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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Wherever death may surprise us, let it be welcome, provided that this our battle cry may have reached some receptive ear and another hand may be extended to wield our weapons

どこでも死は我々を驚かすだろう、そのことを歓迎されるようにしよう、この我々の闘いの叫びは感受性のある耳に届くかもしれないし、もう一方では我々の武器を用いるために手が伸ばされるかもしれない。

チェ・ゲバラの墓碑銘。エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナはアルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者。「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」、「おい」、「お前(親しみを込めた)」、「ダチ」といった砕けた呼び掛けである。ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。1930年 ブエノスアイレスに住んでいたとき、最初の喘息発作を起こす。1932年 重い喘息のため、一家はコルドバの避暑地アルタ・グラシアに転居する。1941年 コルドバの高等学校に入学。1953年 通常6年の課程を3年で終え、医師免許を取得。1954年 グアテマラのアルベンス政権がカスティージョ・アルマス大佐率いる軍部(アルマスはこの功績でグアテマラ大統領に祭り上げられる)にクーデターで倒され、怒りとともにメキシコに亡命。1955年 イルダ・ガデアと結婚。1956年 長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。グランマ号(10人乗りのヨットに82人)でキューバに上陸(12月2日)、以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に従軍。1957年 反乱軍第2軍(75名)の指揮官(少佐)、少佐の階級章(一つ星)をつけた黒のベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。ベレーには上下を逆にした騎兵章(交差したサーベル)を付ける事もあった。1959年 バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。志願して来たのを迎え入れて以来副官同然だった同志、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4児をもうける。アジア・アフリカの親善大使として来日、12日間滞在した。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなり(対米従属)になるのか」と案内人に語った。1960年 著書『ゲリラ戦争』出版。ソ連を初訪問。1961年 工業大臣に就任。故郷アルゼンチンへ8年ぶり(最後)の帰国をするが、滞在時間はわずか4時間だった。1963年 アルジェリア独立一周年記念式典に出席。1964年 ベン・ベラ大統領の招きでアルジェリア訪問。12月11日、国際連合総会でキューバ主席として演説、7月26日運動の合言葉『祖国か、死か!』を紹介する。1965年 国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは一時的に闘争(コンゴ動乱)に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラから自分宛に遺された「別れの手紙」を発表。1966年 コンゴ動乱から引き揚げ、チェコスロバキアのラードビー(プラハの南東25キロにある町)に3月から7月まで、チェコ情報機関に匿われ滞在。「一つ、二つ……数多くのベトナムをつくるために」(1967年に公表されたメッセージの言葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビアへ。ボリビアでの様子を記した日記は『ゲバラ日記』として死後刊行。1967年10月8日 バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。39歳だった。

チェ・ゲバラは革命家として最も有名な人物の一人であり、反米的思想を持つ西側の若者や日本の左翼活動家達に絶大な影響を与えました。1960年にはキューバを訪問したサルトルとボーヴォワールと会談しています。キューバ革命の後、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難したため、キューバ政府はソビエトから圧力を受け、ゲバラはキューバの政治の一線から退きました。その後、各地で革命の指導を行いましたが、あまり上手くいきませんでした。チェ・ゲバラは誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら、寝食を忘れて公務と勉学に励んだそうです。勤勉で厳格な性格だったため、キューバ革命当時の部下からは必ずしも好意は持たれていなかったそうですが、一方で民衆からは絶大な人気を得ていました。他にも同時代人のチェ・ゲバラの評として、サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノンには「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」と評価されました。思想的にはラテンアメリカ解放の英雄、シモン・ボリーバル、ホセ・デ・サン・マルティン、ホセ・アルティーガス、ホセ・マルティ、アウグスト・サンディーノらのラテンアメリカナショナリズムであるアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、直接行動主義と理想主義を方針として掲げていました。 チェ・ゲバラの最期の言葉は、処刑される時に言った"I know you've come to kill me. Shoot, coward! You are only going to kill a man!"(俺のことを殺しに来たんだろ、撃てよ臆病者。お前は一人の人間を殺すだけだろ)という言葉でした。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

わが恋は三島の浦のうつせ貝 むなしくなりて名をぞわづらふ

鶴姫の辞世の句。鶴姫戦国時代の伝承的女性。姓名は大祝 鶴(おおほうり つる)。伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘。兄に大祝安舎と大祝安房。元々大祝氏は、伊予河野氏の一門である。戦国時代となり、周防大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大し、河野氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていた。大祝氏は代々神職として戦場に立つことはなかったが、戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していた。1534年(天文3年)に大内氏が侵攻してきた際には、兄の安舎が陣代として出陣し、大内軍を撃退している。1541年(天文10年)にも大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻すると、神職となった兄・安舎に代わって安房が陣代となった。安房は河野氏や来島氏と連合して迎撃、大内軍を撤退させることはできたものの、安房は討死を遂げた。同年10月にも大内氏が侵攻すると、安房に代わって16歳の鶴姫が陣代として出陣し、大内氏の武将・小原隆言を討ち取っている。1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣、瀬戸内海の覇権の確立を目論んだ。河野氏とその一門は全力で迎え撃つが、鶴姫の右腕で恋人とも言われる越智安成も討死する。鶴姫は残存の兵力を集結させて最後の反撃を行い不意を突かれた大内軍は壊走し、鶴姫らは勝利を収めた。しかし鶴姫はこの戦の後に兄や恋人を想い、18歳で入水自殺したと伝えられている。鶴姫が着用したとされる胴丸が大山祇神社に展示保存されている。これは、胸部が大きく膨らんでおり、逆に腰部が細くくびれていることから、現存している中では唯一の女性用の胴丸とされている。現在、鶴姫の一生を題材にした鶴姫祭りが毎年行われている。

私の恋は三島の浦に打ち寄せられた実のない貝 むなしくなって名がわずらわしい

鶴姫は戦国時代に女性で武将となったという、非常にロマン溢れる人物ですが、残念ながらその存在を実証することはできません。鶴姫の鎧だとされる紺糸裾素懸威胴丸は、その精巧な作りから重要文化財に指定されており、社伝によると「天文10年の大三島合戦に、大祝安用(31代・兵庫介)の息女鶴姫が着用した胴丸」とされていますが、当時の鎧は胸を大きくし腰をすぼねる形状が一般的だったので、このことのみで鶴姫が実在したことを証明するのは無理があります。恋人が戦で死んでしまったので18歳で入水自殺という伝説は、非常にドラマチックであり辞世の歌もその想いを表現したものになっています。うつせ貝とは海岸に打ち寄せられたからの貝のことで、和歌では「実なし」「むなし」「あはず」や同音の反復で「うつし心」などを導く序詞に用いられます。この歌が真作であるかはともかくとして、歌としては恋心と名誉のはかなさを詠った良い歌だと思います。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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