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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

あの世にも粋な年増がゐるかしら

三遊亭一朝の辞世の句。三遊亭一朝は武州所沢(現在の埼玉県南部)出身の落語家。本名、倉片省吾(戸籍上は倉片圓蔵、かつて3代目橘家圓蔵を名乗っていたためか、いつの間にか戸籍の名前まで圓蔵になってしまっていた)。実弟は同じく落語家で弟弟子の三遊亭圓鶴。武州所沢名主倉片助右衛門の3男に生まれる。八王子に住む倉片家の親戚の娘が、巡業に来た後の5代目林家正蔵に惚れ、追いかけて所沢まで来たのを見て、「噺家は女にモテる」と思い、その道に進む事を決意する。慶応の初期に三遊亭圓朝に入門し、勢朝と名乗る。明治初年頃に3代目橘家圓蔵(改名と同時に二つ目昇進と推測される)を経て(勢朝の名は後に実弟圓鶴が圓朝の下に入門時に名乗った)、1874年から1875年頃に初代三遊亭小圓朝に改名(改名と同時に真打昇進と推測される)。なお、小圓朝改名については圓蔵時代に刺青を入れたのを師匠圓朝に見つかって圓蔵の名を取り上げられたためとも、旅回りの時に小圓朝を勝手に名乗ったためとも言われている。1883年とも言われる年に2代目三遊亭圓楽を襲名して長らく圓楽の名でいたが、1919年4月に橘家二三蔵(後の林家彦六)に圓楽の名を譲り、「三遊一朝」に改名。「一朝老」「一朝爺さん」とも、明治40年代から浅草栄久町に住んでいた事から「栄久町のお爺さん」とも呼ばれた。落語はそれほど上手くは無かったが、若手の稽古台として、圓楽時代から5代目三遊亭圓生・6代目圓生親子、4代目柳家小さんなどの後の大看板となる落語家に噺を教えた事は評価される。師匠圓朝の得意ネタであった怪談噺・道具入り芝居噺は、一朝から彦六、5代目古今亭今輔が教わり、現在は彦六の弟子である林家正雀、彦六から口伝された上方噺家2代目露の五郎兵衛が演じている。また怪談噺も得意で幽霊役は前座の三遊亭圓坊(飯田米太郎のことか?)が演じた。晩年は、彦六(当時は5代目蝶花楼馬楽)・5代目今輔(当時は柳家小山三)が半年交代で世話をし、彦六の自宅で亡くなった。享年83ないし84。圓朝門下の中で最も長寿だった噺家である。周囲では三遊亭一朝としていたが、本人は「俺は三遊一朝だ」と主張していた。『古今東西落語家事典』では、三遊亭一朝名義で記事が載せられている。なお彦六は正蔵時代、名跡を自分が生きているうちに初代林家三平に返そうと考え、その場合一朝を襲名しようとも考えていたようだが、三平から「よろしいまで正蔵でいてください」と言われたため、実現はしなかった。結局一朝の名は、彦六の孫弟子である春風亭一朝(5代目春風亭柳朝門下)が引継いだ。また入門時の名である勢朝は一朝の弟弟子である春風亭勢朝が引き継いでいる。

実は三遊亭一朝は落語家の名跡なので、過去に3、4人ほど確認されていますが、一番有名なのはこの人でしょう。この辞世の句については特に解説する必要はないと思われます。死を前にしてこのような句を詠めるというのは、なかなかアナーキーなことではないでしょうか。芸能人かくありがたし。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

出でて去なば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

源実朝の辞世の句。源実朝は鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより源氏将軍は断絶した。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。建久3年(1192年)8月9日巳の刻、源頼朝の次男として鎌倉名越の北条時政の屋敷・浜御所で生まれる。幼名は千幡。母は頼朝の流人時代に妻となっていた北条政子。乳母は政子の妹である阿波局が選ばれ、大弐局ら御所女房が介添えをした。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われた。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。建久10年(1199年)に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われた。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を従五位下・征夷大将軍に補任した[1]。 10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。建保元年(1213年)藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。『金槐和歌集』はこの頃に纏められたと考えられている。建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。

