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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

白露や死んでゆく日も帯締めて

三橋鷹女(みつはし たかじょ)の辞世の句。三橋鷹女は俳人。本名たか子。千葉県に生まれる。1916年に成田高等女学校を卒業、若山牧水、与謝野晶子に私淑し作歌。1922年、剣三の俳号を持つ俳人であった歯科医師東謙三と結婚、俳句の手ほどきを受ける。1929年、原石鼎の「鹿火屋」に入会し原に師事。1934年「鹿火屋」退会、小野蕪子の「鶏頭陣」に参加(1939年まで)。1936年「紺」創刊に参加。1942年、長兄の病死により三橋家の跡を継ぐ。1953年、高柳重信の誘いを受けて富沢赤黄男の「薔薇」に参加、1958年、同誌の後継誌「俳句評論」に参加しのち顧問。句集に『向日葵』『魚の鰭』『白骨』『羊歯地獄』『ぶな』がある。昭和47年4月7日死去。享年72歳。

鷹女は昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに4Tと呼ばれましたが、4人のなかでも表現の激しさと前衛性において突出した存在でありました。辞世の句も彼女らしい、死に対して凛とした句になっています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

(処刑前に天皇陛下萬歳を三唱しましょうかという問いに答えて)
「俺は死ぬ前には冗談は言はないよ。」

北一輝の最期の言葉。北一輝は、戦前日本の思想家・社会運動家。 本名は北 輝次郎(きた てるじろう)。早稲田大学聴講生の時に、社会主義に傾倒する。中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼。このことから「片目の魔王」の異名を持つ。国家社会主義者で、1923年、「日本改造法案大綱」で国家改造を主唱、その後の国粋派右翼のバイブルとなった。2・26事件に連座して死刑。2・26事件を引き起こした青年将校達のイデオローグになっていた。日蓮宗の熱狂的信者としても有名。1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(旧両津市、現佐渡市)の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次(のち輝次郎)として生まれる。1901年(明治34年)上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動にも関心を持ち、社会主義思想に接近する。1903年(明治36年)父が死去。10月「輝次郎」と改名した。『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、『国民対皇室の歴史的観察』はたった2日で連載中止となった。弟北吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の聴講生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。1906年(明治39年)処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。即ち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。同書は、天皇機関説の考え方を基礎として天皇の神聖視を支配の根拠とする藩閥官僚政治への厳しい批判を行なっていたため、刊行後ただちに発禁処分を受けることになった。その失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと言われている。1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ、死刑判決、8月19日愛弟子の西田税とともに処刑された。宮本盛太郎らの研究によれば、北は計画自体を知っていたものの、時期尚早であると慎重な態度を取っており、指揮等の直接関与は行っていなかったとされる。真崎甚三郎大将ら皇道派の黒幕が予備役退役の処分で済んだのと較べると極めて重い処分である。

北一輝は一般的に二・二六事件の首謀者と思われていますが、実は事件とはほとんど関係ありませんでした。彼は戦前の日本で最も危険な人物の一人であったため、事件のついでに処刑されたというのが事実です。北一輝は思想的に右翼なのか左翼なのか、よく分からない人です。北一輝は右翼思想家と評価されることが多いですが、その一方で23歳頃に出版した『国体論及び純正社会主義』は社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛されていました。北一輝自身は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ、」と述べています。また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても北の方がずっと人民主義であると評しました。最期の言葉を見る限りでは、彼の天皇主義は革命のための策であったとするのが妥当でしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Beloved father

