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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Encore un moment, monsieur le bourreau, un petit moment

One more moment, Mr. Executioner, I beg you!

ちょっと待ってください、処刑人さん。お願いします!

デュ・バリー夫人の最期の言葉。デュ・バリー夫人はルイ15世の公妾。本名マリ=ジャンヌ・ベキュー。傾国の美女とも、単なる哀れな女性であったとも言われる。ジャンヌはアンヌ・ベキュの私生児としてフランス、シャンパーニュ地方の貧しい家庭に生まれた。弟が生まれてまもなく母は駆け落ちし、叔母に引き取られて育った。ジャンヌが7歳の時、母が金融家と再婚するとパリで義父と暮らすことになる。ジャンヌは義父に大層かわいがられ、まともな教育を受けさせてもらえた。15歳で修道院での教育を終えると、初めはある家の侍女をしていたが、素行上の問題から解雇される。その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしていたようだが、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始めた。美しいジャンヌは、やがてデュ・バリー子爵に囲われると、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などがジャンヌの相手となり、その時に社交界でも通用するような話術や立ち振る舞いを会得したと推測される。1769年にルイ15世に紹介された。5年前にポンパドゥール夫人を亡くしていたルイ15世は、ジャンヌの虜になって彼女を公妾にすることに決める。デュ・バリー子爵の弟と結婚してデュ・バリー夫人と名を変えたマリ・ジャンヌは、型どおりの手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾になり、社交界にデビューした。フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ=オーギュスト(後のルイ16世)に嫁いでいたマリー・アントワネットと対立した。マリー・アントワネットは、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受け、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を徹底的に憎んでいたのである。加えて、かねてデュ・バリー夫人の存在を疎んじていたルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人であるマリー・アントワネットを味方につけようと画策したことが、この対立を一層深めた。しかし、デュ・バリー夫人は朗らかで愛嬌がある親しみやすい性格で、宮廷の貴族たちからは好かれていたという。1789年にフランス革命が勃発し、愛人だったパリ軍の司令官ド・ブリサック元帥が虐殺された後、1791年の1月にイギリスに逃れ、亡命貴族たちの援助をおこなった。1793年3月に帰国したところを革命派に捕らえられ、12月7日にギロチン台に送られた。この時の死刑執行人のサンソンは、彼女とは知己で、彼女は泣いて彼に命乞いをした。サンソンはこれに耐えきれず、息子に刑の執行をさせ、結局デュ・バリー夫人は処刑された。なぜ彼女が帰国したのか真相は定かでないが、革命政府によって差し押さえられた自分の城にしまっておいた宝石を取り返すのが目的だったという説がある。

もしシンデレラが嫁いだ国で革命が起こったらどうなっていたのか? その答えがデュ・バリー夫人の生涯でした。彼女はお針子から国王の公妾となるという、当時考えられる限り究極のシンデレラストーリーを手に入れたのに、最後は処刑されるという悲運に見舞われました。確かに彼女はルイ15世の公妾として優雅な生活を送りましたが、政治的な野心もなく愛嬌がある親しみやすい性格の人であり、また浪費家としては同じくルイ15世の公妾であった、ポンパドゥール夫人の方がはるかに上でした。女流画家のルブラン夫人の回顧録によると、革命裁判所で死刑を宣告され、命を落とした多くの女性たちの中で、断頭台を直視できなかったのは、デュ・バリー夫人だけだったそうです。彼女は泣き叫び、知り合いであった処刑人のサンソンに助命を願いましたが、聞き入れられるはずもなく断頭台にかけられました。ルブラン夫人は、「私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」と述懐しています。フランス革命後の恐怖政治における一連の処刑は、復讐としての意味合いが強く、革命の指導者たちは裁判と処刑によって、王侯貴族を侮辱し権威を失墜させようとしていました。しかし貴族たちが案外に反抗的であり、誇り高く死んでいったために、彼らの怒りと粛清の厳しさの度合いはどんどんエスカレートしていき、やがては革命の理念そのものが崩壊していくという皮肉な結果となりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

