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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

You take me back to Eagle Bridge and you'll get back your stethoscope.

(内科医の聴診器を取って)
私をイーグル・ブリッジに帰してくれたら、あなたの聴診器を返してあげる

アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスの最期の言葉。アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスはアメリカ人なら誰もが知る国民的画家。通称グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)。本格的に筆を握ったのは実に75歳の頃であった。緑の畑や牧場で楽しそうに働く農民や田園生活風景などのフォークアートを描いた。ニューヨーク州グリニッチの貧しい農家に生まれたモーゼスは12歳から奉公に出て、27歳で結婚。しかし子供を産んでも働き詰め。子供が10人できたがそのうち5人は幼児期に夭逝。70歳で夫を亡くす。バーモント州ベニントンへ移り住み、リュウマチで手が動かなくなってからリハビリをかねて油絵を描き始めた。絵を描き始めて3年後、ひとりのコレクターが彼女の絵に目をつけ、1940年に80歳にて個展を開く。この個展に大手でデパートが注目して一躍名画家となる。89歳の時には当時の大統領ハリー・S・トルーマンによってホワイトハウスに招待されるほどである。101歳で死去するまで約1600点の作品を残した。

グランマ・モーゼスはアメリカの国民的画家ですが、誰かに絵を習ったこともなく本格的に絵筆を取ったのは75歳ころだったそうです。ドラッグストアのショウ・ウィンドウに飾られていた彼女の絵をある絵画収集家が偶然見たことにより、1940年には80歳のときに初めて個展を開くことになりました。その後「ライフ」や「タイム」「ニューヨーク・タイムズ」などの表紙を飾るほどの人気を得て、当時の大統領であったトルーマンにはお茶に招かれ、アイゼンハワー大統領からは星条旗を贈られ、ケネディ大統領とは文通をしましたが、有名になってからも、それまでのつつましい生活態度を変えず、アトリエを持つことさえなかったそうです。グランマ・モーゼスが描いたのは、アメリカの東部の農村の生活や行事、労働風景や結婚式など、古き良きアメリカの田舎の風物でした。自叙伝『モーゼスおばあさんの絵の世界―田園生活100年の自伝』の最後は、「わたしの生涯というのは、一生懸命に働いた一日のようなものでした。」という言葉で終わっています。グランマ・モーゼスが亡くなった時、ケネディ大統領は “Her work and life recall the roots of our nation in the countryside. All Americans mourn her loss.”(彼女の作品と人生は我々の国の根源が田舎にあるということを思い出させてくれる。全ての国民は彼女が亡くなったことを悲しむ)と述べました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Ne pleure pas, Alfred ! J'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans !

Don't cry, Alfred! I need all my courage to die at twenty!

