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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

これでよし 百万年の 仮寝かな

大西瀧治郎の辞世の句。大西瀧治郎は旧日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)出身。海軍兵学校第40期生。幼い頃よ り、日露戦争の軍神・広瀬武夫に憧れて海軍を志し、旧制柏原中学校を卒業後、海軍兵学校へ入学した。海兵40期卒業。兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、砲術学校、水雷学校を経て1916年横須賀航空隊付きで航空へ進む。1918年(大正7年)にはイギリスへ留学、帰国後の1921年(大正10年)、海兵40期同期の千田貞敏、吉良俊一らと共に選抜され、センピル教育団の講習に参加した。その後は海軍航空隊の養成に尽力した。真珠湾攻撃の作戦計画の原案を作成したのも大西である。連合艦隊司令長官山本五十六に非常に信頼されていた彼は、第十一航空艦隊参謀長であった1941年1月下旬、山本から「ハワイを航空攻撃できないか」という腹案を示され、基本計画作成の依頼を受けた。大西は「特攻生みの親」として有名ではあるが、パイロット育成には時間と金と労力がかかることをよく理解しており、特攻作戦のために貴重なパイロットを損失することに対して否定的であり、特攻作戦採用に際しては初期の段階では否定していた。1945年5月、大西は海軍軍令部次長に起用された。 大西は軍令部着任後は機帆船での逆上陸構想を推進していた。富岡によれば軍令部では大西だけが熱心であったという。大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を訴えた。日本の敗戦を見とどけると、8月16日、「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決。遺書には特攻で散華した兵士達への謝罪と共に、生き残った 若者に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけて半日以上苦しんで死んだという。享年54。

特攻隊の指揮をとったことは、彼にとってかなりきつかったのだと思います。関係者は大西について「もし(特攻作戦を行って)戦争に勝っていたとしても彼は自決していただろう」と言っています。戦後の評価では大西が特攻を行うには、上層部の承認や指揮官の協力があったはずなのに、全て責任が大西に押し付けられているとも言えます。大西の人柄は腹の据わった押しの強い闘志満々の士と評判であり、常に陣頭に立ち下から慕われていました。 智勇に優れた山本五十六と似た気風を持っていたようで、机上の空論や口先だけの人か、実力あり腹据わり信頼置けるかが好き嫌いの基準であったそうです。とはいえ大西が終戦間際にも、戦争と特攻隊の継続を訴えたのはまた事実ですので、そのあたりも評価の分かれるところでしょう。大西の最期については次のような話が残されています。終戦も近い頃、内閣書記官長・迫水久常が書記官室で執務をしていた時、不意に大西が来訪してきました。当時の大西は和平反対論者として様々な妨害工作を行っていましたので、迫水も自分を脅迫しに来たのだろうと構えていましたが、大西は席に座るなり訥々としゃべりだし、「我々は今回の戦いにおいて劣勢を覆すべく、様々な努力をしてきた。しかし、やることなすこと全て誤算と敵に裏をかかれる失態をさらすだけの結果となり…挙句そのつけを若い人達、国民に強いている。……我々は甘かった。本当に甘かった…。」と苦悶の表情を浮べながら話し、最後に「……何か良い考えはないですか……。」と静かに半ば憔悴しきった顔になって部屋を出て行ったそうです。大西が割腹自決を遂げたのはそれから2ヶ月後のことでした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

命をもおしまざりけり梓弓 すゑの世までも名の残れとて

別所友之の辞世の句。戦国時代後期・安土桃山時代の武将。別所安治の次男。通称彦進。兄に別所長治、弟に別所治定がいる。若年でありながら、勇猛で近隣に勇名を轟かせる。兄の長治に従い、織田信長に反抗する。しかし、長治から命を受けて宮の上の構えを守っていたが、羽柴秀吉の軍勢に攻め込まれ、善戦するも空しく、長治ら3200の兵が籠る三木城に合流した。 しかし、1580年に味方は降伏。友之は17歳の妻を先に刺殺し、長治の脇差で切腹自害した。享年21。『信長公記』では長治と友之の享年をそれぞれ26、25としている。