J'ai tué un homme pour en sauver 100 000

I killed one man to save 100,000

私は一人殺すことによって、10万人を救いました。

シャルロット・コルデーの裁判での弁明。シャルロット・コルデーはフランス革命において、ジロンド派を擁護し、ジャン=ポール・マラーを暗殺した女性である。後世、その美貌から、暗殺の天使と呼ばれた。最後は断頭台へと消えたが、その途上の彼女の儚さに恋した男性も多かったという。三大古典詩人の一人、コルネイユの子孫である貧乏貴族の娘として、ノルマンディーに生まれたが、母と死別した13歳のときに修道院に入った。読書を好み、ルソーなどを読む物静かな女性であったと言われている。特に、プルタルコスの『対比列伝』や、先祖コルネイユの著作を好んだという。やがて、革命政府により修道院が閉鎖され、シャルロットは叔母のブルトヴィユ夫人のもとに身を寄せた。革命を過激に推進するジャコバン派を嫌悪し、ジャコバン派との政争に敗れたジロンド派を支持するようになる。カーン市に滞在中、パリでの抗争に破れ逃亡してきたペティヨンやバルバルーらジロンド派議員との接触の後、フランスのためにマラーの殺害を計画した(ただし議員らにはマラーが重病の身で余命幾ばくもないことは周知の事実であり、暗殺を教唆したとは考えにくい。シャルロット自身も後の裁判で共犯者や黒幕の存在を一貫して否定しており、あくまで単独の犯行だったと考えられる)。1793年7月9日、叔母の家から、パリに単身上京した。7月13 日、人民のために門戸を常に開いていたマラーを訪ね、彼らに対して陰謀がめぐらされていると言って傍に近づいた。皮膚病を患っていたマラーは、浴槽からそれを聞いていたが、シャルロットが隠し持っていた包丁で心臓を刺され絶命する。シャルロットはその場で逮捕され、17日、革命裁判で死刑の判決を受け、その日のうちにギロチンによって処刑された。

シャルロット・コルデーは、世界の歴史にその名を残した暗殺者の中でも、最も印象に残る人物の一人です。歴史書『ジロンド党史』を書いた19世紀のロマン派の詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌは、彼女を称えて「暗殺の天使」と呼びました。第二帝政期になると、彼女は革命期の非道な人物であるマラー殺した、フランス救国のヒロインとみなされ、多くの絵画などに好意的に描かれました。この彼女の裁判の言葉は、多くの人にルイ十六世を処刑した時の、ロベスピエールの言葉を示唆していると思わせたそうです。コルデーは自分の信念に基づいてマラーを暗殺しましたが、当時のマラーは病気で政治の中心から離れており、また恐怖政治を実際に行っていたのはマラーではなくロベスピエールでした。マラーの暗殺は殺す相手を間違ったような印象がある上に、ロベスピエールは殺されたマラーを神格化することでジロンド派の支持を奪い、さらにジャコバン派内部での彼の地位を不動のものとしました。その結果ロベスピエールによって、さらなる粛清が強行されることとなりました。歴史に名を残した暗殺者の多くは、後世に英雄として語り継がれていますが、実際の歴史に鑑みて客観的に評価すると、事態を悪化させた例が非常に多いのもまた事実です。とはいえ彼女の美貌と信念が多くの人々に畏敬の念を抱かせたようで、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンは回想録で彼女についてこう語っています。「彼女を見つめれば見つめるほどいっそう強く惹きつけられた。それは、たしかに彼女は美しかったが、その美しさのせいではなく、最後の最後までなぜあのように愛らしく毅然としていられるのか信じられなかったからであった。」

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今日の辞世の句 

Aidez-moi, ma chère amie!

助けてくれ、私の愛しい友よ!

