FC2ブログ
03 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

おほけなき空の恵みも尽きしかど いかで忘れん仇し人をば

波多野秀尚の辞世の句。波多野秀尚は戦国時代の武将。波多野晴通の次男。兄は波多野秀治。天正3年(1575年)の第一次黒井城の戦いにおいて織田信長は、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいた。総大将となった明智光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲した。この頃の戦況は明智光秀に有利であり、『八木豊信書状』によるとこの戦況について光秀は「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と楽観しており、事実、戦いは順調に推移していた。しかし攻城戦開始後2か月以上が経過した翌天正4年(1576年)1月15日、波多野秀治軍が裏切り3方向から攻め立て明智光秀軍は総退却となった。天正5年(1577年)10月、第二次黒井城の戦いを開始する。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させた。この二城を丹波国征討戦の本拠地とした。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとった。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)3月に八上城と氷上城の包囲を完成させる。波多野秀尚は兄の秀治とともに八上城で、籠城して明智光秀軍と戦うが1年半に及ぶ攻防の末、降伏した。極度の飢餓状態になった八上城に対して、『信長公記』によると「調略をもって」という記載がある事から、八上城兵に対して働きかけがあったと思われている。最期は秀治とともに安土に送られ、慈恩寺で磔刑に処せられた。

身分不相応な天の恵みもつきたけれど どうして仇の人を忘れられようか

かなり恨みの入った辞世の句です。潔いとは言いがたいですが、この人の執念のようなものを感じる句と言えます。激戦の末に敗れたのが、よほどくやしかったんでしょう。ただ第一次黒井城の戦いでは、先に波多野一族の方が裏切っており、あまり同情する気持ちはわいてきません。第二次黒井城の戦いは織田側の勝利となり、これで事実上丹波国征討戦は終了し、翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになりました。
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past

だからこそ我々は、流れに立ち向かうボートのように、不断の決意で進み続けるのだ。絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドの墓碑銘。スコット・フィッツジェラルドはアメリカの小説家。失われた世代を代表する作家の一人。フィッツジェラルドは北西部ミネソタ州のセントポールに生まれた。カトリックを信仰する両親は共にアイルランド系の家系であり、母モリーはセントポールにおける著名な実業家の娘であった。名前の由来となったアメリカ国歌の作詞者フランシス・スコット・キーは父方の遠縁にあたる。1913年、プリンストン大学へと進学した。大学では、終生の友人であり後に自身の編集者を務めることになるエドマンド・ウィルソンと出会っている。ウィルソンはフィッツジェラルドの一学年上級であった。フィッツジェラルドは大学で詩作や演劇の脚本を書くなどしていたが、アカデミックな雰囲気に居心地の悪さを感じていたといわれ、1915年には単位不足と病気の為一時大学を休学しミネソタへと帰省している。さらに1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると大学を中退し陸軍へと入隊したが、第一次世界大戦は1918年に終結し、内地勤務のままヨーロッパへと渡る事なくフィッツジェラルドは陸軍を除隊した。1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときだった。1922年に出版された二作目の長編小説『美しく呪われし者』は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていた。そして1925年には『グレート・ギャツビー』が出版されている。後世、この作品によってフィッツジェラルドは、1920年代アメリカのいわゆる「ジャズ・エイジ」や「フラッパー」の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の一人として認められるようになる。しかし発表当時は、流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品という程度の受け取られ方で、批評家の受けは良くても、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず売れなかった。この世紀の名作が正しい評価を受けるのはフィッツジェラルドの死以降であり、生前には絶版になった時期すらある。フィッツジェラルドは1920年代の終わり頃から4つ目の長編に取りくみ始めたが、生活費を稼ぐ為に収入のいい短編を書かざるを得ず執筆は遅滞した。不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし』と題して1934年に出版された。しかし恐慌下のアメリカでフィッツジェラルドは既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなかった。絶望からしだいに彼はアルコールに溺れるようになっていった。1930年代の後半フィッツジェラルドは、借金の返済と娘の学費を稼ぐためにシナリオライターとして映画会社と契約しハリウッドに居住した。この時期、彼は自身のことを「ハリウッドの雇われライターだ」と自嘲していたという。アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたフィッツジェラルドは心臓麻痺を何度か起こした。最後の小説を執筆中の1940年12月21日、フィッツジェラルドは再び心臓麻痺をおこしグラハムのアパートで死亡した。

この墓碑銘は『グレート・ギャツビー』の一節から引用されたものです。フィッツジェラルドは、その才能の割に報われない人生を送った人でした。フィッツジェラルドの最後の長編は未完成のままに終わりましたが、後に整理され1941年に『ラスト・タイクーン』として出版されました。この作品も彼に十分な収入と環境があれば、完成していたかと思うと残念です。墓碑銘の文章は素晴らしいですね。ここまで流麗な英語を使いこなせる作家や詩人は、そうはいないかと思います。不遇の人生を送りながらも、数々の名作を書き上げてきた彼らしい墓碑銘と言えるでしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0