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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Norton I
Emperor of the United States
and
Protector of Mexico

ノートン1世
合衆国皇帝
そして
メキシコの庇護者

ジョシュア・ノートンの墓碑銘。ノートン1世はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ市に実在した伝説的な王位請求者。共和制・連邦主義の合衆国において自身をその皇帝と自称し、更には当時アメリカと敵対状態にあったメキシコの護国卿(Protector)として帝位請求を行った。ノートン1世ことジョシュア・エイブラハム・ノートン(Joshua Abraham Norton)はイギリス生まれのイングランド人で、南アフリカで幼少期を過ごした資産家の子息であった。彼は1849年にサンフランシスコに邸宅を購入してアメリカに移り住み、父親から受け継いだ遺産4万ドルを運用して一財を作った。成功した実業家として裕福な生活を送っていたが、ペルー米の投機に失敗して破産した事を契機に正気を失ったのだとされている。彼の行為は打算や野心ではなく、狂気に陥った事によるものだと考えられるが、彼の皇帝として要求した内容は温和なものであり、そればかりか実際に先進的で価値のある発想に富んでいた。特にサンフランシスコにかかる大橋とトンネルの建設というアイデアは予測として正確で、後に実現されている(サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、トランスベイ・チューブ)。全くの無名で前歴も不明であった人物の大胆な帝位請求は真剣にこそ受け取られなかったが、次第にサンフランシスコ市の住民達の間で知られた存在となっていった。多くの人は君主制には賛同しなかったが「皇帝勅令」に親しみ、温和で平和的な人格から市民にとって愛すべき著名人として敬愛した。ジョシュア・エイブラハム・ノートンの出生地はイングランドであるという事以外、明確な証明を持たない。様々な論者がテルフォードなど彼の出身地と考えられる場所に言及しているが、資料によって異なる見解が示されている。同様に生年月日も明確な記録はなく,サンフランシスコ・クロニクル紙に掲載された彼の追悼文では「彼の生年に関する最も頼りになる情報は、棺に付いていた銀のプレートにおよそ65歳没と刻まれていたことのみである」としている。1858年に破産宣告を出して以後、ノートンは邸宅を去って行方不明になり、次第に正気を失ったものと考えられている。失踪してから一年後、後年の彼が述べるところの「自発的亡命」を終えてサンフランシスコに舞い戻ったノートンは唐突な行動を起こした。彼は合衆国の政治体制(共和制、連邦主義)に著しい不備があると考え、それを絶対君主制の導入によって解決するという不可思議な信念に囚われていた。そして彼は自らがその旗印として帝位請求者にならんと決意したのである。1859年9月17日、彼はサンフランシスコの新聞各社に手紙を送り、下記のように「合衆国皇帝」たることを宣言した。即位宣言は悪戯として正当な扱いを受けなかったが、声明を受け取った新聞社の一つであるサンフランシスコ・コール紙がジョークとして皇帝宣言を掲載した新聞を発行した。かくして現在まで語り継がれる、21年間にわたる「帝都サンフランシスコ」を拠点にした合衆国皇帝ノートン1世の帝位請求が始められたのである。ノートン1世は主にサンフランシスコの日刊紙上に数多くの国事に関する「勅令」を投書として送りつけ、これを帝位請求における主要な活動とした。絶対君主制に移行したアメリカ合衆国においては皇帝による親政が行われる必要があり、議会制度は廃止されるべきであるとして、ノートン1世は1859年10月12日をもってアメリカ合衆国議会の解散を命令した。この勅令は「謀反を起こした」ワシントンの政治家たちによって黙殺された。もっと厳しい措置が必要と考えたノートン1世は1860年1月、新たな皇帝勅令を発して帝国軍に反乱者どもを一掃するよう命じた。しかし帝国陸軍は皇帝勅令を拒否して従わず議会を支援し、実務は議会に委ねられ続けた。ノートン1世の治世は共和制と立憲君主制による議会統治の双方を否定し、彼ら帝国の不忠者達と対峙する事に費やされた。1860年には連邦制の廃止と結社の禁止を勅令により宣言した。 議会主義者達との戦いは皇帝の支配期間を通じて止むことがなかった。皇帝は嫌々ながらではあるものの、次第に議会の活動継続を許すようになっていった。しかし不服従な議会の挑戦を受けていつもくすぶっているこの対立に対する皇帝ノートン1世の対抗手段は先鋭化していった。1869年8月4日ノートンは皇帝勅令によって無造作に民主・共和両党を廃止した。ノートン1世は南北戦争の時期、合衆国国民の間で起こった多くの醜い争いを解決することを希望して、1862年にはプロテスタントとカトリックの全教会に対し彼を皇帝に任命するよう命令した。皇帝の勅令を調べることで、このアメリカ唯一の君主の精神状態を推測しようとするいくつかの試みがあったが、おそらくノートンは統合失調症患者であった。この精神状態にはしばしば誇大妄想が観察されるためである。彼の奇矯な振る舞いにも拘らず、また実際の精神状態とも無関係に、忘れてはならないのは、皇帝ノートン1世が時として予見的発想を示しており皇帝勅令は少なからず彼の視野の広さを示しているということである。「国際連盟」の設立を命じたり宗教・宗派間の紛争を禁じたりする指示にそれが表れている。さらには、皇帝はしばしばオークランドとサンフランシスコを結ぶ懸架式橋梁の建設を命じており、後の発言には当局がその命令に不服従であることに対する苛立ちが強く示されている。彼の度重なる命令にも拘らず、架橋命令はずっと後になって実行された。サンフランシスコとオークランドを結ぶサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの建設は彼の死後、実に55年経た1933年に始まり1936年にようやく完成した。1867年、アーマンド・バービアという警官がノートンを捕え、彼の意に反して精神病の治療を受けさせようとした時、騒動が持ち上がった。この逮捕はサンフランシスコの市民と新聞による強い抗議を引き起こしたのである。警察署長パトリック・クロウリーはすぐに対応し、ノートンを釈放して警察として公式に謝罪した。ノートンは寛大にもこの若い警官バービアによる大逆罪に特赦を下した。この騒動以降、警官たちは通りで皇帝に会った時は敬礼するようになった。大衆は公然と皇帝ノートンを敬愛していた。ほとんど金を持たなかったにも拘らず彼はしばしば最上級のレストランで食事をとり、そこのオーナーは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートをレストランの玄関に飾った。セントラルパシフィック鉄道は食堂車で食事をした皇帝に支払いを請求したために不興を買い、勅令によって営業停止命令を受けた。多くの市民が皇帝を支持し、反響に驚いた鉄道会社は皇帝に金色の終身無料パスを奉呈して謝罪した。ノートン1世の地位には実際に公式な承認の細かい記録がある。1870年の国勢調査はその統計表において彼を、「ジョシュア・ノートン、住所;コマーシャル・ストリート624番地、職業:皇帝」と記している。彼はまた小額の負債の支払いのために独自の紙幣を発行しており、それは地域経済において完全に承認されていた。この紙幣は50セントから5ドルまでの額面で発行されていたが、今日のオークションではその希少価値のため1000ドルを超える値が付いている。サンフランシスコ市はその「権力者」に名誉を与え敬意を表した。その軍服が古びてくると市当局は盛大な儀式とともに新品を買うのに足りる分を支出した。その見返りに皇帝は感状を送り、終身貴族特許状を発行した。1880年1月8日の晩、皇帝ノートン1世は科学アカデミーでの講演に向かう途中で倒れた。ある警官が大急ぎで一台の馬車に救援を要請し、皇帝を病院に運んだが、馬車が病院に着く前に皇帝は息を引き取った。翌日サンフランシスコ・クロニクル紙は「Le Roi Est Mort」(「王は逝けり」)という見出しで一面に追悼文を載せた。記事の雰囲気は悲しみと敬意にあふれたものだった。「みすぼらしい敷石の上で、月のない暗い夜、しのつく雨の中で…、神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世陛下が崩御された」。サンフランシスコのもう一つの主要紙モーニング・コール紙はほとんど同じ見出しで社説に「神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世陛下が崩御」と掲載した。皇帝崩御は遠く州外にまで報じられ、ニューヨーク・タイムスは「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」と評する追悼記事を掲載した。皇帝ノートン1世は完全な貧困の中で亡くなったが、彼の持ち物は、持っていた5,6ドルの現金と、コマーシャル・ストリートの下宿の部屋の捜索で見つかった2.5ドル、散歩用ステッキのコレクション、ヴィクトリア女王と交わした書簡、1,098,235株の無価値な金山の株だけだった。ノートンが残したものでは貧民墓地への埋葬がやっとなのは明らかだったので、ビジネスマンたちの集まり、パシフィック・クラブは荘厳な葬儀を営むための資金集めを始め、最後には大規模で厳粛・荘厳な葬送の式典ができるだけの資金が集まった。「…全ての階層の人々が皇帝に敬意を表した。資本家から貧民まで、商店主から泥棒まで、身なりのよいご婦人から卑しい出自だと見た目でわかる者たちまで」誰もが皇帝との別れを惜しんだ。いくつかの記録では3万の人々が棺が墓地に運ばれた時に垣をなし、棺に続く葬列は2マイルに及んだと言われている。1934年、皇帝の遺骨は改葬され、彼は今カリフォルニア州コルマのウッドローン墓地に眠っている。

