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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I don't feel good.

気分が良くない。

ルーサー・バーバンクの最期の言葉。ルーサー・バーバンクはアメリカの植物学者・園芸家・育種家。多くの植物の品種改良を行った。バーバンクによって作り出された植物の品種のうち代表的なものは、シャスタ・デイジー、とげのないサボテン、バーバンク種のジャガイモなどである。マサチューセッツ州のランカスター生まれ。15人兄弟の13番目で、小学校程度の教育しか受けなかったが、農場で育ち、母親の持っていた広い庭で植物に親しんだ。21歳のときに父親が亡くなり、遺産でマサチューセッツ州ルーネンバーグ付近に69,000 m²ほどの土地を購入。1872年から1874年にかけて、Burbank potatoと呼ばれるジャガイモの品種を作り出した。彼はこのジャガイモの権利を売り、その金でカリフォルニア州ソノマ郡サンタローザへ移り、さらに広大な農園や温室などを建設し、多数の野菜や果樹の交配や育種を行った。バーバンク種のジャガイモのうち、表面が赤茶色になった「Russet Burbank potato」は現在でもアメリカで最も栽培される品種であり、アイダホ州が主産地になっている。

ルーサー・バーバンクについて知っている人はあまりいないでしょうが、アメリカではエジソン、ヘンリー・フォードと並んでアメリカ合衆国の3大発明家と称された時期もあるほど有名な人です。バーバンクはあらゆる植物を育成し、その品種数は3000にも及ぶと言われています。特に有名なのはバーバンク種のジャガイモですが、このジャガイモは大飢饉で人口が激減したアイルランドを復興させる品種となりました。彼の品種改良への情熱は止まることを知らず、果てはトゲなしの食用サボテンまで育成しました。バーバンクは1926年に77歳の時に心臓発作で亡くなりました。ジャガイモを食べる時は彼に感謝しましょう。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

臣(やつこ)、罪を知らず。乞ふ、審察を垂れたまへ

蘇我入鹿の最期の言葉。蘇我入鹿は飛鳥時代の豪族。大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。以下は主に『日本書紀』などの記述による。日付は旧暦である。青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。生年は不詳だが、父の蘇我蝦夷の生年は586年頃と言われているため、生年は600年~610年頃と思われる。蝦夷が大臣であった642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。これにより、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって暗殺した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と『日本書紀』とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、赤兄が壬申の乱で流罪になって以降は、蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとというクラスにまで低下し、かつての栄光は戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史から姿を消す事になる。『日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが伺える。入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある(門脇禎二ら説)が、これには反証が試みられている(加藤謙吉)。

蘇我入鹿は『日本書紀』では悪人として書かれていますが、大変優秀な人物であり蘇我系皇族の支持のもとに政権を握っていたので、逆臣とも言いにくい人です。蘇我入鹿は僧旻の私塾で学んでおり、僧旻曰く「吾堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くものなし」」と絶賛されています。勝てば官軍と言いますが、蘇我入鹿は乙巳の変で殺されたが故に、悪人という評価を受けてしまった人であると言えるでしょう。飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」があります。また、2005年(平成7年)11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘されました。

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今日の辞世の句 

My design is to make what haste I can to be gone.

