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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Quoth the Raven nevermore

大鴉いわく、永遠になしと

エドガー・アラン・ポーの墓碑銘。エドガー・アラン・ポーは、アメリカ合衆国の小説家、詩人、雑誌編集者。マサチューセッツ州ボストンに生まれる。生まれた直後に両親を失って商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごした。ヴァージニア大学に進むも放蕩から退学を余儀なくされ、その後陸軍入隊、士官学校を経て作家として活動を始める。以後さまざまな雑誌で編集者として勤めながら、ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」、初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取った。1833年、当時まだ13歳だった従兄妹ヴァージニア・クレムと結婚するが、1847年に貧苦の中結核によって彼女を失い、その2年後にポー自身も謎めいた死を遂げた。ポーはアメリカ合衆国において文筆だけで身を立てようとした最初の著名な作家であったが、文名を得てからもその生活はほぼ常に貧窮の中にあった。その作品は当初は本国アメリカ合衆国よりもむしろヨーロッパで評価され、特にボードレールによるポーの翻訳はフランス象徴派の文学観形成に大きく寄与した。またポーが「モルグ街の殺人」で作り出したC・オーギュスト・デュパンの人物像は以後の推理小説における探偵の原型となっており、そのほか科学的知見を取り入れた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』などの冒険譚はジュール・ヴェルヌら後世のSF作家にも影響を与えている。ポーの最期は1849年10月3日、ポーはライアン区第四投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」にて異常な泥酔状態に陥っているところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、四日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となった。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなった。その上奇妙なことにポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。一説にはポーの最後の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」("Lord help my poor soul")であったという。

ポーの墓はボルティモアのウェストミンスター・ホール墓地にあります。当初は粗末なものでしたが1873年になって、ポーの墓所を訪れた南部の詩人パウル・ハミルトン・ハイネがポーの墓の惨状を新聞記事で伝えたことをきっかけに、1875年、ポーは教会の正面の場所に埋葬しなおされ、墓碑が立てられました。アメリカ合衆国でポーの評価が行なわれるのは、死後約1世紀を経てフランス、イギリスでの高い評価が伝わってからからであり、本国より先にヨーロッパのポーの作品はとくに象徴派の文学者たちに高く評価されました。ポーは日本での評価も高く、江戸川乱歩がその名をもじってペンネームにしたのは有名です。その他谷崎潤一郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、芥川龍之介といった人達が影響を受けています。この墓碑銘はポーの物語詩『大鴉』の中の一節で、『大鴉』の主人公が大鴉の重々しい様が面白くて、戯れに大鴉に名前を聞くと、「Nevermore(二度とない)」と大鴉が答えるというシーンのものです。『大鴉』はその音楽性、様式化された言葉、超自然的な雰囲気で名高い作品で、心乱れる主人公(語り手)の元に、人間の言葉を喋る大鴉が謎めいた訪問をし、主人公はひたひたと狂気に陥っていく、という話です。『大鴉』はポーの名声を高め、人々は彼と詩を同一視し、ポーに「大鴉」というニックネームをつけたので、この墓碑銘の大鴉とはポー自身のことなのかもしれません。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

重く散って 軽く掃かるる 一葉かな

巌谷小波の辞世の句。巌谷小波は明治、大正期の作家、児童文学者。巖谷家は近江水口藩の藩医の家柄で、父の一六(いちろく)は明治政府の高級官僚 でのち貴族院議員、書家として著名であった。少年期より文学に興味をもち、裕福な家庭に育った。1891年(明治24年)、博文館の「少年文学叢書」第1 編として出版した児童文学の処女作『こがね丸』が、近代日本児童文学史をひらく作品となり、以後博文館と組んで児童文学に専心し、種々の児童向けの雑誌や 叢書を刊行した。作品の多くは彼自身が編集する博文館発行の雑誌「少年世界」(1895年創刊)に掲載された。以後同社の「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などの主筆となって作品を執筆、さらに「日本昔話」(1894年~1896年)、「日本お伽噺」(1896年~1898年)、「世界お伽噺」(1899年~1908年)など、大部のシリーズを刊行した。今日有名な『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届いたもので、児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。

巌谷小波は日本の児童文学の開拓者であると同時に育成者でもあり、後進の指導にも熱心で、創作家のみならず童話口演の分野でも新人を育てています。内外の昔話や名作をお伽噺として平易に書き改める仕事の他にも、童話の口演や戯曲化も試み、全国を行脚してその普及に努めました。またアンデルセンやグリム童話を日本で初めて紹介した人でもあります。この辞世の句は死の理想のようなものを表しているように思えます。散るは重く、掃かれるは軽く、これは生きるは重く、死ぬのは軽くとも言えるでしょう。多くの人は反対に感じ反対をやりますが、本来はこうあるべきだと思います。

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