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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

われらたのしくここにねむる。離ればなれに生まれ、めぐりあい、
短き時を愛に生きしふたり、悲しく別れたれどここにまた心となりて、とこしえに寄り添いねむる。

西條八十の墓碑銘。西條八十は日本の詩人、作詞家、仏文学者。親戚に外交官の石井菊次郎、久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。漢字表記は旧字体の西條が正しいが、現在では新字体の西条も多く見られる。東京府出身。1898年(明治31年)、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919年(大正 8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作『王将』など無数のヒットを放った。また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

西條八十という名前は筆名ではなく本名です。。八十の両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名しました。八十の代表作は「東京行進曲」 「青い山脈」 「誰か故郷を想わざる」です。八十は戦時中は軍歌の作詞をしていましたが、戦後になってからは多くの歌謡曲の作詞を行い、八十が作詞した曲は映画の主題歌や流行歌となりました。特に石坂洋次郎の小説原作の映画『青い山脈』は、最も名高い1949年の今井正監督作品を含めて実に五回作られましたが、その主題歌は五回とも『青い山脈』から変更されませんでした。今の若い人でも知っている八十作詞の曲としては、「母さん お肩をたたきましょう」のフレーズで有名な童謡『肩たたき』でしょう。その他では大阪が生んだ稀代の天才棋士阪田三吉を歌った、『王将』も有名です。この曲は村田英雄が歌い、当時売り上げが150万枚を超える爆発的なヒット曲となりました。八十夫妻の墓は東京都立八柱霊園にありますが、その墓碑銘は夫婦の仲の睦まじさを示すものとなっています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Mother of the Civil Rights Movement.

公民権運動の母

ローザ・パークスの墓碑銘。ローザ・パークスは、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。1955年にアラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反のかどで逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで彼女は米国史上の文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は米国内のみならず国際的にも高く評価されている。ローザ・ルイーズ・マコーリーは、アラバマ州タスキーギでアフリカ系アメリカ人で大工の父ジェイムズ・マコーリーと、教師の母・レオーナの間に生まれた。両親は間もなく離婚し農業を営む母と母方の祖父母のもとで弟・シルベスターとともに育ち、終生所属することになるアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会員となる。母・レオーナは11歳になるまでローザに教育を施したが、 1924年に州都モンゴメリーの女子職業学校に入学させた。1年後に閉鎖されたため他の中学やアラバマ州立黒人師範大学(現・アラバマ州立大学)付属の実験学校で教育を受け、16歳で縫製工場に就職した。その後、1932年黒人理容師のレイモンド・パークス(1903年~1977年)と結婚。結婚後、夫の奨めで高校生課程を修了している。レイモンドは全国有色人向上協会‎(NAACP)のメンバーでありローザも第二次世界大戦後、NAACPモンゴメリー支部の書記を勤めた。しかしそれは専業ではなく、収入を得るため何度も転職しさまざまな職業に就いている。1955年にはモンゴメリー・フェア百貨店で裁縫の仕事をしていた。当時、アメリカ南部諸州にはジム・クロウ法(Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され公共交通機関を除く日常生活のあらゆるところで黒人と白人は隔離されていた。制度上、バス・レストランなど公共の場所で人種隔離が実施され、また黒人の投票権も事実上制限されていた。深南部と呼ばれるアラバマ州も、その事情は同じだった。1955年12月1日18 時ごろ、当時42歳のローザは百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。バス内は白人席と黒人席に分けられ、中間の席には白人がいない時は黒人も座ってよいことになっていた。黒人席が一杯だったのでローザが中間席に座っていると白人が乗って来始め、立つ者も出てきた。このため運転手ジェイムズ・ブレイクが中間席に座っている黒人に立つよう命じる。坐っていた黒人4名中3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「何故立たない?」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否。1987年のテレビ番組でローザは、「着席したままだった私に気付いたブレイクが何故立たないかと訊ね、「立ちません」と答えました。するとブレイクは「よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ」と言ったので私は「どうぞ、そうなさい」と答えたんです」と述懐している。乗り合わせた乗客の証言によればローザは終始、静かで威厳に満ちた毅然たる態度を貫いたとされる。ブレイクは警察に通報しローザは市条例違反で逮捕された。ローザはのちに「どうして私が連行されるの?」と質問した時、警官が「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答したやりとりを明らかにしている。警察署での逮捕手続きが終わるといったんは市の拘置所に入れられたが即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。ローザ逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで26歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやラルフ・アバーナシー牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。以前にも黒人がこのようなことで逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった。ローザの場合はまともな職業婦人であり、NAACP書記でもあったから関係者が迅速に動いた。当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関で利用者の75パーセント以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたためバス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。ローザ側は市条例違反の判決に対しバス車内の人種分離の条例が違憲であるとして控訴、1956年11月に連邦最高裁判所は違憲判決を出し公共交通機関における人種差別を禁止することになる。ボイコット運動は381日間続き最高裁の違憲判決の翌日に収束。キング牧師はこの運動の勝利を契機として全米各地での公民権運動を指導、非暴力直接行動と市民的不服従をかかげ1963年8月28日、ワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年の公民権法成立につながった。この一連の運動に対応して、当時のジョン・F・ケネディ政権は次々と南部諸州における差別制度を禁止する立法を行った。またケネディ政権を継承したリンドン・ジョンソン政権は「偉大な社会」の実現を唱え、積極的に黒人の社会的・経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション立法にまで進んでいる。ローザもキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるが、地元には居辛くなり1957年にデトロイト市に引っ越した。ローザはその後もさまざまな職業を転々としているが、やがて自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気付く。有名人として職業的な地位も向上し、1965年から1988年にかけてミシガン州選出民主党下院議員ジョン・コンヤーズのスタッフを勤めた。なおこの間、1977年に夫・レイモンドがデトロイトで亡くなっている。1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力した。1999年にアメリカ連邦議会は、ローザに議会金メダルを贈った。これは最も偉大なアメリカ市民に贈られるメダルである。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。2005年10月24日にデトロイトの自宅にて老衰で死去。92歳没。

