02 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

帰りこん時ぞと母の待ちしころ はかなきたより聞くべかりけり

神保修理の辞世の句。神保修理は幕末期の会津藩の軍事奉行添役。会津藩家老・神保内蔵助の長男。初名は直登。諱は長輝。神保内蔵助利孝の長子として生まれる。神保家は藩内の名門の一つであり家禄は1000石であった。幼少の頃より学問に秀で容姿は閑雅であったと伝えられている。藩校・日新館で勉学に励んでいた時代は、周囲から秀才と謳われた。長輝が多感な年代を迎えた頃、折りしも黒船来航にはじまる鎖国の終焉、更には安政の大獄、尊王攘夷運動など幕末動乱の気運が高まっていた時代であった。その影響もあり、海の向こうの異国の情勢にも目を向け、国内の小事より国をひとつにして外国に対すべし、という持論を強くもつようになっていく。藩主・松平容保は、各藩で行なわれている藩政改革に遅れまいと会津藩内においても人材登用と軍制改革を断行。とくに長輝と佐川官兵衛の将来を嘱望していたとされ、藩の重役に登用する。ほどなく容保が京都守護職を拝命してのちは側近くにあって容保に随行し国事に奔走した。同じ頃、長輝の才覚にいち早く目をつけていた藩内の実力者・野村直臣の仲介で、軍学者である会津藩700石・井上丘隅の次女・雪子と婚礼を結んだ。慶応2年(1866年)、容保は長輝の優れた国際感覚を買い長崎に派遣。藩兵組織と教練方法を西洋化に改革すべく、長輝に視察を命じている。その改革によって教練を受けて生まれたのが、白虎隊である。慶応3年10月、大政奉還によって風雲急を告げ、長輝もまた長崎から大坂へ帰還。12月の王政復古によって事態の収拾が不能となると、長輝は高揚する主戦論に対し不戦恭順論を将軍慶喜に進言。江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。これにより、会津藩の内部において主戦派急先鋒である佐川官兵衛らと激しく対立した。翌慶応4年1月、結局戦いは避けられず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。長輝は軍事奉行添役として会津藩の軍権を持ち出陣。しかし、旧幕府側は兵力で圧倒しながら戦況が思わしくないことに加え、旗色をうかがっていた鳥取藩などの寝返りによって不利な状況に転じたことに慄然となり、挙句に倒幕軍側より錦の御旗が翻り、朝敵となることを恐れた長輝は将軍慶喜と主君容保に恭順を進言した。しかし折悪く、将軍以下、容保までが長輝を残し大坂城を抜け出して江戸へ脱出したことで急速に戦意を喪失した幕府軍は崩壊し、あっさりと官軍に勝利をもたらす結果となった。総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、長輝が将軍に恭順を進言したことにはじまると会津藩内で一方的に意見が上がり、ついには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人としての烙印までも押されてしまった長輝は和田倉上屋敷に幽閉される。会津内部では、長輝の処罰を容保に迫る動きが加速する。長輝の窮地を救おうと親交のあった幕臣の勝海舟は、身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて画策したが、これが裏目に出て抗戦派の怒りを買った。長輝を処断すべしと動いた有志らの陰謀により三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。

帰って来るだろう時だと母の待っていたころに はかないたよりを聞くべきだったな

国外事情に通じていた長輝は、後年活躍する多くの志士の思想に影響を与え、長州藩士の伊藤俊輔(後の博文)など、奇しくも倒幕派の若者たちに支持されていました。こうした西方の志士との接触が多かったことが官軍と通じていたのではないか、という疑念を生み長輝の恭順の態度が非難されるきっかけともなったとされています。神保修理は敗戦の責任を取らされて切腹させられましたが、鳥羽・伏見の戦いが長引いていた方が日本のために良かったとは思えません。神保修理を救おうとした勝海舟は、長輝の死を知って悲しみ貴重な逸材を失ったことを惜しんだそうです。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

2012新歓ビラ製作 


【新歓ビラ2012】

2012新歓ビラ


2012新歓のビラを製作しました。

今回のポイントは、Twitterをビラにするという。なかなか画期的な発想です。ええ。

ただ、Twitter画面を印刷するだけじゃ芸が無いので、Twitterの画面をべ-スで見やすいように工夫したり云々。

Category: かつどう!