ジャン=ポール・マラーの最期の言葉。ジャン=ポール・マラーはフランスの革命指導者。医師。革命勃発後、山岳派に加わり恐怖政治を推進した。1743 年、スイスのヌーシャテルの中流家庭に6人兄弟の長男として生まれる。脆弱で勉強好きな少年だった。ヨーロッパ各地を遊学した後、ロンドンで開業医となる。1777年にフランスに招聘され1783年まで王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)のもとで働いた。その頃から反体制運動を始めている。1789年のフランス革命勃発後は、新聞『人民の友』を発行し過激な政府攻撃をして下層民から支持された。そのことがもとで1790年1月にイギリスに亡命。4月に戻ってからコルドルエ・クラブに入り、8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への9月の虐殺を引き起こしたといわれている。1792年、国民公会の議員に選出されて山岳派に所属した。議会を主導するジロンド派を攻撃し、一時、逮捕されたがすぐに釈放されパリ民衆を蜂起させて最終的に国民公会から追放した。この頃、持病の皮膚病が悪化。活動不能となり自宅にこもって1日中入浴して療養していた。1793年、面会に来たジロンド派支持者シャルロット・コルデーに暗殺された。暗殺後、現場で画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが有名な『マラーの死』を描いている。ジャコバン派の盟友マクシミリアン・ロベスピエールによって神格化され、ジロンド派への弾圧強化の口実となった。遺体は「革命の殉教者」としてパンテオンに埋葬されたがテルミドールのクーデター後に取り除かれた。

マラーは恐怖政治を推進した人物として、フランス第二帝政期には非道な人物とされたこともあって、現在でも革命家か血に飢えた狼かというように評価が別れています。どちらにせよ彼が残酷な人だったことは確かなようで、「近代化学の父」アントワーヌ・ラヴォアジエが投獄・処刑されたのは、化学者でもあったマラーが、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって却下されたことの、逆恨みによるものであるとも伝えられています。

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O Liberté, que de crimes on commet en ton nom!

おお自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか!

ロラン夫人の最期の言葉。ロラン夫人はフランス革命のジロンド派の指導者の1人である。ジロンド派の黒幕的存在だったことからジロンド派の女王とも呼ばれた。本名はジャンヌ=マリー・"マノン"・フィリポン=ロラン, ラ・プラティエール子爵夫人(仏: Jeanne-Marie "Manon" Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière)。旧姓はフィリポン、マノンはペンネームだが、夫が内務大臣のジャン=マリー・ロランであったことから、ロラン夫人と呼ばれ、夫と区別してマノン・ロランとも言う。美貌に加えて並外れた知性と教養を持っていたが、平民出身だったために貴族に受けいられず、共和主義者になった。1754年、パリで中流ブルジョワ家庭に生まれる。幼少の頃より英才教育を受けてルソーなどと親しんだ。1776年、後の夫の工業監督官ロラン子爵と交際。1780年、20歳の年の差があったが結婚。以後、妻の影響でロランは政治に関わる。1791年、パリに移住。住居にサロンを開き各界の名士と交流。ジロンド派を形成する。1792年3月、ロランが内務大臣となるが完全に妻の言いなりだった。国王裁判ではルイ16世の敵国内通を公表した。9月、立憲議会成立後の山岳派と対立。1793年、国王処刑後、一部の者がダントンと妥協を図ろうとするがロラン夫人が原因で失敗。6月、抗争激化。夫と子供、愛人を逃がした後、逮捕され投獄される。獄中で回想録を執筆する。11月8日「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した後、処刑された。逃亡先でその知らせを聞いた夫は自殺した。