私は大急ぎでいなくなるつもりです。

オリバー・クロムウェルの最期の言葉。オリバー・クロムウェルは、イングランドの政治家、軍人、イングランド共和国初代護国卿。鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、新模範軍(ニューモデル・アーミー)の副司令官となる。ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。護国卿時代には独裁体制をしいた。イングランド東部・ハンティンドン州のピューリタンでありジェントリ階級の地主の家庭に生まれる。大伯父にヘンリー8世の元で「行政革命」を実施した政治家トマス・クロムウェルを持つ名家であった。ケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民院議員となる。1629年の議会解散後、また故郷に帰って治安判事となり、1631年に土地を売ってセント・アイヴズに移り牧場を経営したが、1638年にエリーに移った。クロムウェルは1640年の短期議会及び長期議会にはケンブリッジから選出された。清教徒革命では議会派に属した。1643年10月ウィンスビーの戦いでは「詩篇を歌い感謝しつつ」突撃し、リンカンシャーから王党を一掃した。その後ヨークシァやニューベリーなどで中小規模の戦いが続いたが、1643年の間は大勢としては国王軍有利に進み、国王軍は何度もロンドンを窺う情勢にあった。1644年7月2日マーストン・ムーアの戦いでカンバーランド公ルパートの騎兵と直面し、潰走させて武名をあげた。しかし議会軍全体はまだ弱く、全面攻勢をかけるほどの力はなかった。1645年頃には、議会軍は、軍隊の編成改革を行い、新編成軍をニューモデル・アーミーとした。オリバー・クロムウェルは、ニューモデル軍結成にあたってはその副司令官となった。1645年6月14日のネイズビーの戦いでは、議会軍は左翼にヘンリー・アイアトン少将、右翼にクロムウェル中将が布陣した。クロムウェル鉄騎隊は、激しい攻撃によってじりじりと国王軍を押し返した。鉄騎隊が国王本隊に迫りつつあり、チャールズは親衛隊を割いて鉄騎隊を追い払おうとした。ところがこの命令が誤って伝わり、親衛隊は後退してしまった。クロムウェルはこの隙を見逃さず、チャールズの歩兵連隊を壊滅させた。いっぽう左翼でもアイアトンの部隊が攻め、国王軍は左右から挟撃され、国王軍は総崩れとなった。この戦いによって、国王軍は壊滅的な損害を被った。議会派はこの勝利をイングランド中に宣伝し、勝利を印象づけた。兵糧や大砲は議会軍に接収され、国王軍の再建は事実上不可能となった。内戦はさらに1年続いたが、国王軍は劣勢を逆転することはできず、チャールズはスコットランドに亡命を余儀なくされた。内乱の終結後議会は軍の解散を求めるが、クロムウェルは議会派の中でも国王との妥協を赦さない独立派に属し、妥協を求める長老派と対立しており、長老派を追放したクロムウェルは独立派議員による議会を主導、1648年に再び決起したチャールズ1世を処刑し、1649年5月に共和国(コモンウェルス)を成立させた。共和国の指導者となったクロムウェルは、急進的な水平派を弾圧、中産市民の権益を擁護する姿勢を取るようになる。重商主義に基づいた政策を示し、同時に貴族や教会から没収した土地の再分配を行った。中産市民は王党派による反革命の可能性もあったため、クロムウェルの事実上の独裁を支持した。クロムウェルは1653年に議会を解散させて終身護国卿(護民官)となり、次のような対外政策を展開した。1654年にオランダと講和し、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約を結ぶとともに、スペインに対する攻撃を開始し、ウィリアム・ペン率いる艦隊を派遣、ジャマイカを占領した。その後、1655年フランスと和親通商条約を結び、1657年に同盟条約に発展させ、1658年には西仏戦争で英仏連合軍がスペインに勝利、ダンケルクを占領した。一方、国内においては成文憲法である「統治章典」に基づき1654年に招集した第一議会を1655年1月には解散させ、全国を11軍区に分けて軍政長官を派遣し、純然たる軍事的独裁を行った。議会によって国王への就任を2度にわたって望まれるが、これを拒否して護国卿の地位のまま統治にあたった。しかし1658年にクロムウェルがマラリアで死亡すると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルはまもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。

オリバー・クロムウェルは世界の歴史に散見される、いわゆる「偉大なる独裁者」の一人です。彼の死後数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は分かれています。クロムウェルに征服され、各地で住民の虐殺を行われたアイルランドの人たちからすれば、とんでもない大悪人でしょうが。また護国卿政が終わった後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ再斬首ののち市中で四半世紀晒されるという目にもあいました。現在ウェストミンスター宮殿正門前に、鎧姿で剣と聖書を持ったクロムウェルの銅像があります。最期の言葉については、特に思い残すこともなかったのでしょうか、むしろ早く死を望むような言葉となっています。

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Guardatemi dai topi or che son unto.

Now I’m oiled. Keep me from the rats.

私は今油を注がれています。ネズミから私を遠ざけてください。

ピエトロ・アレティーノの最期の言葉。ピエトロ・アレティーノはルネサンス期イタリアの作家、詩人。「ティータ Tita」と呼ばれた美しい遊女で何人もの芸術家のモデルとなった女性を母として、アレッツォの孤児院で生まれる。保護者も友人もなくお祈りができるくらいの教育しか受けなかった。13歳の時に母親から金を盗んでペルージャに逃げ、ある製本屋の部屋を借りて住む。19歳の時にローマの富裕な商人アゴスティーノ・キージに下男として雇われ、ついで後の教皇ユリウス3世であるサン・ジョバンニ枢機卿の召使いとなる。その屋敷を出てロンバルディア地方を放浪しつつ放蕩生活をおくった末に、ラヴェンナでフランチェスコ派の托鉢僧になりすます。レオ10世が教皇となるとその取り巻きの芸人となることを目指してローマへ赴き、小姓となる。教皇の推薦状を元にミラノ・ピサ・ボローニャ・フェラーラ・マントヴァを渡り歩き、文学者としてエステ家とゴンツァーガ家を後ろ盾とするまでになる。1524年に「教皇クレメンス7世への讃歌 Laude di Clemente VII」という詩を書き、初めての年金を与えられた。ヴェネツィアを根拠地として、全イタリアの著名人を誹謗中傷で攻撃するか、大げさに褒め称える詩や書翰を発表することでその富と名声を築きあげる。庇護者としてジョバンニ・ディ・メディチ、フランソワ1世、神聖ローマ皇帝カール5世を数えることができ、教皇ユリウス3世によりサン・ピエトロの騎士に任命され、年金だけでも820スクードを受け取る資産家であり、一生涯に使ったお金は10万フランをこえるといわれる。アリオストにより「王侯の懲らしめの鞭、神のごとき」と形容されたアレティーノは敵も多く、何度も殺されかけたが、最期は自宅で卒中で倒れたとも笑いすぎて死んだともされている。文筆家としてのアレティーノは厚顔無恥で卑劣であると非難され続けていたが、彼は自分の書いたものには必ず署名をし、無条件に公開した。このような態度をさして、歴史家のブルクハルトはアレティーノを「ジャーナリズムの元祖」と評する。当時からそのポルノグラフィックな内容と表現の放埒さで悪評高かった代表作『気まぐれなおしゃべり I capricciosi ragionamenti』は、現在では邦訳がある。