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

Here lies a man who was able to surround himeself with men far cleverer than himself.

自分より賢い人間を自分の周りにおく方法を知っていた者ここに眠る

アンドリュー・カーネギーの墓碑銘。アンドリュー・カーネギーはスコットランド生まれ、アメリカ出身の実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収め「鋼鉄王」と称された(後に会社は売却され、合併してUSスチール社となる)。彼は、事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、今日でも慈善家としてよく知られている。また、ナポレオン・ヒル・プログラムの創始者、ナポレオン・ヒル博士に自身の成功哲学に基づく成功プログラム開発を発注したことでも有名である。1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた。当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカへの移住を決める。アメリカへ移住した後、12歳のカーネギーは学校へ行かずに紡績工場で働く。その後、何度か転職し、ピッツバーグ電信局の電報配達の仕事に就く。当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、16歳のカーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、電信技士に昇格した。その後、トーマス・A・スコットに秘書兼電信士として引き抜かれ、ペンシルバニア鉄道へ入社する。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。1861年に南北戦争が始まると、北軍に味方するスコットに同伴し、軍の輸送を支援した。南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、事業家となる。当時の鉄道の橋は木製が多かったが、彼は耐久性に優れた鉄製の需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成功した。さらに、技術革新により鋳鉄よりも強靭な鋼鉄の大量製造が可能になり、鉄道のレールや建築へ使用されることを予見し、製鉄事業の規模拡大に力を注ぎ、鋼鉄王と呼ばれた。しかし、従業員の労働環境は劣悪であった。1901年に、鉄鋼会社をモルガンへ4億8000万ドルで売却し、以後は慈善活動を行った。

意外に思うかもしれませんが、19世紀後半から20世紀初期の米国で、アンドリュー・カーネギーを含め産業界の指導者の多くは「反軍備」「反戦争」の立場であり、産業としての軍備に反対していた。アメリカ反帝国主義連盟のメンバーでした。彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べていますが、同時に社会ダーウィン主義の実践者でもあり、不平等な状態を是としました。それゆえ無条件に貧しいものへ与えることを有害とし、努力する者を支援するために、富が使用されるよう寄付する者が責任を持つべきだとしています。この彼の思想はプロテスタント的な、資本主義の精神を体現していると言えるでしょう。そのため、彼は自分が今まで稼いできた資産の全額を寄付に廻しています(カーネギーが、死ぬ前年までに寄付した総額は、3億5069万ドルに達したそうです)。彼は「富を持って死ぬことは不名誉である」と主張し、死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、スタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践しました。彼はアメリカンドリームと、アメリカ的な寛大な精神を両立させた数少ない人物の一人であると言えるでしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

さめぬなりひとたび眠りたる山は

京極杞陽(きょうごく きよう)の辞世の句。京極杞陽は俳人。本名は高光、豊岡京極氏13代当主。華族令が廃止される前までは子爵の爵位を持つ華族であった。1934年 に東大を卒業すると欧州遊学の旅に出掛け、その途上の1936年4月、渡欧中の高浜虚子を迎えるベルリン日本人会の句会に参加。入選句が虚子の目に留まって親しく面識をえた。これをきっかけとして、帰国後はホトトギス発行所の句会をはじめ各所の句会に参加して俳句の研鑽を積み、早くも虚子が主宰する俳誌 『ホトトギス』の1937年11月号で初巻頭を飾った。俳人として順調なスタートを切ったが、職業的には同年から出仕した宮内省式部官の職が本職であった。1940年に推挙されて『ホトトギス』の同人となり、誌上において「静かなる美」、「皮相と内奥」など自らの俳論を発表。感傷を斥け、感覚的に対象の 持っている機微をつかみ、表現することに重点を置く立場から、既存の俳句概念にとらわれない句も多い。俳句のほか、随筆や俳諧詩も得意分野とし、高濱年尾 発行の『俳諧』では多数の俳諧詩を発表している。豊岡移住以降も、高濱虚子の忠実な門人として師や同門の俳人達と行動を共にすることが多く、虚子が没する までほぼ毎年、ともに国内各地へ旅して句作を行った。 1961年には豊岡移住以降の句から虚子が選んだものを第二句集『但馬住』として上梓。この間、『ホトトギス』には9回巻頭に選ばれ、杞陽俳句が次第に確立されてゆく。以降、虚子没後の喪失感の中で詠まれた第三句集『花の日に』、豊岡で詠まれた句が中心の第四句集『露地の月』などがある。1981年に死去 し、遺句集として『さめぬなり』が編まれた。

