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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

(トゥハチェフスキーの最期の言葉は何だったか? と聞いたスターリンにニコライ・エジョフが答えて。)

The snake said he was dedicated to the Motherland and Comrade Stalin. He asked for clemency. But it was obvious that he was not being straight, he hadn't laid down his arms.

蛇は母国及び同志スターリンに対して忠誠を尽くしたと言いました。彼は寛容な処置を求めました。しかし明らかに彼は正直ではありませんでした。彼は武器を捨てていませんでした。

ミハイル・トゥハチェフスキーの最期の言葉。ミハイル・トゥハチェフスキー(1893年2月16日 - 1937年6月11日)はソビエト連邦の軍人。ソ連邦元帥。赤軍の機械化を推進。数々の画期的戦術理論を編みだし、赤軍の至宝、あるいは赤いナポレオンと呼ばれた。とりわけ彼の「縦深戦術理論」はその後の軍事理論に大きな影響を与えた。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。帝政ロシアの没落貴族の息子として、スモレンスク州のアレクサンドロフスコエ(サフォノヴォ近郊)に生まれた。生後まもなくトゥハチェフスキー家は経済的困窮のためモスクワ南東ヴォルガ川流域の都市ペンザへ移住し、ミハイルも同地の中学校に通った。1909年にはモスクワへ引っ越し、陸軍幼年学校へ入学。幼年学校を首席で卒業した後、アレクサンドルの士官学校へ入る。1914年7月、ロシア帝国陸軍少尉に任官して、「近衛セミョーノフ連隊」に配属され、この直後にはじまった第一次世界大戦に従軍。最初の6ヶ月間で6個の勲章を授与される活躍をして大尉まで昇進したが、1915年2月にロムツァ郊外でドイツ軍の捕虜となる。その後、五度にわたる脱走の試みのすえ、1917年8月に成功。パリとロンドンをへて晩秋にロシアへ帰国したが、すでにロシア国内では2月革命で帝政は崩壊し、アレクサンドル・ケレンスキーによる臨時政府が誕生していた。さらにそれも10月革命でレーニンらボリシェヴィキに倒される。こうした情勢の中、祖国の新しい権力に従うことを決めたトゥハチェフスキーは、1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入る。まともな軍事教養を持たない農民などの被支配階級がほとんどの赤軍では元帝政軍人が重用され、トゥハチェフスキーも中将・軍司令官の待遇で迎え入れられた。1918年6月には第一革命軍司令官としてヴォルガ川流域まで破竹の勢いで侵攻してきたチェコスロヴァキア軍と戦い、9月にはシビルスクを占領してレーニンから賞賛された。1919年3月、シベリア政府(白軍)のコルチャーク軍の進攻があった際には主力である第五軍司令官を任せられ、見事にコルチャーク軍を撃破。この功績で赤旗勲章を授与された。さらに1919年秋になると、今度はデニーキン将軍の軍勢が南方からモスクワに迫り、トゥハチェフスキーは南方方面軍司令官としてこれと相対し、優れた戦争指導で1920年3月までにデニーキン軍を総崩れにする。しかしそれも束の間で1920年4月に今度はポーランド軍(国境問題でロシアと対立していた)が内乱に付け込んでロシア領へ侵攻してくる。トゥハチェフスキーは西部方面軍司令官として参戦、「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」と世界革命の前哨戦と主張し兵士達を鼓舞しながら、この戦いもまたトゥハチェフスキー軍の活躍によりポーランド軍を敗退に追いやり6月には逆にロシア軍がポーランド領へと侵攻した。しかしこの時、トゥハチェフスキーは首都ワルシャワの攻略を試みて失敗。レーニンはこれを隣接の南西方面軍の協力がなかったためであるとし、その責任を南西方面軍軍事委員だったスターリン一人に押し付けたので(これによりスターリンは革命軍事会議議員を罷免される)、トゥハチェフスキーが罰せられることは無かった。しかしこれがスターリンのトゥハチェフスキーへの深い逆恨みの憎悪の発端となったという。その後、ポーランド軍はフランスの支援を受けて反転攻勢に転じ、トゥハチェフスキー率いるロシア軍は惨敗して命からがら帰国した。トゥハチェフスキー唯一の敗北の戦争であった(ポーランド・ソビエト戦争)。1921年3月にはクロンシュタットで水兵の反乱、5月にはタンボフ州での3万人の農民蜂起などがあったが、いずれもトゥハチェフスキーがこれを鎮圧。1924年にはレーニンが死去し、スターリンがその後継として独裁権力を掌握しはじめ、1925年にはスターリンの腹心のクリメント・ヴォロシーロフが陸海軍人民委員(のちの国防人民委員)になり、反スターリン的またはその見なされる将校たちが多数追放されはじめたが、内戦時代からの国家的英雄であるトゥハチェフスキーにはさすがのスターリンも手が出せず、1925年から1928年までの間、トゥハチェフスキーは赤軍参謀長に就任し、1931年からは陸海軍人民委員代理兼兵器局長に就任する。この間、赤軍再編成や機械化部隊・空挺部隊などの導入など、一貫して赤軍の機械化・近代化につとめ、その運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たした。こうした功績により、1934年からは共産党中央委員会委員候補に選出され、1935年にはヴォロシーロフら4名とともにソ連赤軍最初の元帥の一人となった。しかしスターリンは相変わらずポーランド・ソビエト戦争のときの逆恨みを持ち続け、またトゥハチェフスキーがソ連軍に多大な功績を残して国内外からスターリンを差し置いて脚光を浴びるのを見るたびにスターリンは自尊心を傷つけられ、自分の独裁者としての地位さえも脅かしかねないと危機感を抱くようになっていく。トゥハチェフスキーはスターリンにとってもっとも不愉快な人物となり、ついにスターリンはその抹殺を目論むようになる。1937年5月11日にトゥハチェフスキーは陸海軍人民委員代理の職を免ぜられ、ヴォルガ軍管区司令官に左遷されている。ナチス・ドイツの諜報機関SD(親衛隊情報部)司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合もっとも強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好のチャンスを見逃さず、ドイツ国防軍の将軍たちとトゥハチェフスキーとが接触していたという偽造文書の作成を1936年末ごろから開始していた。これをドイツからの攻撃を恐れて親ソになっていたチェコスロヴァキアのベネシュ大統領に怪しまれないように入手させ、ソ連のチェコ公使アレクサンドロフスキーを通じて1937年5月上旬から半ば頃にモスクワのスターリンに送られたという。この事実関係についてはほぼ間違いないとされている。しかしドイツ側のこうした工作の影響を過大評価はできず、ドイツ側がどう出ようがスターリンはトゥハチェフスキーの粛清を実行していたという説が根強い。いずれにせよスターリンはこれを口実にして、5月24日にソ連共産党政治局においてトゥハチェフスキーを「ドイツ参謀本部とゲシュタポのスパイ」とする決議を出し、1937年5月26日に彼を逮捕させた。トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書にはその時の血痕が残されている[4]。6月11日にヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)・コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)・フェルトマン三等軍司令官(赤軍人事部長)・プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)らと共に秘密軍法会議にかけて、即決で反逆罪により死刑判決を下し、判決のその日の内にモスクワのルビヤンカ刑務所で銃殺させた[5]。トゥハチェフスキーの家族(妻ニーナ、母マウラ、弟アレクサンドルとニコライ、4人の姉妹、娘2人)も「陰謀に加担した」と見なされ逮捕、強制収容所へ送られた。うち妻ニーナと弟のアレクサンドルとニコライの3人は銃殺に処された。母マウラと妹ソフィアは強制収容所内で死亡している。また12歳の末娘スベトラーナは自殺した。姉妹3人と娘1人が大粛清を生き延びた。以降、翌年までの間、いわゆる“赤軍大粛清”が吹き荒れて赤軍の旅団長以上の者の45%が殺され、赤軍は壊滅状態に達した。なおトゥハチェフスキー自身は、スターリンの死後、スターリン批判にともない名誉回復を受けた。1963年には、トゥハチェフスキーの肖像が描かれた切手がソ連で発行されている。