ピエトロ・アレティーノについて語るのなら、『イ・モーディ』についても紹介しておきましょう。『イ・モーディ』は銅版画家のマルカントニオ・ライモンディ によって制作された16枚の性交体位図の版画であり、アレティーノは銅版画を解説するための16篇の露骨なソネット『ソネッティ・ルッスリオーシ・ディ・ピエトロ・アレティーノ』を書きましたが、歴代の教皇が再三すべての複写品を押収したため、大英博物館にあるわずかな数の断片を除き、残存し得たオリジナルの版はありません。アレティーノはルネサンス期を代表するイタリアの作家ですが、有名人を風刺して口止め料を稼いだり、持ち上げては贈り物を得たりと、破天荒かつ反権威的な人生を送った人でした。最期の言葉についてですが、僕はイタリア語が読めないので、英訳を探してきましたが、何を言っているのかよく分かりません。油というのは聖油のことでしょうか? またイタリア語の原文の方を翻訳サイトにかけるとさらにわけの分からない言葉になります。どなたかイタリア語のわかる方がいましたら教えていただけるとありがたいです。

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為国献身軍人本分

国の為に身を献げるのは軍人の本分である

安重根の遺墨。安重根は朝鮮の独立運動家。当時初代韓国統監を務めていた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)を暗殺したことで知られる。黄海道の道都・海州の両班の家に生まれる。東学党に反対していた安は追われてカトリック教会のパリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレム司祭に匿われ、洗礼を受けキリスト教に改宗した(洗礼名は「トマス」)。教育関係の仕事を経た後、1907年の高宗の強制退位と軍隊解散、それに伴う義兵闘争の高まりのなかで危機感を募らせウラジオストクへ亡命、そこで「大韓義軍」を組織し、抗日闘争活動に身を投じる。彼は死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子が聖職者になるように尋ねたりもしている1909年10月26日、伊藤博文(暗殺当時枢密院議長)は満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン(哈爾浜)に赴いた。午前9時、哈爾浜駅に到着し、車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた伊藤に、群衆を装って近づいた安重根の放った銃弾3発が命中、伊藤は約30分後に死亡した。狙撃後、安重根は ロシア語で「 コレヤ ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大きく叫んだ。安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、2日間拘留された後、日本の司法当局に引き渡された。留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという。1910年2月14日、安重根は旅順の関東都督府地方法院で死刑判決を受けたが、彼は判決そのものが不当であると憤慨した。裁判を統轄した判事は、死刑執行までに少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていたが、日本政府中央は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じた。安は上訴を行い、担当検察官であった溝渕孝雄へ自らの随筆「東洋平和論」を書き終えるために必要な時間の猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出た。3月26日、死刑が執行される。安の死から更に5か月後の8月22日、日韓併合により大韓帝国は消滅した。投獄された安重根の監視を任ぜられた日本人看守の千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになっていった。安は処刑の直前、千葉に向かって「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。また、当時の旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も安の願いを聞き入れ、煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い、助命嘆願をするなど便宜を図っていた。処刑前日には、絹の白装束を安に贈った。死刑執行後、栗原は安の死を悔やんで故郷の広島に帰った。

安重根ほど日本と韓国で評価の分かれる人物はいないでしょう。安重根は間違いなく『史記』の刺客列伝や忠臣蔵の系譜に連なる、復讐の暗殺者です。安重根について語るには、「正義の反対はもう一つの正義である」ということについて考えない訳にはいかないでしょう。安重根はサラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者であったフランツ・フェルディナント大公を暗殺した、セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプに似ています。サラエボ事件は第一次世界大戦を引き起すきっかけとなった事件ですが、プリンツィプは第一次世界大戦後からユーゴスラビアの崩壊まで、セルビアの愛国者として賞揚されました。安重根もまた大韓民国において、抗日闘争の英雄である「義士」と称され、国民的英雄です。1970年にはソウル特別市に安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が建設されました。安重根は伊藤博文を暗殺した動機を、検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際に15の理由を挙げましたが、これらの理由はかなり誤解を含んでいます。またこれらの理由が仮に全て正当であったとしても、問答無用で要人を暗殺しても良いということにはならないでよう。ただ、安重根の行為は民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の勤皇志士につながるところがあり、日本でも「義士」として評価する人もあり、千葉十七(及びその妻)の墓がある宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺には、1981年に安重根の顕彰碑が建立されました。この辺りが安重根に対しての評価の難しいところであると思われます。最後に憲兵であった千葉十七の為に書いた、「為国献身軍人本分」という言葉についてですが、非常に素晴らしい言葉だと思います。しかし、国の為に身を献げるということが、他者に対して暴力を振るうことを意味するのでしょうか?

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