出て行って主人のいない家となったとしても 軒端の梅よ春を忘れるな

源実朝は後世歌人としての評価が高く、『小倉百人一首』にも「世の中はつねにもがもななぎさこぐ あまの小舟の綱手かなしも」という歌が収録されています。源実朝は江戸時代の国学者賀茂真淵に称賛されて以来「万葉調」の歌人ということになっていますが、彼の歌集『金槐和歌集』は古今調・新古今調の習作が多いです。確かに源実朝は「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」などの後鳥羽院への忠臣的な歌を詠んでおり、そのこことから戦前は過大に評価されたと言うこともできるでしょう。しかしそうであったとしても、源実朝に非があるとは言えません。何といっても28歳で死んだというのは、歌人として大成するにはあまりにも若すぎますから。源実朝は将軍でありながら、従兄弟の公暁に殺されたという悲運の人なだけに、後世の人からの同情も深かったようです。辞世の歌は明らかに菅原道真大宰府に左遷され京の都を去る時に詠んだ「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」を元に詠まれたのでしょう。『承久記』によると、実朝の最期は「広元やある」と大江広元の名を呼んで落命したそうです。源実朝について、多くの人が色々と書いていますが、評伝で有名なのは小林秀雄の『実朝』と吉本隆明 『源実朝』、小説で有名なのは太宰治 『右大臣実朝』と大佛次郎の『源実朝』です。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

来たるも亦前ならず 去るも亦後ならず
百億毛頭に獅子現じ、百億毛頭に獅子吼ゆ

無学祖元の辞世の喝。無学祖元は中国明州慶元府(浙江省)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧侶。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。1226年明州慶元府の許家に生誕。1237年兄の仲挙懐徳の命で杭州の浄慈寺の北礀居簡のもとで出家。1240年代径山の無準師範に参じ、その法を嗣ぐ。この頃、石渓心月や虚堂智愚、物初大観、環渓惟一らを歴参する。1262年東湖の白雲庵に移転。1275年、蒙古軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺(のうにんじ)に避難していた無学祖元は元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる。なお、のちに臨済宗の雪村友梅も、元で諜者の嫌疑をかけられるが、この臨刃偈を唱えたことで許されたとも伝わる。

乾坤無卓孤筑地
只喜人空法亦空
珍重大元三尺剣
電光影裏斬春風

乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
喜び得たり人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
珍重す大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬らん

天地には一本の竹棹を立てる余地もない
ただ喜ばしいことは、人は空であり、法も又空である。
珍重すべきは、元兵が持つ三尺の剣である。
その剣を振るったとしても稲妻のように瞬間に、春風を斬るようなものである。

1279年鎌倉幕府執権北条時宗の招きに応じて来日。鎌倉で蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。1281年(弘安4年)弘安の役に際して、その一月前に元軍の再来を予知した祖元は、時宗に「莫煩悩」[煩い悩む莫(な)かれ]と書を与えた。また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた。この祖元の言葉はのちに「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は「神風」によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる。1282年、時宗は巨額を費やし、元寇での戦没者追悼のために円覚寺を創建し、祖元は開山となる。1286年(弘安9年)、建長寺にて示寂。享年61。墓所も建長寺にある。

この無学祖元の辞世の喝は、あまりにも抽象的すぎてもはや素人の解釈の及ぶところではありません。前半部分は「来ても、目の前にいると思わない。去っていっても、後ろにいると思わない。」くらいの意味だと推測できますが、後半部分はちょっと分かりかねます。禅の公安のような辞世の喝ですね。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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議事録①9月26日 

議題:定例会議
日時:2012年9月26日 18:00~19:30
場所:キャンパス内
参加:三役を含む7名


●2012年年度新規登録団体昇格(8月)に伴う活動要項の説明
・ビラ(1枚の掲示板につき1団体A4×2枚、団体名と学祭会場を明記)
・はめ看板の是非(学祭期間or冬季期間? 検討中)
・提出書類の確認(学生オフィスと学友会事務局用の計2部 ※期限厳守)
・輪転機の使い方(次週確認)
・部屋の取り方(次週確認)
・会則の確認

●今後の活動と内容
・自己紹介用紙(会内用)の説明
 →後日、メーリスにて添付(ワード形式)し、担当者に提出。後日、製本した冊子を配布予定。
・学園祭の展示内容の確認と方針(形式[原案]:A4用紙を16分割印刷し、貼りあわせる)

Category: かつどう!

