に廃刊となり、『ヒューストン・ポスト』にコラムニスト兼記者として参加するようになった。1896年、以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴された。経営がうまくいっていなかった『The Rolling Stones』紙の運営費に回したと思われたのである。銀行側も周囲も好意的であったにもかかわらず、裁判が行われるオーストン行きの列車から降り、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。1897年には、妻の危篤を聞きつけて家にもどった。保釈金をさらに納め、数ヶ月間は妻の看病に徹したが、甲斐なく同年7月25日に先立たれた。1898年2月7日に懲役8年の有罪判決を受ける。この横領の真相については、彼自身が何も語らなかったため、よくわかっていない。服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。刑務所での待遇は良く、獄中で薬剤師として働いていたため、監房ではなく刑務所病院で寝起きし、夜の外出許可まで出されていた。模範囚として減刑され、1901年7月24日には釈放となった。釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた。『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方で、作家活動を続けたのであるが、その後、たった9か月で娘のいるピッツバーグを離れ、1902年にはニューヨークへと単身移り住んだ。1904年、処女作『キャベツと王様』が出版され、1906年にも『四百万』が発表された。1905年、ヘンリーに宛てて一通の手紙が届き、それが縁で1907年11月27日、幼なじみのサラ・リンゼイ・コールマンと再婚。新居を構えると、娘のマーガレットを呼び寄せ、新しい生活を始めた。しかし、過度の飲酒からこのころには体を壊しており、1908年には、家族はまたバラバラに生活をすることとなった。最期は1910年6月5日、主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、病院で生涯を閉じた。テキサス州オースティンにオー・ヘンリー博物館がある。

オー・ヘンリーは偉大な作家ではありましたが、最期の言葉は寂しいものになっています。彼の有名な『最後の一葉』を読んだことのない人でも、病床に伏せる女が、窓からみえる蔦の葉がすべて落ちたなら私の命も尽きるだろうと告げたので、それを聞き知った貧乏画家が絶対に墜ちることのないようにと、葉の絵を徹夜で壁に描いた結果……。という話だと聞けば知っていると思います。彼は庶民生活の哀歓を軽妙に描いた短編小説の名手です。ヘンリーの最期の言葉は、死ぬことで自分の家に帰っていくというつもりだったのでしょうか。はたして彼の帰る家とはどこだったのでしょう?
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0