(弟の涙ぐむ姿を見て)
泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、相当の勇気が要るのだから。

エヴァリスト・ガロアの最期の言葉。エヴァリスト・ガロアはフランスの数学者および革命家である。数学者として10代のうちにガロア理論の構成要素である体論や群論の先見的な研究を行った。彼はガロア理論を用い、ニールス・アーベルによる「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理(アーベル-ルフィニの定理)の証明を大幅に簡略化し、また、より一般にどんな場合に与えられた方程式が代数的な解の表示を持つかについての特徴付けを与えた。ガロア理論に端を発する考え方は抽象代数学、疑似乱数列(PN)、誤り訂正符号(ECC)など、数学、物理学、コンピュータなど、自然科学や応用科学の多くの分野に表れている。また、彼の創始した数学理論である群論はアインシュタインの特殊相対性理論におけるローレンツ群やハイゼンベルクらの量子力学などの現代物理学の言葉としても用いられる。このように代数学で重要な役割を果たすガロア理論は、現代数学の扉を開くとともに、20世紀、21世紀科学のあらゆる分野に絶大な影響を与えている。 しかし、ガロアの業績の真実と重要性、先見性は当時世界最高の研究機関であったパリ科学アカデミーや数学王と呼ばれたカール・フリードリヒ・ガウスにさえ理解されず、生前に評価されることはなかった。ガロアの遺書には後の数学者達にとって永年の研究対象となる理論に対する着想が「僕にはもう時間が無い」という言葉と共に書き綴られている。例えば代数的には解けない五次以上の方程式の解を与える、楕円モジュラー関数による超越的解の公式の存在を予言し、そのアイデアを記している。なお、この手法は彼の死後50年の時を経てシャルル・エルミートによって確立される。ガロアは1811年、パリ郊外の町ブール=ラ=レーヌに生まれた。父ニコラ・ガブリエル・ガロアは当時公立学校の校長で、のちに町長に任命された。社交的な性格であり、即興で詩を作ることが得意だったという。母アデライド・マリ・ドマントは親族が法学と古典の教授が多かったこともあり、教養の深い人物であった。また、2歳上の姉ナタリー・テオドール(後のシャントロー夫人)、3歳年下の弟アルフレッドがいて、この5人家族は明るい家庭を築いていたようである。エヴァリストは12歳までは母親の元で教育を受けていたが、1823年からはパリの名門リセである寄宿制のリセ・ルイ=ル=グランに入学した。ガロアが入学した当時、王政復古の影響もあって校長は保守的・宗教的であり、生徒達は校長にしばしば反抗した。このような校内の雰囲気が、ガロアの性格や思想に影響を与えたようである。一方、学業においては入学した翌年の第3学年にはラテン語の優秀賞やギリシア語の最優秀賞を受けるなど良好であった。しかし翌年の第2学年になると学業をおろそかにするようになり、また、健康も優れていなかったので、校長からは第2学年をもう一度やり直した方が良いという意見が出された。当初は予定通り修辞学級(第1学級)に進んだものの、やはり態度は改まらず、結局2学期から留年することとなった。そこで時間を持て余したガロアは、数学準備級の授業にも出席するようになった。当時のフランスでは数学教育は重視されておらず、数学は将来の進む方向によって補習科で教えられていたのみだった。当時の数学教師ヴェルニエ(本名ジャン・イポリット・ヴェロン)は若く熱心であり、エウクレイデスからアドリアン=マリー・ルジャンドルに至るまでの幾何学を教えていた。ガロアの学友によれば、ガロアはルジャンドルが著した初等幾何学の教科書を読み始めたところ、すっかり熱中してしまい、2年間の教材を2日間で読み解いてしまったという。1897年に『ガロア全集』に序文を加えたエミール・ピカールは、ガロアが数学の才能を開花させたことで「過度の自尊心が芽生えてしまった」と評している。1829年7月2日、ガロアの父ニコラがパリのアパルトマンで自殺した。ガロアの親族がデュピュイに語った内容によると、当時は王政復古の影響で教会は保守的な勢力で占められ、教会の司祭たちは、自由主義的な思想の町長であるニコラに対して何かと反発していた。そこで彼らは、ニコラの詩の文体を真似て卑猥な詩を作り、それが彼のものであると言いふらした。その中には家族を傷つけるものもあった。ニコラは精神を病むにいたり、その結果自殺したという。父を敬愛していたガロアにとっては当然この事件は深い傷となった。さらにその同月または1ヵ月後には、彼は再び理工科学校への受験に挑戦したが失敗した。伝説によれば、この時の口述試験の担当者が対数に関する愚問をしつこく出し、ガロアの回答に満足しなかったために、頭に来たガロアがその試験官に向かって黒板消しを投げつけたという。理工科学校は最も高等な数学が教えられ、さらに自由主義的な雰囲気に見ていたためにガロアは入学を切望していたが、その入学試験は2回までと制限されていたため、ガロアの望みは絶たれてしまった。共和主義に傾倒していったガロアは、フランス7月革命が起きた時に自分も参加しようと試み、急進共和派の秘密結社「民衆の友の会」(Société des amis du peuple)(fr)に加わった。親族の言い伝えによれば、ガロアは家族の前で「もし民衆を蜂起させるために誰かの死体が必要なら、僕がなってもいい」と口にしていたという。4月、解散を命じられた国民軍19人が制服を着用してパリの街中を歩いたために逮捕された。この事件は5月2日に無罪判決が出たが、その日の夜にレストランで開催された祝宴会において、ガロアはナイフの切先をグラスに突き出す形で「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んだ。これが王の命を脅かすものとして、翌日ガロアは逮捕された。6月15日に開かれた裁判では、ガロアは自分が不利になる供述も平然と行ったが、弁護士の努力により無罪となった。この裁判の模様は、アレクサンドル・デュマの回顧録にも詳細に記載されている。7月14日、ガロアは法学の学生で同じ「民衆の友の会」のヴァンサン・デュシャートレと共に、国民軍の制服と以前王の命を脅かしたナイフを着用してパリ市内を行進し、ポン・ヌフ橋上で逮捕された。12月3日に有罪が確定し、デュシャートレは禁固3ヵ月、ガロアは禁固6ヵ月の刑を宣告された。同じ共和主義者のオーギュスト・シュヴァリエは何度も面会に訪れ、友情を深めていたようである。この年の暮れよりパリ市内でコレラが流行し、ガロアは刑期を1ヵ月残して1832年3月16日、監獄から数百メートル離れたフォートリエ療養所へ仮出所した。その後、そこで失恋を経験したようで、5月25日には今後の予定を記しつつ、絶望に打ちひしがれた心境を綴った手紙をシュヴァリエに送っている。そして29日夜から30日未明にかけて、「つまらない色女」に引っかかって2人の愛国者に決闘を申し込まれたために、別れを告げる旨の共和主義者への2通の手紙、およびポアソンから返却された論文の添削やシュヴァリエへの数学的な発想を断片的に書いた手紙を、「時間がない」と走り書きしつつ大急ぎでしたためている。そして30日早朝、パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘は行われた。その結果ガロアは負傷し、その場で放置され、午前9時になって近くの農夫によってコシャン病院に運ばれた。ガロアが牧師の立会いを拒否した後しばらくして弟アルフレッドが病院に駆けつけた。夕方には腹膜炎を起こし、31日午前10時に息を引き取った。彼の葬儀は6月2日にモンパルナスの共同墓地で行われ、2000~3000人の共和主義者が集まり、「民衆の友の会」の2人の会員が弔辞を読み上げた。現在その墓地は跡形も残っていない。1982年、没後150年を記念した墓碑がブール=ラ=レーヌに建てられている。