ジム・クロウ法とは、人種分離(=人種差別)法の一般的な呼称です。この名称はミンストレル・ショー(白人が黒人に扮して歌うコメディ)の1828年のヒット曲、『ジャンプ・ジム・クロウ(Jump Jim Crow)』に由来しています。このような社会状況の中で、ローザの逮捕を知った社会運動家のエドガー・ニクソンは、モンゴメリーの教会に移ったばかりの若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに、バス乗車ボイコット運動の組織化を持ちかけました。これに多くの市民がこれに応じ、結果として市のバス事業は財政破綻の危機に瀕することとなり、1956年11月13日連邦最高裁判所は、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下しました。フォーク歌手のピート・シーガーはモンゴメリー・バス・ボイコット事件と公民権運動に関して「バスの後部座席で(If You Missed Me At The Back Of The Bus)」という曲を発表しています。公民権運動の母ローザ・パークスが亡くなると、地元・デトロイトでは哀悼の意を表現、追悼するミュージシャンらのコンサートが相次ぎました。

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今日の辞世の句 

バカヤロ-

岸田劉生の最期の言葉。岸田劉生は大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。1891年(明治24年)、明治の先覚者、岸田吟香の子として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選している。1911年(明治44年)『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになった。劉生自身生前は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)、『演劇美論』(刀江書院)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年~1980年)にまとめられた。1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる。(なお、ヒュウザン会展は2回で終了し、1913年(大正2年)の第2回展ではフュウザン会と改称していた)。劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。1915年(大正4年)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢らであった。草土社は1922年(大正11年)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。大正4年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる。庭に土俵を設け、来客と相撲に興じた)。1918年(大正7年)頃から娘の岸田麗子(1914年~1962年)の肖像を描くようになる。1920年(大正9年)、30歳になったことを期に日記をつけはじめ、『全集』の一部や『劉生日記』(全5巻、岩波書店、1984年)にまとめられている。没するまでの幅広い交友関係が窺われる。劉生を慕って草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり、中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた。1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散の形になったが、劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。1929年(昭和4年)、南満州鉄道(満鉄)の招きで生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。帰国直後、滞在先の山口県徳山(現・周南市)で尿毒症のため死去する。38歳の若さであった。墓所は多磨霊園にある。

