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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Love Will Tear Us Apart

愛が私たちを引き裂いていく

イアン・カーティスの墓碑銘。イアン・カーティスは、イギリスのミュージシャン。ジョイ・ディヴィジョンのボーカリストで、作詞を担当。歌い方はパンク・ロックの影響下にあった当時のバンドのボーカルとしては珍しく、腹の底から響く張りのあるバリトン・ボイスだった。内省的な歌詞とエキセントリックなパフォーマンスで、長い経済不況にあえいでいた1970年代後半のイギリスの若者たちから大きな共感を得た。1956年7月15日生まれ。マンチェスターから南へ20キロメートルほど離れたマクルズフィールドで育つ。両親と4歳下の妹との4人家族。中産階級の家庭で、家族仲は良く、本を読むのが好きなおとなしい少年だった。文学と歴史、そして特に音楽に熱中するようになり、デビッド・ボウイやイギー・ポップ、ルー・リードに憧れ、高校時代には音楽で成功することへの志を強く持つようになる。バンド結成を目指し、メンバー探しにマンチェスターのパブやクラブを巡る中で、バーナード・サムナーとピーター・フックに出会う。1976年7月20日マンチェスターで行われたセックス・ピストルズのギグを見て大きな衝撃を受け、サムナーとフックが結成したバンドにボーカルとして応募する。このギグはセックス・ピストルズのマンチェスターでの2回目の公演で、サムナーとフックはすでに1回目の6月4日のギグを見て触発され、バンドを結成していた。ボーカルが決まらず、募集広告を出していたが、すでに知り合いだったカーティスの応募により即決。1977年に初めてステージに立つ。バンド名は「ワルシャワ」で、当時はまだドラマーが定まっていなかった。しばらくして、イアンの母校の後輩であったスティーヴン・モリスがドラマーとして加入し、メンバーが固定する。1978年初頭、同じ名前のバンドがあり、紛らわしさを避けるため、バンド名を「ジョイ・ディヴィジョン」(ナチス・ドイツ将校専用の慰安所)に変更する。9月、ジョイ・ディヴィジョンはマンチェスターのテレビ局グラナダTVの名物MCトニー・ウィルソンがホストを務める音楽番組に出演し、「シャドウプレイ」を演奏する。このテレビ出演は、初対面のトニー・ウィルソンにカーティスがアポイントなしで近づき、「僕たちをテレビに出せ」と詰め寄ったことがきっかけだった。さらに、トニー・ウィルソンが新たに設立したインディーズ・レーベル、ファクトリー・レコードと契約し、徐々に活動の幅を広げていく。12月、ロンドンで初ライブを行うが、観客は30人程度しかいなかった。落胆したカーティスは、この時初めて、帰路の車の中で激しい癲癇の発作を起こす。以後、頻発する発作に悩まされるようになる。1979年4月、一人娘のナタリーが誕生。6月にファースト・アルバム『アンノウン・プレジャーズ』をリリース。低予算で宣伝費は抑えられていたが、初回限定5000枚は即完売、音楽雑誌はこぞって絶賛し、パンク以後の音楽界の流れを方向づけるグループとして注目される。ライヴとレコーディングは急増し、バンド活動に専念するために退職するが、ジョイ・ディヴィジョンを中心にファミリーのように堅固に結束していたファクトリーと、家庭との溝は深まり、また、悪化する癲癇と同時に鬱病にも悩まされるようになる。1980年、ヨーロッパ・ツアーを経て、3月、セカンド・アルバム『クローサー』のレコーディングを終える。4月には、最大のヒット曲となる「ラブ・ウィル・テア・アス・アパート」をリリース。アメリカ・ツアーも決定し、すべてがバンドの成功へ向けて急速に動いていた。しかし、ハードなスケジュールをこなす中での病気の悪化、それによってバンドの重荷になっているという自責の念、ロックスターであり続けることへのプレッシャー、妻と愛人の間での苦悩などから、精神的にも肉体的にも追い詰められ、4月7日に癲癇の治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こす。以後自宅には戻らずメンバーや関係者の家を転々とし、最終的に実家の両親のもとへ戻る。バンド結成当時には、音楽家として成功することへの野心を誰よりも強く持っていたが、すでにそのモチベーションはなく、バンドを抜けたい、オランダに行って本屋をやりたいなどとメンバーに漏らしていた。5月17日、妻デボラと離婚の話し合いをするため自宅へ戻る。離婚についての話し合いは決着しないまま、デボラは娘を連れて自分の両親の家へ帰る。自宅に一人残り、18日未明に、台所で首を吊り自殺。18日の午前11時ごろ、戻ってきたデボラにより、倒れているところを発見される。遺書はなく、デボラにあてた手紙があった。また、抗癲癇薬を飲んだ跡があったこと、ターンテーブルには、イギー・ポップの『イディオット』がかかったままであったことがわかっている。アメリカツアーには、翌日の5月19日に出発する予定であった。23歳の若さだった。

イアン・カーティスの墓碑銘には妻であるデボラの希望により、ジョイ・ディヴィジョンの最大のヒット曲名が刻まれました。残った3人のメンバーは(だれか1人でもメンバーが欠けたらバンド名を変更することになっていたため)バンド名をニュー・オーダーと変更し、イアン・カーティスの自殺を知らされた日のことを歌った「ブルー・マンデー」という曲を作り、この曲は世界的な大ヒットとなりました。イアン・カーティスは詩作を好んだ文学青年らしく、インスパイアされた文学作品を髣髴させる歌詞が多く、自己の内面を執拗に問いかける詩は、孤独、不安、絶望の感情に満ちています。また彼はステージでの激しく痙攣した動きと、取り憑かれたような表情で、観る者に強烈な印象を与え、カルト的な人気を得ましたが、それらのパフォーマンスは、癲癇の発作の前駆症状に酷似していました。実際ステージ上でそのまま発作を起こしたこともあったそうです。性格は気性の差が激しく、実生活でも普段は穏やかで優しく礼儀正しいが、突如逆上して激情を露わにする人でした。墓碑銘の言葉は非常に重いものです。この言葉について考えるには、一度この曲と「ブルー・マンデー」を聞いてもらいたいです。かなり鬱的な曲ですが、両方とも良い曲だと思います。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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