命さえ惜しまなかったあずさ弓 世の末まで名が残れと

梓弓とは元々は、神事などに使用されるアズサの木で作られた弓のことで、材質に関わらず弓のことを梓弓と呼ぶこともあります。古くは神事や出産などの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用されることもありました。枕詞としての梓弓は春(張る)、引くなどを導く。 ほかにも、いる、はる、本、末、弦、おす、寄る、かへる、ふす、たつ、矢、音などの語句を導きます。一般的には武士の象徴と言えるでしょう。この歌は力の限り戦ったことを詠んだ歌になっていますが、三木合戦は羽柴秀吉による「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めにより、最終的には城兵の命を助けるという条件で城主一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦は終了しました。やはり兵糧が尽き果て、思うように戦えずに負けたことの悔しさがあったのでしょう。友之の妻は「たのめこし後の世までに翅をもならぶる鳥のちぎりなりけり」という辞世の句を残しています。

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今日の辞世の句 

Nothing's So Sacred As Honor
And
Nothing's So Loyal As Love.

名誉ほど神聖なものはなく
そして
愛ほど忠実なものはない

ワイアット・ベリー・スタップ・アープの墓碑銘。ワイアット・アープはアメリカ西部開拓時代の保安官。イリノイ州生まれ。20歳のころバッファロー狩りで 生計を立てガンマンとして有名になった。1870年、ウリラ・サザーランドと結婚・死別後、1875年にはカンザス州ウィチタの保安官事務所で働いていた が、1876年4月、仲間と口論して解雇された。1878年、やはりカンザス州のフォード郡ドッジシティで新たに保安官事務所に勤務し、1878年、保安 官チャールズ・バセットの下で保安官助手に任命された。1879年9月にやり方の荒っぽさからドッジシティを追放され、アリゾナ州のトゥームストーンに移り住み農業のかたわら賭博場の胴元になった。3か月後、兄のバージル・アープがトゥームストーンの保安官に就任した。1881年、アープ兄弟はクラントン 兄弟をはじめとするカウボーイズと呼ばれる土着の牧童達(牛泥棒などの不法行為をもっぱらとしていた)と対立を深めていた。10月26日、「フライ写真館の隣にある空き地から、フリモントストリートに出たあたりで、カウボーイズが銃を所持しているので、武装解除するべき」との 市民の忠告を受け、バージルは、ワイアット、モーガン、友人のドク・ホリデイと共に彼らを武装解除するべく出かけたが、撃ち合いとなり、カウボーイ組5名 中3名を射殺した。世に言うOK牧場の決闘である。 決闘後、アープ組は殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。この判決を受け、カウボーイズはバージルとモーガンを闇討ちし、バージルは腕を、モーガンは 命を失う。その後、ワイアットはモーガン殺害の実行犯と見られたフランク・スチルウェルをツーソン駅構内で殺害したと言われている。 この事件によってカウボーイズ派の郡保安官ジョン・ビアンにより逮捕状が出され、ワイアットはカウボーイズの追及を受けることとなる。 一方ワイアットも連邦保安官助手の資格を得ており、保安官同士が互いを付け狙いあうという異常事態となった。 結果として、カウボーイズのリーダー格のカーリー・ビル、リンゴ・キッドが殺害され(アープ組が殺害したと見なされているが事実は不明)、ワイアット、ド ク・ホリデイはコロラドに逃走して一連の事件は終息する。晩年ロスアンゼルスに定住し西部開拓時代の伝説的な生き証人になっていたが、映画監督のジョン・ フォードと親交を持ち彼の西部劇製作に影響を与えた。1929年1月13日、ロスアンゼルスにて膀胱炎で死去。80歳。