岸田劉生は日本芸術家ワガママ列伝にその名を残す、天才洋画家です。彼は生粋の江戸っ子で喧嘩っ早く、とんでもない癇癪の持ち主であり、気に入らないことがあると当り散らすことで有名な人でした。武者小路実篤の著作の『思い出の人々』には、初めて出会った時から誰かに憤慨していた様子が記されています。また志賀直哉とも仲が悪く、志賀がお辞儀をして挨拶しても無視していたため、志賀のほうから岸田を避けるようになりました。洋画家・木村荘八と連れだって、同じくヒュウザン会の設立者である、斎藤与里に「ぶっつぶしてやる!」と殴りこみに出かけたことさえあります。岸田劉生は家族・知人を次々とモデルにして、大量の肖像画を描いたため、彼の肖像画制作は「岸田の首狩り」と呼ばれました。当時から潔癖症で知られており、汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたこともありました。と同時に彼は精巧なうんこの模型をこしらえては、来客の履物の上やトイレの便器の横において、娘の麗子とともにキャッキャと楽しんでいたそうです。晩年までパリに行くことが願望でありましたが、「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語しています。このようなエピソードには事欠かない岸田劉生ですが、彼が日本近代美術史を代表する屈指の天才画家であったことは疑いのないことでしょう。彼の作品の中では麗子像が一番有名ですが、麗子に限らず彼のいくつかの肖像画は見てると怖いです。これは宋元絵画や初期肉筆浮世絵、または南画などの東洋画からの影響で、彼はこの独特のグロテスクさを「デロリ」と呼びました。劉生曰く「デロリ」とは「氣味惡い程生きものの感じを持つた、東洋人獨特のぬるりとした顏の描寫」なのだそうです。劉生の最期は慢性腎臓炎により視力障害を起こし、彼は「暗い」「目が見えない」と叫び、以後頻に「バカヤロ-」を繰り返した後、吐血して亡くなりました。非常に彼らしい最期の言葉だと思います。

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今日の辞世の句 

Sono di Dio per sempre.

私は常に神に属します。

ルクレツィア・ボルジアの最期の言葉。ルクレツィア・ボルジアは、イタリアルネサンス期の女性でローマ教皇アレクサンデル6世の娘。政略結婚に翻弄されたヒロインとして知られる。兄は軍人で悪名高い政治家でもあるチェーザレ・ボルジア。他の同母兄弟にはホアン・ボルジア、ホフレ・ボルジアがいる。ルクレツィアは、ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人ヴァノッツァ・カタネイの間に生まれた庶子である。修道院で少女時代を過ごす。父に非常に愛されていた娘だったという。1493年、13歳でミラノ公イル・モーロの甥でペーザロ伯爵のジョヴァンニ・スフォルツァと結婚する。しかし、ジョヴァンニと不仲のルクレツィアはローマに戻ってしまう。父ロドリーゴは、ジョヴァンニは性的不能で結婚は無効と宣言したが、実際にはルクレツィアが幼い事を理由に、父が寝室を別にする事を命じたためである。寝室を一度も共にしていない、つまり性行為をしていない結婚(「白い結婚」という)だと無条件に離婚・再婚できるため、これを狙ったものと思われる。無論ジョヴァンニは非常に憤慨し、父親や兄との近親相姦の罪があるとしてルクレツィアを訴えた。この一連の騒動に嫌気がさしたルクレツィアは1497年の6月、ドミニコ会修道院にこもってしまう。しかし、そこでスペイン人従者のペドロ・カルデロンと恋に落ち、彼の子を妊娠してしまう。兄のチェーザレはペドロが口答えしたことに激怒し、彼を殺してしまった。1498年の3月6日、ルクレツィアはインファンテ・ロマーノを出産。この子供は父親の戸籍に入れられた。次いで1498年にナポリ王アルフォンソ2世の息子アルフォンソ・ダラゴーナと結婚する。2人の夫婦仲は良かったという。しかし1500年にアルフォンソは暗殺される。兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。当時の情勢から、次に手を結ぶ相手とルクレツィアを政略結婚をさせたいためであったという(離婚はできないため。ただし「白い結婚」は例外)。1501年、フェラーラ公エルコレ1 世・デステの長男アルフォンソ1世・デステと3度目の結婚。当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の1つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。彼女の従妹アンジェラ・ボルジアも女官として着いて来ていた。しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ1世と浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと家計の費用を巡って議論になった。あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女がクララ会修道院にこもってしまったこともあるという。詩人ピエトロ・ベンボと浮名を流したこともあったらしい。しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。また、義姉のイザベラ・デステの夫マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガとも不倫関係にあり、このことを知ったイザベラはただ2人を軽蔑しただけだったという話もある。2人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、ルクレツィアとフランチェスコが親しかったのは確からしく、1504年に幽閉されたチェーザレ釈放の協力をルクレツィアがフランチェスコに頼んだこともある。1502年にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、7月28日にミラノにいるフランス王ルイ 12世を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。9月5日にルクレツィアは女児を死産。その間もずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。1503年に父アレクサンデル6世、1507年に兄チェーザレが死去。ルクレツィアは1519年、6月に未熟児の女児を出産したが産褥熱にかかり、6月22日に教皇レオ10世に宛てて手紙を書いた後、6月24日に母子共に死去した。