ノートン1世はこの世に存在した、皇帝、王、貴族の中で僕の最も好きな人物の一人です。彼の人柄と霊感的な先見の明には、心底感服します。日本で例えると、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」たちの代表的存在である熊沢天皇が近いと思いますが、そのカリスマや実行力、賢明さでは遠く及ばないでしょう。ノートン1世の人徳を示すエピソードは数多く残されていますが、例えばサンフランシスコでは1860年代から70年代にかけて、低賃金で働いて雇用を奪う中国系住民に対する白人市民のデモが市内の最も貧しい地域でしばしば行われ、それらはいたるところで流血の事態に発展していました。ある時このようなデモのひとつに皇帝ノートン1世が居合わせると、彼は暴徒たちとリンチを受けそうになっている中国系住民たちの間に立ち、頭を垂れ何度も主の祈りを口ずさみました。それを聞いた暴徒たちは、恥じ入って解散したそうです。剣や銃弾で暴徒を鎮圧した為政者はいくらでもいますが、暴徒に頭を下げ祈をもって鎮圧した皇帝は、人類史上彼一人だけだと思います。疑似新興宗教(≒冗談宗教)ディスコルディアではノートン皇帝は実在した人間のうちでは最高の霊的段階にある第二位の聖者とされており、その聖典、「不調和原論(Principia Discordia)」の記述にはジョシュア・ノートンに関する次の標語があります。「誰もがミッキーマウスを理解する。ヘルマン・ヘッセをわずかの人が理解する。ほんのひとにぎりの人がアルベルト・アインシュタインを理解する。そしてノートン皇帝を理解する者は一人もいない。」確かに彼のことを理解できる人間はいないでしょう。しかし多くの人民から愛された彼の存在は、我々に権威とは何であるのかという重要な問いを発しています。誰からも理解されなかった一徹者、その人徳と霊感で多くの市民から愛された、サンフランシスコが生んだ疲れ知らずの情熱人、合衆国最初で最後の皇帝ノートン1世に栄光あれ!
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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