西部劇のヒーローは数多くいますが、ワイアット・アープはもっとも有名な人物の一人でしょう。彼は西部劇では必ず正義のヒーローとして描かれますが、史実 ではかなりの無法者で、劇作家によって作り上げられた伝説のヒーローの好例でしょう。ワイアット・アープは、ワイルド・ウエストの時代には案外無名で、彼くらいの銃の腕前の人物なら他にも大勢いたそうですが、大抵の伝説のガンマンが、最期は誰かに撃ち殺されているのに対して、彼は非常に長生きした珍しい人 でした。またワイアット・アープは、映画などでバントライン・スペシャルと呼ばれる拳銃(作家ネッド・バントラインがアープに贈ったとされる、コルト・シ ングル・アクション・アーミーの銃身が非常に長い特注モデル)を使っていたとされていますが、これは伝説で本当に使っていたかどうかは定かではありません。ワイアット・アープの出てくる作品で最も有名なのは、西部劇の神様と言われたジョン・フォード監督の名作「荒野の決闘」でしょう。この映画でワイアッ ト・アープの名声は不動のものとなったと言えると思います。墓碑銘は著者不明ですが、彼の伝説の通り非常に立派なことが書かれています。自分の死後に後世 の人達が、ここまで持ち上げてくれるのなら、彼もまんざらではないのではないでしょうか。

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吉野の花見 

去る4月21日。

毎年恒例、立命館大学戦史研究所桜会主催の花見を行いました。

今年は、いつもの京都を飛び出して奈良県、吉野の里へ。

吉野と言えば、『太平記』でお馴染みの戦史浪漫溢れる空間。そして、何より、桜で有名です。

今回は、幹事が文学部の人間でしたので、古典紀行のような体裁になりまして、本居宣長の『菅笠日記』をテーマに吉野の花見散策を行いました。

ちなみに今回の旅のテーマは

『太平記』の舞台でもあり、戦史浪漫溢れる吉野の里を、本居宣長の『菅笠日記』を参考に花見散策をする。

です。

以下、フィールドワークの活動報告を、この場を借りて私(=平成24年度桜会主幹事)がさせて頂きます。

 『菅笠日記』は、本居宣長43歳のときに吉野へ花見をしに行ったときの記録であって、その成立は、谷川士清の宣長宛書簡(明和九年五月七日付)に、「よし野紀行御認披成候旨こは面白事共多かるへく拝見仕度事に奉存候」とあり、これに対する明和九年六月四日の宣長の谷川士清宛書簡には、「よし野紀行清書いたし候所、こゝかしこより見せよと候ゆゑ、まづいそぐ方へ見せ候ぬ、かへり候はん程見せ奉りて賢評をうけ給りてん」とあることから、旅のスグ後(宣長が松坂に帰宅したのは明和九年三月十四日)だと分かります。
 この谷川士清と本居宣長の書簡のやり取りは、大変興味深いものがありますが、それは兎も角、ここで目を引くのが、「よし野紀行」と呼ばれている点です。これは恐らく俗称で、その俗称からもわかる通り、この日記は明和9年3月5日~14日の10日間に渡って宣長が吉野に花見をしに行った旅の記録で、その宣長の吉野紀行は、上田秋成をはじめ、吉野を旅する当時の人々にとって、いわば、「観光パンフレット」のように親しまれていたと思われます。
 芭蕉も「野ざらし紀行」で吉野を書いていますが、宣長の『菅笠日記』は、吉野の記述はもちろん、途中の大和の山陵、宮跡、古寺社等の古跡探索の記録からも成り立っており、日記を通して、宣長の関心やその態度が伺え宣長を知る上でも、大変興味深いものがあります。宣長研究の先駆者である村岡典嗣はその著書『本居宣長』の中で、この宣長の旅行を「彼が生涯の旅行中、最も注意すべき旅行」(警醒社書店1911年p44) 「彼がこの旅行は、吉野の花見が目的であったが、その結果は、優に一つの研究旅行であった。彼がこの旅行によって、古文明の故地を訪ひ、古典の実跡を踏査して学問上に幾多の功果を得、思想上に幾多の影響を得たことは、言ふをまたぬ。」(前同p47)と評しています。実際、『菅笠日記』を読むと、寺社や古跡を訪ねる宣長の姿勢にその興味関心が伺え、義経や正行に対する宣長の評価を通じて彼の歴史観を考えさせられ、そして、彼の考証的筆致には、職業病とも言える学者としての宣長の姿が生き生きと描かれていて、旅の日記を通じて宣長という人を少し垣間見れたような気になります。