京極杞陽は但馬豊岡藩主京極家の13代当主で華族でしたが、その人生は公務よりはよりも趣味に生きた人でした。眠った山とは京極本人のことでしょう。趣味人らしい辞世の句だと言えるでしょう。あまり生にたいして、思い残すこともなかったから「覚めぬ」などという言葉を使っているのだと思います。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

Steel True、Blade Straight

鋼のように真実で刃のように真っ直ぐだった

アーサー・コナン・ドイルの墓碑銘。アーサー・コナン・ドイルはイギリス・スコットランドのエディンバラ生まれの小説家で、推理小説・歴史小説・SFを多く著した。1902年8月9日にKnight Bachelorに叙せられた。『シャーロック・ホームズ』シリーズに登場する史上最高の名探偵シャーロック・ホームズを生み出した事で知られ、エドガー・アラン・ポーとともに現代の推理小説の生みの親とされている。現実社会でもジョージ・エダルジ事件、オスカー・スレイター事件で被疑者の無実を主張し、冤罪を晴らすために力を尽くした。また、冤罪を防ぐために刑事事件の控訴院を設立することに尽力した。SF分野では『失われた世界』、『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『白衣の騎士団』、『勇将ジェラールの回想』などを著している。1859年、スコットランドの首都・エディンバラで、イングランド生まれの役人の父とアイルランド人の母の間に生まれた。イエズス会系のインデペンデント・スクールであるストーニーハースト・カレッジ(Stonyhurst College)に学んだが、学校を離れた1875年にキリスト教を拒絶して不可知論者となった。その後1876年から1881年にかけてエディンバラ大学で医学を学んだ。この頃、古典文学の廉価版の古本やエミール・ガボリオ、エドガー・アラン・ポーの作品を愛読した。1885年、患者の姉であったルイーズ・ホーキンズと結婚した。彼女は結核のために1906年に死去した。ドイルはその後1897年の出会いのときに一目ぼれをしたものの、妻を気遣って精神的なかかわりをもち続けていたジーン・リッキーと1907年に再婚した。1887年のクリスマス、最初のシャーロック・ホームズシリーズである『緋色の研究』が『ビートンクリスマス年鑑』に発表された。あちこちの出版社から断られ続けた挙句ワード・ロック社と25ポンドで著作権買取という条件にて世に出た作品である。発表後はしばらく売れずドイルはもうホームズ物は書くまいと考えていたが、アメリカの雑誌リピンコット・マガジンからの依頼を受けて書いた『四つの署名』がリピンコット・マガジン1890年2月号に掲載されるとホームズは莫大な人気を博した。だが、ドイル自身は自らの歴史小説やSF物のほうに価値を感じ、シャーロック・ホームズシリーズを快くは思っていなかった。『白衣の騎士団』のような中世の騎士道を描きたかったといわれる。19世紀と20世紀の世紀転換点の時期に南アフリカで起こり、世界中からイギリスによる露骨な帝国主義的行動に非難が集中したボーア戦争に従軍し、『南アでの戦争:原因と行為』と題された小冊子を執筆した。この冊子は他国でも広く翻訳出版されることとなった。この冊子の功績により、1902年にイングランド南部のサリー副知事に任命され、また同年Knight Bachelorに叙せられた。晩年は、第一次世界大戦での息子キングスリーの死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。交霊会や心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義の聖パウロ」の異名を取った。1948年、短編の遺稿が発表された。

コナン・ドイルは推理小説の生みの親として、あまりに有名な人でしょう。しかし彼は、ホームズシリーズの高すぎる人気とホームズを実在する人物のように扱われることにうんざりしていたそうです。コナン・ドイルはコティングリー妖精事件に関わったことで有名ですが、元々ドイル家は妖精の絵を画いた人物を何人も輩出した家でした。彼が妖精の捏造写真を本物と信じ込み、晩年に心霊学に傾倒したことも彼の出自と関係があるでしょう。SFともファンタジーとも言える、彼の作品にも彼の神秘への希求が強く表れていると思えます。墓碑銘は社会正義の実現に尽力した、彼の性格を表したものでしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。