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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

死んでゆく地獄の沙汰はともかくも 跡の始末は金次第かな

歌川豊春は江戸時代中期の浮世絵師。歌川派の祖。姓は歌川。名は昌樹。俗称但馬屋庄次郎。後に新右衛門と改めている。芝宇田川町に住んでいたので、歌川と名乗ったといわれる。一龍斎、潜龍斎、松爾楼などと号す。出生地については、豊後国臼杵、但馬国豊岡、江戸の三つの説があり、未だに定説を見ない。幕末の浮世絵界において、独占的な一大勢力を形成した歌川派一門の祖にしては全く奇異である。しかし、近年、新しい資料(浮世絵歌川派展図録、大分芸術会館・昭和61年)が提示されて、豊後国臼杵説が最有力となりつつある。豊春の師系に関しても、初め、京都に上って狩野派の鶴沢探鯨に学び、さらに宝暦の頃、江戸へ出て鳥山石燕に師事したとされるが、この説の典拠は定かでなく、未詳である。この他に西村重長、あるいは石川豊信の門人であったと記録するものもあるが、これらの説も出典は不明なため、豊春の出自を含めた習画時期の動静については、全く模糊としている。近年はこの中でも鳥山石燕説が有力である。作画期は、明和5年(1768年)頃から没年に至る。長い作画期間の割には作画量は少なく、これは富裕な女性へ入婿したため、絵で生計を立てる必要がなかったからと推測される。豊春は版画において役者絵、美人画などを描いているが、豊春の業績として特筆すべきは、浮絵の開発進歩、普及に多大な貢献をしたことがあげられる。浮絵の総数は把握されていないが、延享(1744年 - 1748年)期の奥村政信に次ぐ名手であり、多作であった。奥村政信が「浮絵根元」と称して描いた浮絵は、西村重長に受け継がれたが、同じ画面内での室内描写のみに遠近法を使用し、屋外の風景は従来の俯瞰描写をするといった不完全なものであった。そこで西洋の銅版画を浮世絵に模写して研究を重ねた結果、豊春は正しい遠近法を習得し、早いものでは明和8、9年(1771年 - 1772年)頃から浮絵を描き始め、これをもって江戸の風景を描いたのである。風景画の系列からも忘れがたい存在である。代表作として大々判の「琴棋書画」シリーズが挙げられる。また肉筆浮世絵では大半が絹本極彩色の美人画で、同じ時期の浮世絵師のなかでは作品数も多い。どの作品もとても落ち着いており、温厚な彼の人柄を示している。それが彼を歌川派の始祖たらしめたものと考えられる。享年 80。墓所は豊島区南池袋の本教寺。法名は歌川院豊春日要信士。豊春の門人には、初代歌川豊国、二代目歌川豊春、歌川豊広、歌川豊久、歌川豊丸、歌川豊秀、酒井抱一らがいるが、そのなかでも初代歌川豊国、歌川豊広という双璧とされる門人がおり、さらに両門下から秀抜した浮世絵師たちが多数輩出、葛飾派の活躍が終息した以後の浮世絵界を独占する一大勢力を築くことになった。

歌川豊春は歌川派の祖にして、当時の日本では最先端の画法であった遠近法を習得した人物でした。歌川豊春は江戸の風景を描いた風景画に名作が多く、後の広重などに代表される浮世絵における風景画の基礎を築きました。世界中を魅了した歌川はの始祖のわりには、その知名度はあまり高くはありませんが、彼なしには後の浮世絵の隆盛もなかったかもしれません。辞世の歌は非常に即物的なものとなっていますが、跡の始末とは葬式のことでしょうか。あの世のことは知らない、浮世(この世)のことは金次第と、浮世絵を描いた絵師らしい最後の言葉だと思います。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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