 そんな『菅笠日記』ですが、読みは、表題に「須我笠能日記」とある通り、「スガガサノニキ」です。どうやら上代語の用法のようで、宣長自身、巻末にもわざわざルビをふっているので、読みは注意してください。「すげがさにっき」なんて読んだら宣長に怒られます。宣長の自筆稿本については『本居宣長全集18巻』の解説に詳しいですが、自筆稿本は松坂の本居宣長記念館に所蔵されています。「菅笠」は、宣長が実際に旅で使った菅笠のことで、この装束も宣長記念館にあるようです。そしてまた、先述の谷川士清と本居宣長の書簡も本居宣長記念館に所蔵されています。本居宣長記念館はいつかフィールドワークで伊勢神宮に行く際に寄りたいと思います。

以上ざっと説明したこの『菅笠日記』を参考に、宣長を追いかけながら吉野の花見散策をしました。宣長記念館のサイトでも扱っているので参照してください。


まず、午前9時京都駅集合・・・のはずが、所長とニーチェさんが何故か京都駅への道を間違えて遅刻。(お前ら何年京都に住んでるんだ)

そして、所長は、何故か徹夜でこの日のための栞を作っていたようで完徹。相当に顔色が悪い。

所長、ニーチェさん遅延を全力で謝罪し近鉄で一路吉野を目指す。(9:40頃)

車中、所長が無駄に徹夜で作ったしおりを使って『菅笠日記』の読み合わせと、確認。

その日記の冒頭というのが、


今年明和の九年といふ年、いかなる佳き年にかあるらむ。「よき人のよく見て、よし」と言い置きける、吉野の花見にと思ひたつ。万葉一によき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見つ。そもそもこの山分衣のあらましは、廿年ばかりにも成ぬるを、春ごとに障りのみして、いたづらに心の中にふりにしを、然のみやはと、あながちに思ひ起して、出発つなん有ける。さるは何ばかり久しかるべき旅にもあらねば、その急ぎとて、殊にするわざもなけれど、心は忙はし。


→吉野へ花見に行こう行こうと思っていながら、いつもついつい春を逃してしまう宣長。


なんという俺ら


(車中会話)

「ねえ、この『よき人』って何。」

「賢き人。上代の。万葉集略解に書いてあるには。」

「で、誰の歌?」

「天武天皇。天武天皇八年(679)五月五日、吉野行幸詠。(棒読み)」

「へえ。上田秋成も読んでたのか。まさに、観光パンフだね。」

「っていうかさ、じゃあ、宣長以降の人間は、菅笠日記読んでたとして、宣長は何を参考に吉野まで行ったのさ?」

「はは。」

「調べてきました。貝原益軒『大和巡』、並河誠所『五畿内志』。日記文の地理描写はほぼ全面的にこれらに依拠していると思われ。」

「そもそも、それどういうの?並河って誰?」

「・・・。」

「ねえねえ、さんかれあ観た?」

「吉野桜咲いてんのかよ」

ガヤガヤ(社内迷惑)

以下略。

>>12時過ぎ吉野着

「人多っ」

「多いわあ」

「みんな宣長の巡礼者?」

「違いない。」

「アイス食べようぜ」

「トイレどこトイレ」

ガヤガヤ





取り敢えず、日記を片手に歩く。


先ずは、名前に釣られて、「桜のシンフォニー」会場へ。(ラボメン達の頭に「ましろ色シンフォニー」が浮かんでいるのは言うまでもない)

桜のシンフォニーin蔵王堂




目的地情報① 蔵王堂
金峯山寺の本堂。本尊の蔵王権現を祀る。金峯山は修験の道場として、平安・鎌倉時代を通じて隆盛を極めた。『太平記』巻二十六の「吉野炎上の事」に、蔵王権現の由来が記されている。


宣長の日記には、

「さて蔵王堂に詣づ。御帷かゝげさせて見奉れば、いともいとも大きなる御像の、怒れる御顔して、片御足捧げて、いみしう恐ろしき様して立給へる。」

とある。

この「いともいとも大きなる御像」とは、蔵王権現のこと。拝観料が1000円ということで、所長が、断じて行かぬ。どうしても行かぬとご立腹なので、後ろ髪引かれる思いで華麗にスルー。すると、桜のシンフォニーなるイベントが始まった。謎のラヴソングが流れてくる。