ルクレツィア・ボルジアの兄であるチェーザレ・ボルジアは、マキァヴェッリが『君主論』のモデルにした人物です。アレクサンデル6世は世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さや強欲さで知られる人です。ジョヴァンニ・ボッカッチョが『デカメロン』の中で生き生きと描き出したように、当時のローマ教皇は子供がいるのが普通であり、自分の子を甥だと言って高職につけていました。そのため英語の"nephew"(甥)を意味するラテン語の"nepos"から、"nepotism"(身びいき・縁故採用)という言葉が生まれました。ルクレツィア・ボルジアと言うと近親相姦で有名ですが、ボルジア家には政敵が多かったために、ルクレツィアは父や兄と近親相姦を行っているという誹謗が生まれたというのが真相であり、根拠がある話ではありません。彼女は父や兄の政権闘争に翻弄された悲劇の女性と言う印象がありますが、実際のルクレツィアは慈善や福祉に生きた女性であり、領民達からも慕われていたそうです。

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Is everybody happy? I want everybody to be happy. I know I'm happy.

みんな幸せ?みんなに幸せになって欲しいの。私は自分が幸せだと知っているわ。

エセル・バリモアの最期の言葉。エセル・バリモアはペンシルベニア州フィラデルフィア出身。本名エセル・メイ・プライス。父はイングランド人俳優モーリス・バリモア、母は米国の女優ジョージアナ・ドリュー。1894年から舞台女優として活躍、サイレント映画にも出演した。兄ライオネル・バリモア、弟ジョン・バリモアも俳優で、後に3人は「バリモア一家」と呼ばれる名優たちになった。1932年『Rasputin and the Empress』では三人が初共演した。ジョン・バリモアの死後、ライオネルとエセルは『Main Street to Broadway』で共演するが、偶然にもライオネルの遺作になってしまった。映画、舞台、そしてTVでも活躍した。1951年、アカデミー賞授与式でジュディ・ホリデイが欠席したため、彼女の代理として、オスカー像を受け取った。重要な役回りを演ずる作品では、彼女がしばしば病気がちの女性を演ずるか、時にはベッドの上で死んでしまう配役が多かった。彼女と彼の兄ライオネル・バリモアは最初にオスカーを獲得した兄妹である。1944年『None But the Lonely Heart』(日本劇場未公開だが後に『孤独な心』の邦題でテレビ放送された)に出演してアカデミー助演女優賞を受けてから主な活動の場は映画に移り、品の良い老婦人を演じ続けた。1959年79歳で死去。

エセル・バリモアは、ニューヨークで非常に人気のあった舞台女優でした。彼女はステージ・スターになった後、カーテンコールを要求し続ける観客に向って"That's all there is―there isn't any more!" (全てはそこにある、それ以上はない!)と言って、がっかりさせました。これは1920年代と1930年代に、ポピュラーなキャッチフレーズになりました。彼女は心臓病を抱えており、最期はカリフォルニアの彼女の家で心疾患で亡くなりました。

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