愛されし父

ベラ・ルゴシの墓碑銘。ベラ・ルゴシはオーストリア=ハンガリー帝国(現在のルーマニア)ルゴジュ出身で主にアメリカ合衆国で活動したハンガリー人俳優。本名はブラシュコー・ベーラ・フェレンツ・デジェー(Blaskó, Béla Ferenc Dezső)。身長185cm。ユニバーサル映画『魔人ドラキュラ』(1931年)におけるドラキュラ役が特に名高く、戦前のホラー映画界における、フランケンシュタイン・モンスター役で知られるボリス・カーロフと並ぶ大スター。また、薬物中毒を公表した初めての俳優ともいわれる。ハンガリーで1901年より舞台に立つ。第一次世界大戦では志願して戦場に赴き、歩兵中隊の中尉まで栄転したが、3度の負傷を経験した。戦争中に映画デビューを果たす。戦後のドイツでは1919年俳優組合を組織し、政治的にはラジカルと思われていた。1920年、アメリカに移民として渡り舞台や映画に出演した。英語が不得手で大役には恵まれなかったが、1927年、ブロードウエイでの舞台『ドラキュラ』でタイトルロールの吸血鬼ドラキュラ伯爵を演じて当たり役となった。1931年、ユニバーサル映画が『ドラキュラ』をトッド・ブラウニング監督より映画化した『魔人ドラキュラ』(ユニバーサル映画)に舞台と同様ドラキュラ役で主演した。当初この役にはサイレント映画の伝説的な怪優ロン・チェイニーが予定されていたが、チェイニーの急死により舞台版に主演したルゴシに出演依頼が回ってきたものだった。この映画でルゴシは強烈なハンガリー訛りの英語と品格のある風貌、圧倒的な演技力により「黒いスーツに黒マント」という典型的ドラキュラ像と、トランシルヴァニア出身(正確にはバナート地方ルゴジュ出身)の「ドラキュラ俳優」ベラ・ルゴシという強いイメージを人々に強烈に植え付け、怪奇スターとして世界に知られることとなった。続いてユニバーサルが制作した『フランケンシュタイン』(1931年)のモンスター役の依頼を受けたが、台詞のない怪物役を嫌い拒否した。(代わりに起用されたボリス・カーロフはこの映画の大ヒットによりルゴシを上回る名声を手にすることとなった)。1932年、『恐怖城(White Zombie)』に主演。マイナーな映画会社による低予算作であったが、ゾンビ映画の始祖としてホラー史上に名を残し、ゾンビ達を操る呪術師を演じたルゴシにとっても『魔人ドラキュラ』に次ぐ代表作となった。1934年のユニバーサル作品『黒猫』ではカーロフとの二大怪奇スター初共演が実現した。両主演ではあったが、序列はカーロフが上であった。その後も多くの怪奇映画への出演を続けるが、高齢とハンガリー訛りによる英語下手が災いし、ユニバーサル作品では脇役に回る事が多くなり、またマイナー作への出演も増え、人気は衰えていった。1939年にフランケンシュタインシリーズの第3作となる『フランケンシュタインの復活』に怪人イゴール役で出演、続く『フランケンシュタインの幽霊』(1942年)にも同じ役で出演した後、『フランケンシュタインと狼男』(1943年)で遂に12年前に拒否したモンスター役を演じた。既に61歳という老齢であり、迫力を出すことはできなかった。1948年の『凸凹フランケンシュタインの巻』において映画では二度目で、最後となるドラキュラ役を演じた。こちらでは老いたりとはいえ、余人の追随を許さぬ貫禄をみせた。私生活では4度の離婚を経験、戦争の古傷を癒すために始めた薬物の依存症に陥り、転落して悲惨な末路を辿った映画スターの典型として伝説的存在となった。この点は誇張して伝えられた面もあり、5番目の妻と共に比較的穏やかな晩年を過ごしたともいわれる。1956年に心臓発作で死去。葬儀の際はドラキュラ伯爵の衣装で埋葬された。最晩年は「史上最低の映画監督」の異名で知られるエド・ウッド監督の作品に出演した。『グレンとグレンダ』(1953年)で狂言回しを務めた後、『怪物の花嫁』(1955年)にマッドサイエンティスト役で主演した。続いてウッド監督による新作の撮影に取り掛かるが、僅かなシーンのみを残して死去した。ウッドはこの生前撮影されたフィルムを利用し、「史上最低映画」の呼び声高い『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959年)を制作した。その為、この作品がルゴシにとって遺作となった。