ラボメン「・・・!?」

所長「おおい、行くぞ行くぞ。なんだありゃ。」

「いや、なんだろ。ま、行きましょう。」

桜のシンフォニー。

謎である。

そして、今ひとつ謎なのは、所長が、さっきからずっと『宇宙兄弟』のOPを歌っていることです。

徹夜明けでテンションが若干可笑しいご機嫌な所長の鼻歌を聴きながら、吉水院へ。

本当は、宣長の記述では、「堂の傍らより西へ、石の階をすこし下れば、すなわち実城寺也。」のはずだが・・・。

目的地情報② 実城寺
建武三年(1336)、後醍醐天皇が行宮とし、寺号を金輪王寺と改称するが、崩御。徳川時代に金輪王寺を修復、元の実城寺に戻すが明治の廃仏毀釈によって廃寺。現在南朝妙法殿が建っている。


大失敗。南朝妙法殿をスルーして吉水神社に侵入してしまった。(誰か気づけよ)

というわけで、残念な感じで吉水神社。


目的地情報③ 吉水院
吉水神社のこと。古来、吉水院と称した。金峯山寺の僧坊であったが、明治初年の神仏分離令で明治8年3月廃寺となり神社となる。祭神は、後醍醐天皇、楠木正成。南朝4代60年に及ぶ吉野朝皇居跡で、南朝関係文書が多く、『太平記』にも縁が深い。文禄三年、秀吉の花見の本陣にもなる。


「ここは、大和巡に『後醍醐帝京都を逃れさせ給ひ、此寺に潜幸ありし時、先此院へ行幸ありて、行宮〈りか〉とし、後に実城寺に移り給ふ』とあるように、後醍醐天皇が京都を落ち延びてやってきたところで、宣長は、いにしへの心を汲みてよし水の深きあはれに袖はぬれけり(菅笠日記)と詠んでいるところですな。」

と皆でしおりを読み合わせているところで、「ああっ!!」っと所長が叫ぶ。



「お、これが千本桜か!」

「へえ。」

「ま、微妙ですな」

「ちが~うっ!この阿呆がっ!」

「なんすか。斎藤一ですか。」

「牙突零式っ!違う。」

宣長の日記はこうある。

「こゝより見渡すところを、一目千本とかいひて、大方吉野のうちにも、桜の多かる限りとぞいふなる。げにさも有ぬべく見ゆる所なるを、誰てふをこの者か、さる卑しげなる名は付けけんと、いと心づきなし」

「をこの」は「阿呆」という意味で、「一目千本などと、どこの阿呆がそんな下品な名前をつけてやがんだ!」と宣長先生は怒ってらっしゃる。「一目千本」なる大きな看板を観た所長はそれを思い出したらしい。

そして、宣長の記述はこう続く。

「花は大方過ぎて、今は散り残りたる梢ども」

ご明答!

一同うなづいて、神社の中へ。



南朝の皇宮を見学するのに、400円かかるという。入るか入るまいか悩んでいたところ、なんと、宣長の古文書があるという噂を耳にして、いざ中へ。そこにあったのは、宣長の自画自賛像だったのだが・・・以下略。

(写真があるラボメンはテキトーに追加しといてね)

少し歩くと、勝手神社。

が、つい最近、炎上したようで閉鎖中。



目的地情報④ 勝手神社
古くから勝手大明神の名で知られ、吉野八社明神の一つ。『太平記』巻二十六「吉野炎上の事」に、「主上勝手の宮の御前を過ぎさせたまひける時、寮の御馬より下りさせたまひて、御涙の中に一首かくぞおぼしめしつづけさせたまひける。憑(たの)むかひ無きにつけても誓ひてし勝手の神の名こそ惜しけれ」とあり、後村上天皇は歌に、戦勝を祈った効果もなくその勝つという社の名を惜しく思う、と涙を流して詠まれたという。

宣長の記述では、「勝手の社は、この近き年焼ぬる由、今はただいささかなる仮屋におはしますを、拝みて過ぎゆく。」

この神社は、いつも燃えてるのか。

パリは燃えているか

勝手の社は燃えているか



その後、色々ありながら、





水分神社までたどり着く。



この神社は、宣長と非常に縁が深い。

目的地情報⑤ 水分神社
宣長の思い出。水分→子守の語変化については、『菅笠日記』本文及び『玉勝間』にて言及。思ひ出(いづ)るそのかみ垣に手向して麻より繁く散る涙かな(菅笠日記)
「その神の恵みによって世に生れ、人となった自分の身を思ひ、己になき人となった父及び母を忍んでは、敬虔なる彼の心は切なる感を覚えざるをえなかった。」(前掲村岡1911p43)
Cf)『家の昔物語』→宣長の吉野の神に対する信仰