エヴァリスト・ガロアは数学者にして革命家、そして最期は21歳の若さで女性をめぐっての決闘で死ぬという、絵に描いたたようなフランス人の中のフランス人でした。三島由紀夫の小説の主人公でも、ここまで激動の人生を送った人物はいないでしょう。忠実な共和党員であった彼の死は、反動派か秘密警察によるものという説もありますが、ガロアはサント・ペラジー刑務所において、「僕はつまらない色女のために、決闘で死ぬこととなるだろう」という自分の将来に対して予言しており、やはり情痴のもつれによる決闘だったようです。ただ後に決闘の原因と言われていた女性の素性が明らかになりましたが、彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュモテルといい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュモテルの娘でした。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアは次第にステファニーに恋愛感情を抱くようになって求婚したらしく、それに対するステファニーによる断りの手紙の文面が、ガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されています。その内容は文面を見る限り礼儀正しいものであり、少なくとも残された文章を見た印象では彼女が「つまらない色女」と表現されるような人物などではなく、そもそもガロアの遺書が真実を記したものとは言い切れないようです。「早熟の天才」と呼ばれる人は数多くいますが、エヴァリスト・ガロアほどその業績を理解されることなく、また若くして死んでしまった人も珍しいでしょう。彼は夭折してしまいましたが、彼の残した業績と真のフランス人としての人生は不滅のものです。