『魔人ドラキュラ』の原作、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』が書かれた19世紀のヨーロッパでは、大量のユダヤ人移民がポーランド等を経由して流れ込んで雇用問題や住宅問題、治安上の問題などが起こっていました。このような事情もあって、ドラキュラ伯爵の容姿「はげ頭・とがった耳・猫背・くぼんだ目」というのは、当時のユダヤ人のイメージそのままであり、原作の『ドラキュラ』は反ユダヤ的な思想によって書かれた作品でした。そのイメージを打ち破ったのがベラ・ルゴシです。ベラ・ルゴシは現在世界中に流布しているドラキュラ伯爵のイメージを作りました。往年の吸血鬼俳優と言えばまず『吸血鬼ドラキュラ』のクリストファー・リーの方の名前が挙げる人も多いかと思いますが、その原型は『魔人ドラキュラ』です。ベラ・ルゴシは生涯に当たり役が、『魔人ドラキュラ』しかありませんでした。上記の通りフランケンシュタイン役を蹴った結果ルゴシはカーロフに人気の座を奪われましたが、カーロフは謙虚な性格なため、黒猫や透明光線で共演した際は常にルゴシに謙っていました。しかしルゴシは晩年にカーロフに人気の座を取られたことを終始悔しがっていたそうです。1994年のティム・バートンが監督したエド・ウッドの伝記映画『エド・ウッド』では、ウッドが晩年のルゴシと過ごした数年間が描かれています。マーティン・ランドーがベラ・ルゴシ役を演じ、アカデミー助演男優賞、ゴールデングローブ賞 助演男優賞、全米批評家協会賞で助演男優賞を獲得しました。ただし、この作品は史実とは異なるフィクションの面も多いので、伝記として鑑賞するには注意が必要であります。ベラ・ルゴシの遺作となった『プラン9・フロム・アウタースペース』についても述べておきたいのですが、この映画は製作当時はあまりのつまらなさに上映権の買い手がまったくつかず、結局テレビ局に権利を安く買いたたかれることになりました。そのため深夜テレビで繰り返し放送され、一部でカルト的な人気を得ることとなり、やがて1976年に「ゴールデン・ターキー・アワード」という本の中で「史上最低の映画」として紹介され、映画『エド・ウッド』である意味での脚光を浴びることとなりました。歴史に残る凄まじい映画なので一度見てみることをお勧めします。僕は長い間、なぜドラキュラが最後に木の杭を打ち込まれて死ぬのか分からないでいましたが、阿部謹也の『刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活』の中の、15世紀のスイスのアールガウで、強姦犯は縛られて穴に投げ込まれ杭を胸に打ち込まれたが、被害者が望めば最初の三打ちは自ら行うことができ、以後被害者は何者にも辱められた者として扱われなかったという記述を読んで、やっと納得できたという次第。これと関係があるのかは分かりませんが、スラヴの民話には心臓に杭を打ち付けることで吸血鬼を殺すというものがあるそうですので、ブラム・ストーカーにインスピレーションを与えたのはこちらなのかもしれません。

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誰彼もあらず一天自尊の秋

飯田蛇笏の辞世の句。飯田蛇笏は日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市)の大地主で旧家の長男として生まれる。山梨県では江戸期以来の宗匠が俳壇を形成し影響力を残しており、蛇笏も幼少期から旧来の月並俳句に親しむ。1900年(明治30年)には東京において正岡子規が『ホトトギス』紙上で俳句革新を開始するとその影響を受け、河東碧梧桐に師事した堀内柳南や神奈桃村ら新興俳人が出現した。旧制甲府中学(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学英文科入学する。早稲田大学では高田蝶衣らの早稲田吟社の句会に参加し、同じ下宿の若山牧水らとも親交を深め句作や詩作をし、小説も手がけ『文庫』『新声』などに発表する。高浜虚子の主宰する『ほとゝぎす』にも投句した。この時は号を玄骨と称していた。子規の死後に『ホトトギス』を主催した虚子は小説への偏向を強め、1909年(明治42年)に蛇笏は家庭事情から早大を中退し帰郷する。その後は稼業の農業や養蚕に従事する一方で、松根東洋城の『国民新聞』への投句を始める。山梨県の俳壇では1911年(明治44年)に萩原井泉水が『層雲』を創刊し、河東碧梧桐の影響で新傾向俳句へ転向した秋山秋紅蓼らを迎合し、翌年には堀内柳南らと井泉水や碧梧桐が甲府に招かれ、新傾向俳句が興隆した。蛇笏は伝統的俳句の立場からこれを批判し、『山梨毎日新聞』紙上において「俳諧我観」を連載し、自然風土に根ざした俳句を提唱した。1913年(大正2年)には虚子の俳壇復帰と共に俳句の創作を再開し、『ほとゝぎす』への投句を復活する。1914年(大正3年)愛知県幡豆郡家武町(はずぐんえたけちょう、現西尾市)で発刊された俳誌『キラゝ』の選者を担当。1917年(大正6年)同誌の主宰者となり、誌名を『キラゝ』から『雲母(うんも)』に改める。1925年(大正14年)に発行所を甲府市に移す。1932年(昭和7年)処女句集『山廬集』を出版。故郷・境川村での俳句創作活動を続け、1962年(昭和37年)没。享年77。忌日の10月3日は「山廬忌」という。

この句は飯田蛇笏最後の句集である『椿花集』に収められた最期の句ですので、厳密に言うと辞世の句ではないのですが、一般的にはそうだと思われています。飯田蛇笏の句は山梨の山間で創作した作品が大半であり、句友と離れて暮らすその作風は孤高であり重厚かつ剛直なものでありましたが、子供らの死によりその作風は静穏なものに変わっていきました。また飯田蛇笏は生前に句碑の建立を拒んだため、山梨県立文学館にある「芋の露連山影を正しうす」が唯一の句碑です。この句は解釈の難しく、哲学的なものとなっています。誰も彼もなく空は曇もない自尊の秋である、というのでは何のことだかよく分からないですね。世の無常を詠んだというよりは、自分の誇るべきものを、秋空に問ういているような句だと思われます。

