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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

ねかはくは花のしたにて春しなん そのきさらきのもちつきのころ

西行の辞世の句。西行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の9代目の子孫。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入る。後に高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。

願わくば桜の木の下で春に死のう その二月の満月の頃に

この歌は厳密に言うと辞世の句ではありません。ですが西行が、自分の死についての望みを詠んだこの歌の通りに死んだことは、多くの人に共感を与えました。西行が出家した理由として最近主流になっている説は、「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)に記されている、親しい友の死を理由に北面を辞したというものです。他にも『源平盛衰記』には、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したと記されています。また近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった、待賢門院璋子であると考えられる女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したと書かれています。『源平盛衰記』や『西行の物かたり』は歴史書ではないので、フィクションの可能性が大きいと思われます。西行は『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるほど絶大な評価を受けた歌人でした。歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現する中世的叙情の先駆けであり、宗祇・芭蕉にいたるまでその影響は甚大です。この歌に見られるように西行は和歌だけでなく、その生き方まで日本の文学に大きな影響を与えた人です。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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