全ヨーロッパに影響を及ぼしたフランスの市民革命では、数々の悲劇が行われましたが、ロラン夫人はその中でかなり重要な役割を果たした人です。彼女の率いたジロンド派は、裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民(ブルジョワジー)を支持層としていました。さまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであったジャコバン・クラブは、革命を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派と呼ばれる、急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り主導権を握りました。ジャコバン派という場合は一般的に山岳派を指します。国王ルイ16世一家がパリを脱出し、東部国境に近いヴァレンヌで逮捕されるというヴァレンヌ事件の後、正式に憲法が制定され新しい議会「立法議会」が成立しました。立法議会では、立憲君主制を守ろうとする穏健勢力のフイヤン派と、国王なしの共和制を主張するジロンド派の2派が力を持ちました。ジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切り、1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発しました。初期の頃は革命の余波が軍隊におよび、指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねました。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡すことになりました。この戦争は、当初は革命への外国の干渉戦争だったのですが、1794年前後を境に形勢は逆転し、後にフランスによる侵略戦争に変貌していきます。対外戦争において苦戦する中、立法議会に代わり国民公会が開催されると、ジロンド派はこの議会において多数を占め、王政の廃止および共和国宣言を採択しましたが、革命の一応の終結を目指すジロンド派と、急進的な革命を推し進めようとする山岳派との対立が激しくなっていきました。経済や軍事面でのジロンド派の失政に対し、議会は山岳派主導に傾き始め、追い詰められたジロンド派は、さまざまな手法で山岳派を陥れようとしましたが、ロベスピエールの先導により、1793年6月にジロンド派の主要メンバーが捕らえられ、ジロンド派の女王ことロラン夫人は処刑されました。彼女の共和主義者になったのは、並外れた美貌と教養を持ちながらも、平民出身であるために貴族達の嫉妬を買い、受け入れてもらえなかったことの恨みによるものでした。ロラン夫人は獄中でその文筆の才をもって非常に美しい文体で、弁明書を書きましたが、裁判でそれを読むことは許されませんでした。裁判の翌日に死刑は執行され、フランス革命を象徴する有名な言葉を述べた後、断頭台の露と消えました。

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今日の辞世の句 

I'm ashamed of you, dodging that way. They couldn't hit an elephant at this distance.

そんなふうにかわすなんて、あなた達が恥ずかしい。彼らはこの距離では象でも当たらない。
(その数秒後にセジウィックは左目の下に弾丸を受けて前に倒れた)