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Arrigo Beyle Milanese Scrisse Amò Visse

ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた

スタンダールの墓碑銘。スタンダールはグルノーブル出身のフランスの小説家。本名はマリ=アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)という。ペンネームのスタンダールはドイツの小都市シュテンダルに由来すると言われている。グルノーブル高等法院の弁護士の子として生まれる。母方の実家も地元の名士であり、スタンダールは幼少期を地方の名士の子として何不自由なく暮らした。7歳の時に亡くなった母を終生、異常なまでに偏愛し続け、その反動で、実務家で王党派の父を激しく憎み続けた。そのため、スタンダールは父とは正反対のロマンチストの共和主義者として、その後の生涯を送る事になる。父の期待を受けて勉学にいそしんだスタンダールは、1799年、優秀な成績で理工科学校の入学試験に合格する。しかし、慣れないパリの生活でノイローゼになり、母方の祖父のアンリ・ガニョンの従兄弟のノエル・ダリュの家に引き取られる。ダリュの息子が当時、陸軍省事務次官をつとめていた関係から、スタンダールはダリュの口利きで陸軍少尉に任官し、イタリア遠征に参加した。母方のガニョン家がイタリア系だったこともあり、元来、イタリアに憧れを持っていたスタンダールは遠征先のイタリアを気に入り、以後、イタリアを第二の故郷とみなすようになる。なお、祖国・フランスは父のイメージと重なるためか、生涯好きになる事は出来なかった。軍人となったスタンダールだったが、実際には馬に乗る事も剣を振るう事も出来ず、もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたと言われる。1802年、軍を辞め、輸入問屋に勤めたりしたが、大陸封鎖令によって海外貿易が途絶してしまったため、1806年、ダリュを頼って、陸軍主計官補の仕事を得、その後は官僚として順調に出世し、1810年には帝室財務監査官にまで昇進する。その後も経理畑を歩んでいくが、ナポレオン・ボナパルトの没落によって、スタンダール自身も没落する。その後はフリーのジャーナリストとして、活躍する。ナポレオン没落後、イタリアに渡り、現地の自由主義者と親交を結ぶが、やがて「スタンダールはフランスのスパイだ」という噂が広まり、失意のうちにフランスに帰国している。不遇の時代に、スタンダールは1822年、39歳の時に『恋愛論』、1830年に『赤と黒』を発表している。特に、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作『赤と黒』は、当時は評判にはならなかったが、王政復古下のフランス社会を鋭く批判したものであり、彼の政治思想の真骨頂がよく表現されている。1830年、七月革命が勃発すると、自由主義者として知られていたスタンダールに再び政治の世界から声がかかるようになり、トリエステ駐在フランス領事に任命された。しかし、オーストリアの宰相・メッテルニヒの承認が得られなかったため、ローマ教皇領チヴィタヴェッキア駐在フランス領事に転じた。1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、『パルムの僧院』を書いた。1842年、パリの街頭で脳出血で倒れ、死去。

この言葉は遺書に書かれいた時は「生きた、書いた、愛した」の順番でだったのですが、お墓に彫られるときに「書いた 愛した 生きた」の順番になりました。なのでか調べると墓碑銘とは違う順番で書かれている場合も数多くあります。スタンダールは日本では大岡昇平や織田作之助らに影響を与えました。墓碑銘がイタリア語で書かれミラノ人となっているのは、スタンダールが生涯父親とフランスが嫌い、イタリアを愛したからです。スタンダールはバルザックへの手紙で、「私は熱愛する事物についてのみ語ります」と述べたそうですが、愛は彼にとって最大のテーマだったのでしょう。また友人のメリメの言葉によると「彼はいつも恋していた」というらしいですが、一方彼自身は「私の一生はいつも酬いられざる恋人の状態にあった」とも言っています。スタンダールも生前には正当に評価される事のなかった作家の一人ですが、『赤と黒』は現在では、フランスのリアリズム小説の出発点となったと評されており、また『パルムの僧院』についてはオノレ・ド・バルザックは「当時にあって最も意義深い作品」と言い、アンドレ・ジッドは「これまでで最も偉大なるフランス小説」と評しました。レフ・トルストイも、この小説の中のワーテルローの戦いの描写にかなりの影響を受けたと述べています。この墓碑銘の言葉は、正直に言って彼がやったことのほとんど全てだと思います。ちなみに『赤と黒』は東京大学文学部准教授の野崎歓が、2007年に新訳版を著したところ、立命館大学文学部教授の下川茂らが、この訳書には誤訳が多すぎると批判し、論争となっています。

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