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今日の辞世の句 

Hey Ram

おお、神よ

マハトマ・ガンディーの最期の言葉であり墓碑銘。マハトマ・ガンディーはインドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある)。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(「父親」の意味)とも呼ばれている。1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、受賞には至っていない。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デーという国際デーとすることが決議された。南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特にガンディーに倣ったと表明している指導者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ダライ・ラマ14世等がいる。性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しては極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。イギリス領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンディーと、その夫人プタリーバーイーの子として生まれた。ポールバンダルの小学校に入学後、ラージーコートの小学校に入りなおす。成績が悪く融通もきかない面があった。その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。13歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚。18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強する。卒業後、1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。しかし、白人優位の人種差別政策下で、鉄道の一等車への乗車を拒否され荷物もろとも放り出されるなどの強烈な人種差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。1880年代以降、ガンディーはインドの宗教的叙事詩・バガヴァッド・ギーターとロシアの小説家・レフ・トルストイの影響を受けていたが、『新約聖書』の「山上の垂訓」など基督の十字架の道を深く理解し、「非所有」の生涯を決意する。後の非暴力運動思想を形成していく。1914年に第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行った。しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行せず、またドイツからの援助を受けていた一派による蛮行を抑えるため、インド帝国政府は破壊活動の容疑者に対し令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、陪審員によらない裁判を認めた強圧的な「ローラット法」を制定するにいたる。さらに1919年4月13日には、パンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装の市民に対して、グルカ族およびイスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃し数百人を虐殺した「アムリットサル事件」が発生した。この一連のインド帝国政府の態度は、ガンディーに「イギリスへの協力が独立へとつながらない」という信念を抱かせるようになった。1945年8月に第二次世界大戦が終結しイギリスは戦勝国となったが、国力は衰退し、もはや、本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを、植民地として支配していくことは困難であった。1947年8月15日にデリーの赤い城にてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した(その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった)。なお、ガンディーの「ヒンズーとイスラムが融合したインド」との思い通りにはいかず、最終的にイスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。ガンディーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセーらによって暗殺された。3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム」)とつぶやいてこの世を去った。78歳であった。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川とガンジス川と南アフリカの海に撒かれた。

ガンディーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げ、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みました。そのためか彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について(英語: The Story of My Experiments with Truth)』という題をつけています。ガンディーは、非暴力運動において一番重要なことは自己の内の臆病や不安を乗り越えることであると主張しており、ガンディー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味しています。非暴力(アヒンサー)はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教(仏陀に代表される)、ジャイナ教の伝統においても見ることができます。またガンディーの非暴力抵抗の思想は、新約聖書や『バガヴァッド・ギーター』の教えに特に影響されているとも言えるでしょう。ガンディーの後継者とされた独立後初代首相のネルーは、経済政策の上ではガンディー主義(Gandhism)に真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めました。ネルーは独立直後にイギリス政府高官に「ガンジーはあくまでインドを引き裂いてはならないという。しかしイスラム教徒は我々がいかなる妥協を示しても自分達の国家をつくると言って譲らない。インド各地で起きている血塗れの惨劇はエスカレートするばかりである。我々は敢えて頭痛から逃れる為に、頭を切り落とさなければならない。最早ガンジーのような立場は非現実的である。残念ではあるが、ガンジーは今政治の中心から逸れてしまっている」と述べました。当時から現在までイスラム教徒と他教徒との争いは顕在化しており、そうした実態を結果的に無視する形となった宥和政策も、民衆感情に反するものでありました。このような状況の中ではありますが、同時に近年インドでは新たな形でのガンディー再考の試みが、映画や演劇などの分野でなされてきてもいます。最期にガンディーの言葉を紹介しておきましょう。"It is unwise to be too sure of one's own wisdom. It is healthy to be reminded that the strongest might weaken and the wisest might err."「自分自身の知恵に信をあまりに置くのは賢明ではない。心に留めるといい――最も強い者でも弱くなりえ、最も賢しい者でも誤りうる。 」

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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