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今日の辞世の句 

契りあれば六つの衢に待てしばし 遅れ先だつことはありとも

大谷吉継の辞世の句。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも。「業病」(注:当時の認識)を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。華頂要略の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。いずれにせよ、大名となるには難しい家柄である。母が秀吉の正室の高台院の侍女である東殿といわれ、これを根拠に豊臣秀吉の隠し子とする説もあるが、全くの俗説であり、正確な出自は不詳である。天正始め頃に秀吉の小姓となった[9]。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長より播磨攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している。その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2000の兵を率いて従軍、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。天正13年(1585年)7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下・刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。天正17年(1589年)に越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となった。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や宇喜多家中の紛争を調停している。慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、三千の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子織田信吉と織田長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣高木法斎らが加わっていた。吉継は当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てより小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。

約束したのだから六道で少し待ってください 遅れたり先に行ったりすることはあっても

大谷吉継は大谷刑部という通称の方が有名かもしれません。関ヶ原合戦で豊臣方で戦い、小早川秀秋の裏切りを受けて討死した武将として有名ですが、上記のように実は徳川家康とはむしろ仲が良かった人でした。家康も吉継の才能を高く評価しており、慶長5年(1600年)7月には、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われています。このため、吉継が西軍に与したことを知った家康は、非常に狼狽したという逸話が残っています。このように良好な関係を築いていた家康に対して、大谷吉継が勝てないと分かっていても戦いを挑んだのは、「刎頚の友」と呼ばれるほどの石田三成との友情のためでした。吉継と三成がほぼ同年齢であり、出身も同じ近江であったため仲が良く、天正15年(1587年)に大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきましたが、癩病(ハンセン病と思われるが、梅毒等の異説有り)を患っていた吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったのに、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み気軽に話しかけました。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされています。もっともこの二人には男色関係があったという説もありますが……。負けはしましたが、吉継が「義に厚い名将」として名を広く残した理由は関ヶ原における壮烈な活躍にありますが、元々名将として高く評価されており、「人となり、才智聡頴、勤労倦まず、能く秀吉の心に叶へり」「吉継汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」と記されています。一方裏切った小早川秀秋は関ヶ原合戦後の論功行賞で、備前と美作にまたがる岡山藩55万石に加増・移封されましたが、わずか2年後に21歳の若さで早世しました。小早川家は秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易されています。負けて義人・名将として名を残した人もあれば、勝って裏切り者と呼ばれて早死した人もいるというのは、実に人生の無常を表しているように思えます。辞世の歌の「六つの衢」とは、六道のことでしょう。六道とは仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のことですので、ここでは六道輪廻した先と考えるのが妥当でしょう。この歌からは共に戦い死ぬ約束をしたのだから、あの世で会いましょうという、吉継の忠義の心が伝わってきます。

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今日の辞世の句 

Mozart! Mozart!

モーツアルト! モーツアルト!