ジョン・セジウィックの最期の言葉。ジョン・セジウィックはアメリカ合衆国の教師、職業軍人である。南北戦争では北軍の将軍だった。スポットシルバニア・コートハウスの戦いで戦死した時のことはしばしば良く知られた皮肉の話と考えられている。セジウィックはコネチカット州のリッチフィールドヒルズ、コーンウォールの町で生まれた。その名前は祖父でジョージ・ワシントンに仕えたアメリカ独立戦争の将軍ジョン・セジウィック(セオドア・セジウィックの兄弟)に因んで名付けられた。セジウィックは2年間教師を務めた後で、陸軍士官学校に入り、1837年に50人の同期士官候補生のうち24番目の成績で卒業し、アメリカ砲兵隊の少尉に任官された。セミノール戦争に従軍し、米墨戦争では2度名誉昇進を果たし、コントレラスの戦いとチュルブスコの戦いで大尉、チャパルテペクの戦いで少佐となった。メキシコから帰還すると騎兵隊に転属となり、カンザス州で勤務し、ユタ戦争とインディアン戦争で戦った。1860年の夏と秋に、現在はコロラド州のプラット川沿岸に新しい砦を建設する遠征隊を率いた。補給物資がカンザス州の一番近い砦から荷馬車隊で運ばれてくるはずのものが来ないという状況で大変辛い思いをしたが、何とか寒い季節が到来する前に快適な兵舎を建てることができた。これらの建物は大部分石で作られ、屋ねや戸には木材を使っていた。この基地の遠隔性を現在理解するのは難しいが、当時ミシシッピ川の西には鉄道がなく、セントルイスやカンザスシティとの交信は川舟を使い、さらに西へは荷馬車隊か馬の背を使った。南北戦争が始まると、セジウィックはワシントン方面軍の大佐および監察長官補として仕えた。初期の戦闘である第一次ブルランの戦いは、コレラに罹った後の快復期だったために参戦できなかった。1861年8月31日に准将に昇進し、ポトマック軍でサミュエル・P・ハインツェルマン少将師団の第2旅団指揮官となり、その後の半島方面作戦では第2軍団の第2師団を率いた。バージニア州では、ヨークタウンの包囲戦とセブンパインズの戦いに参戦し、グレンデイルの戦いで腕と足に負傷した。1862年7月4日に少将に昇進した。アンティータムの戦いの時、第2軍団指揮官エドウィン・サムナー少将は適切な偵察も無く衝動的にセジウィックの師団を大規模攻撃に送り込んだ。その師団はストーンウォール・ジャクソン少将の指揮する南軍に3方から攻撃され、2,200名の損失を出した。セジウィック自身も3発の銃弾が当たり、手首、足および肩を負傷し、フレデリックスバーグの戦いの後まで戦闘に参加できなかった。1862年12月26日、セジウィックは短期間第2軍団と第9軍団を率い、続いてポトマック軍の第6軍団指揮官となり、これを1864年に戦死するまで続けた。チャンセラーズヴィルの戦いでは、その軍団が最初の持久戦の時にフレデリックスバーグに面した陣地におり、一方ジョセフ・フッカーの他の4個軍団はロバート・E・リー軍の左側面に回り込んだ。セジウィックは行動に移るのが遅かったが、最終的にラッパハノック川を越えてメアリーズハイツのジュバル・アーリー少将の小規模部隊に襲い掛かった。その後緩りと西に動いてフッカーの軍隊と合流し軍隊の半分ずつの間にリーを陥れようとしたが、セーラム教会の戦いでリー軍の第2軍団(ジャクソンの戦死後、J・E・B・スチュアートが指揮していた)の部隊に止められ、最終的にラッパハノック川を渡っての撤退を強いられた。このことを聞いたフッカーは全軍を引き上げてチャンセラーズヴィルの戦いは終わった。ゲティスバーグの戦いでは、セジウィック軍団が7月2日に到着し、その結果ホィートフィールドでの北軍の反撃には数隊のみが参戦できただけだった。1864年のオーバーランド方面作戦では、荒野の戦いで第6軍団が北軍の右翼を占め、リチャード・イーウェル中将の第2軍団による攻撃を凌いだ。1864年5月9日、セジウィックはスポットシルバニア・コートハウスの戦いの緒戦に倒れた。その軍団は南軍防御陣の左側面の前にある散兵線を探っており、セジウィックは大砲の配置を指示していた。南軍の狙撃兵が約1,000ヤード (900 m)離れており、その銃撃を受けて参謀員や砲手達は遮蔽物の陰に隠れた。セジウィックは公然と歩き回り、「何だ?1発の銃弾をそんなふうにかわすのか?彼らが全線にわたって銃火を開いたらどうするのだ?私はあなた達が恥ずかしい。彼らはこの距離では象でも当たらない。」と言ったとのことである。部下達は恥じ入ってはいたが怯んだままだったので、セジウィックは「そんなふうにかわすなんて、あなた達が恥ずかしい。彼らはこの距離では象でも当たらない。」と繰り返した。その数秒後にセジウィックは左目の下に弾丸を受けて前に倒れた。その死は世間の哀悼で迎えられた。ロバート・E・リーですら、旧友の運命に悲しみを表した。ジョージ・ミードはその報せに涙した。グラントはセジウィックのことを「重要なことをやらねばならない時に決してしくじらない」者として特徴づけ、その参謀達にセジウィックを失ったことは全師団を失ったよりも悪いと告げた。

ジョン・セジウィックの最期は、勇気とは何であるかという問題を考えさせられます。プラトン対話編『ラケス』の中で、ニキアス将軍は勇気を定義して「恐ろしいことと恐ろしくないことについての知識」と述べています。ニキアスの定義からするとセジウィックは勇者ではないということになるのかもしれませんが、将軍は時として部隊の先頭に立って兵士達を鼓舞しなければならないものでもあります。当時の銃は命中率が悪く、900Mの位置から狙って当てるのはほとんど不可能でした。彼は軍務を放棄して隠れた兵士たちを叱咤したわけですが、勇気を示すことには常に危険がつきまとうものであり、彼は運悪くその賭けに負けてしまいました。ゲティスバーグ国立戦場公園には、セジウィックと第6軍団を顕彰する騎馬像があり、現在もその威容を仰ぐことができます。おお、勇気よ、その徳の前に何人の将兵達が命を捧げたのであろうか!

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