宣長の親夫婦は、子供がなかなか出来ず、この神社に詣でて、男の子が授かるようにと祈ったら、宣長が生まれたという。そのお礼参りを宣長が13歳になったらさせようと父親は思っていたらしいが、その父は宣長11歳の時に亡くなった。その後、13歳時付き人と一緒に御礼参りに期待来、30年ぶりに縁の深いこの神社を訪れて、宣長は感慨にふけり涙を流すというわけ。

そして、なんと、この旅はここで終わるという。宣長が二日間かけた旅を半日で回ろうというのが間違いだったのさ。

以下、しおりに書いてあったのに行けなかった目的地情報。


目的地情報⑥ 金御峯神社
金峯神社。吉野八社明神の一つ。祭神は吉野山の総地主神、金山毘古命。『栄華物語』巻八「はつはな」、『大鏡』道隆伝に、道長が参詣したと記されている。宣長は義経を華麗にスルー「すべてさることは、ゆかしからねば、目留めても見ずなりぬ」(菅笠日記)

目的地情報⑦ 西行庵
花見つゝすみし昔のあととへばこけの清水にうかぶおもかげ (菅笠日記)

目的地情報⑧ 如意輪寺
義経と正行との評価の違い。「帝の御ためにまめやかなりける人なれば、かの義経などとは様(よう)変わりて、哀れと見る。」(菅笠日記)「今度ノ軍(いくさ)ニ一足モ引カズ、一処ニテ討死セント約束シタリケル兵百四十三人、先皇ノ御廟ニ参テ、今度ノ軍難義ナラバ、討死仕ベキ暇ヲ申テ、如意輪堂ノ壁板ニ各名字ヲ過去帳ニ書連テ、其奥ニ、返ラジト兼テ思ヘバ梓弓ナキ数ニイル名ヲゾトドムル、ト一首ノ歌ヲ書留メ、逆修ノ為ト覚敷テ、各鬢髪ヲ切テ仏殿ニ投入、其日吉野ヲ打出テ、敵陣ヘトゾ向ケル」(『太平記』巻二十六「正行吉野に参る事」)



随分長くなって疲れたので、もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。

かへり見るよそ目に今も限りにて又も別るゝみ吉野の里 (菅笠日記)


(写真加工及び補足写真及び説明は随時やってください)

以上、フィールドワーク報告。


結論:吉野の桜は思ったほど大したこと無く候。

Category: かつどう!

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今日の辞世の句 

われ死なば焼くな埋めな新小田に 捨ててぞ秋の実りをばみよ

松浦武四郎の辞世の句。松浦武四郎はは江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師である。雅号は「北海道人」。蝦夷地を 探査し、北海道という名前を考案した。伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)の郷士・松浦桂介の四男。山本亡羊に本草学を学んだ。早くから諸 国をめぐっており、天保9年(1838年)には平戸で僧となり文桂と名乗った。弘化元年(1844年)に還俗し蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太 にまで及んだ。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開 拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞して からは余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。明治3年(1870年)、北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描いて いる。晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。遺骨は、武四郎が最も好きだったと いう西大台・ナゴヤ谷に1889年に建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる。なお、生地の三重県松阪市小野江町には「松浦武四郎記念館」が建っている。

私が死んでも焼くな埋めるな新たに開いた田に 捨てて秋の実りを見よ

松浦武四郎はその行程の長さと記録類の多さでは、群を抜いている探検家です。「久摺日誌」、「納沙布日誌」や「東蝦夷日誌」など二百四十種類ほど の刊本を残しています。歌は普通に埋葬してもらうよりも、開拓地にて死ぬのが本望だという彼の本音を現したものでしょう。彼は現在の日本人には珍しいフロンティア・ スピリッツの持ち主だったのだと思います。詩人ではありませんでしたが、この人も旅に生き旅に死ぬを実践した人だと言えるでしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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