グスタフ・マーラーの最後の言葉。グスタフ・マーラーはウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。1860年(0歳) 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827-1889)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837-1889)の間の第2子として、オーストリア領ボヘミア・イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に出生。夫妻の間には14人の子供が産まれているが、半数の7名は幼少時に死亡している(当時は乳幼児の死亡率が極めて高かった)。長男イージドールも早世しており、グスタフ・マーラーはいわば長男として育てられる。父親ベルンハルトは独力で酒造業を創業し経営しており、地元ユダヤ人社会の実業家(成功者)であった。私生活においては読書家であった。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。ベルンハルトも、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持つと共に、グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施した。幼いグスタフは、ドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ(当初は自分の酒造業を継がせるつもりだった)、より完全な音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。1864年(4歳) 本人の回想によれば、この頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる。1870年(10歳) 10月13日、イーグラウ市での最初のピアノ独奏会を行う。曲目は不明。1875年(15歳) ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)にてローベルト・フックスに師事。弟エルンストが13歳で没。1876年(16歳) 及び1877年(17歳)演奏解釈賞と作曲賞を受ける。1877年(17歳) ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳) 作曲賞を受け、7月11日、卒業。1883年(23歳) 9月、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(24歳) ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。6月、音楽祭でベートーヴェンの《第9交響曲》とフェリックス・メンデルスゾーンの《聖パウロ》を指揮して、指揮者として成功。1885年(25歳) 1月《さすらう若者の歌》を完成。プラハのドイツ劇場の楽長。この年は窮乏を極める。1886年(26歳) 8月、ライプツィヒ歌劇場で楽長。この年《子供の不思議な角笛》作曲。1888年(28歳) この年《交響曲第1番ニ長調「巨人」》生まれる。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年(29歳) 1月、リヒャルト・ワーグナーの《ラインの黄金》と《ワルキューレ》のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得る。2月に父を失い秋に母を失う。1891年(31歳) 4月、ハンブルク市立劇場の第一楽長となる。1895年(35歳) 2月6日、弟・オットーが21歳で自殺。1896年(36歳) シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて《交響曲第2番ハ短調「復活」》、《交響曲第3番ニ短調》を書く。1897年(37歳) 春、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場第一楽長に任命され、10月に芸術監督となる。1898年(38歳) ウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年(39歳) 南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニヒ(Maiernigg)に山荘を建て《交響曲第4番ト長調》に着手(翌年に完成)。1901年(41歳) 4月、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場=現・ウィーン国立歌劇場の職は継続)。12月、「私の音楽を貴女自身の音楽と考えることはできませんか?」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出る。彼女はその後作曲の筆を折る。なお、アルマはツェムリンスキーに作曲を習い、14曲の歌曲を残している(出版:ウニフェルザル出版社)。1902年(42歳) 3月、アルマ・シントラー(23歳)と結婚。2人とも初婚であった。夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第5番嬰ハ短調》を完成。10月、長女マリア・アンナ誕生。1903年(43歳) フランツ・ヨーゼフ1世皇帝から第三等鉄十字勲章を授与される。次女アンナ・ユスティーネ誕生。1904年(44歳) 4月シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに創造的音楽家協会を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニヒの山荘で《交響曲第6番イ短調》を書き上げ、第7番の2つの「夜曲」を作曲。1905年(45歳) 夏、マイアーニヒの作曲小屋で《交響曲第7番ホ短調》第1楽章、第3楽章、第5楽章を作曲して完成に至る。1907年(47歳) 長女マリア・アンナ死亡。マーラー自身は心臓病と診断される。12月メトロポリタン・オペラから招かれ渡米。《交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」》完成。1908年(48歳) 5月ウィーンへ戻る。トプラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて《大地の歌》を仕上げる。秋に再度渡米。1909年(49歳) ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトプラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手し、約2カ月で完成させる。10月、渡米。1910年(50歳) 4月ヨーロッパに帰る。クロード・ドビュッシーやポール・デュカスに会う。8月、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分の傍に居る事を、夜中じゅう確認せざるを得ない強迫症状と、もっとも崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんできて、かき乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへ来てようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。9月12日にミュンヘンで交響曲第8番《千人の交響曲》を自らの指揮で初演。自作自演では初の大成功を収める。1911年(50歳) 2月、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症のため息を引き取った。ウィーンのグリンツィング墓地に葬られた。

グスタフ・マーラーは自分の出自について、「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っていました。マーラーが生まれ育った時期は、オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた時期でした。彼は生涯の大部分をウィーンで送り、指揮者としては高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはこの地では評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲がドイツで初演されました。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに国籍を問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです」と答えたそうです。マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うものが多いのが特徴です。歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多く、交響曲と歌曲の境が余りはっきりしていません。指揮者としてはニューヨーク・フィルハーモニック在任中、演奏する曲に対しては譜面にかなり手をいれたようで、後にこのオーケストラの指揮者となったトスカニーニは、マーラーの手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ」と罵ったという逸話が残されています。マーラーは性格も激しい人だったようで、シェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となり、興奮した二人が「もうこんな家に来るものか」と叫んで出て行くと、マーラーも「二度と来るな!」とやり返すほど険悪な雰囲気となりましたが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は何してるんだ」と気にし出し、二人のほうも何食わぬ顔をして家に来るようになりました。シェーンベルクに対しては臨終の際に「私が死んだあと、だれがシェーンベルクの面倒を見てくれるんだ」と涙したそうで、シェーンベルクの側でも当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称しました。他にも同時代に活躍した交響曲作家としてアントン・ブルックナーと親しくしており、ブルックナーによる和声学の講義を受けていましたが、作曲哲学や思想、また年齢にもに大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが、その友情は生涯消えませんでした。最期の言葉は、死を前にして最も尊敬する音楽家の名前を呼んだのでしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

世の中をめぐりもはてぬ小車は 火宅のかどをいづるなりけり

佐久間盛政の辞世の句。佐久間盛政は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称された。佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。天文23年(1554年) 尾張御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。佐久間軍記によれば「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。永禄11年(1568年)の観音寺城の戦い(対六角承禎)で初陣。元亀元年(1570年)の越前手筒山城攻め(対朝倉義景)、野洲河原の戦い(対六角承禎)、天正元年(1573年)の槇島城の戦い(対足利義昭)などに参加、戦功を挙げた。天正3年(1575年)、叔父・柴田勝家が越前一国を与えられた際、その麾下に配された。以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った。また、この頃に「鬼玄蕃」という異名がつけられた。天正8年(1580年)、加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代城主となり、加賀一国を与えられた。天正9年(1581年)、勝家が安土城に赴いた留守を狙って上杉景勝らが加賀に侵入してきて白山城(舟岡城)を攻め落とした。この時、救援に向かった盛政が到着したときには既に落城していたが、盛政はそのまま上杉軍に挑みかかり、これを破った。さらに同年、能登国の地侍が景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城した際、前田利家の要請に応じて救援し、城の後詰に来ていた上杉軍を討った。天正10年(1582年)の本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従った。柴田勝家は清洲会議以後羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。当初、両者は持久戦の構えを取っていたが、従兄弟で勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が密かに盛政の陣に駆け込み、秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えた。これにより盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。この後、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令しており、桑山は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答、賤ヶ岳砦の陥落も間近であった。しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、日没頃より砦から退去する筈だった桑山隊と合流して攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗。この機を待っていた秀吉が、かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきたため、盛政は敵中に孤立してしまった。この時、前田利家の部隊が動かなかったため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた。結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀に落ち延びようとした。落ち延びる途上、盛政は中村の郷民に捕らえられた。命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという。秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが、盛政は織田信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、願わくは派手な衣装を着用の上、引き回しののち刑死したいと願った。そしてそれが秀吉の権威を高めることにつながるとも語ったといわれている。果たして京市中を引き回された盛政は、やがて宇治・槙島で斬首された。享年30。

世の中をめぐり果てることのない小車で、火事の家の門を出たのだな

佐久間盛政には虎姫という娘がいましたが、義弟の新庄直頼の養女となり、後に秀吉の命により中川清秀の次男秀成に嫁ぎ、豊後岡藩主の奥方となりました。その縁で盛政の菩提寺は、大分県竹田市の英雄寺にあります。秀成は虎姫の死後、その悲願を汲んで、5男の内記に盛政の家を復興させました。その子孫は現在まで大分市で続いているそうです。佐久間盛政の最期は肥後一国の大名の申し出を蹴って、自ら引き回しののち刑死を望んだというのだから、かなりかぶいた人だったのでしょう。非常にかっこいい死に様だと思います。辞世の歌の「世の中をめぐりもはてぬ小車」とは輪廻か曼荼羅のことでしょう。曼荼羅は元々円形のシンボルなので、仏の悟りの境地や世界観などを意味しているのかもしれません。「火宅のかど」とは煩悩にまみれた現世のことでしょうか。勇将として戦い抜いた人生だっただけに、最期は現世に対して否定的な態度を取って歌を詠んだのでしょう。

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