ミハイル・トゥハチェフスキーは「狡兎死して走狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵さる」(賢い兎が死ぬと猟犬は煮て食われ、飛ぶ鳥がいなくなると良い弓はしまわれてしまう)を体現した人でした。彼の軍人としての才能は、ロシア軍の長い長い栄光の歴史の中でも最高であったと言えるでしょう。通称「赤いナポレオン」。彼は空挺部隊が参加した戦術演習を行い、ロシア空挺軍の生みの親となり、ロケット兵器研究所の設立を積極的に支持するという先見の明を見せました。彼はロシア内戦史と軍事理論の多くの著作を残しましたが、最も有名なものはソ連軍の戦闘教義となった「縦深戦術理論」でしょう。縦深攻撃とは、陸上戦闘における攻撃の一種で、前線の敵部隊のみでなくその後方に展開する敵部隊までを連続的かつ同時的に目標として攻撃することで敵軍の防御を突破し、その後に敵軍を包囲殲滅しようとする理論です。圧倒的な戦力による縦長の隊形での連続的な攻撃と、長距離火砲や航空機による敵後方に対する攻撃し、空挺部隊などによる退路遮断を組み合わせて実施されます。1930年代にかけて第一次/第二次五カ年計画により赤軍の機械化が実現する中で、トゥハチェフスキーは地上軍の機械化とともに、世界に先駆けて空挺部隊の創設を進め、空地一体による大規模な機動演習を成功させました。1936年、トゥハチェフスキーの下で作成された『赤軍野外教令』が発布され、縦深戦略理論は完成しました。1944年に行われたバグラチオン作戦が、その集大成と評価されるています。縦深攻撃の最終的な目標は、包囲による敵軍の殲滅におかれることが基本であるので、同じ機甲戦の理論でも、迂回による戦略目標地点の奪取や破壊を主眼とするドイツ軍の電撃戦とは異なっています。トゥハチェフスキーは死刑判決間際にはスターリンを党と人民の敵として弾劾する剛毅さもありましたが、1921年のクロンシュタットにおける水兵の反乱(ソビエト体制に対し、民主化を要求)に対して容赦のない攻撃を加えて鎮圧したり、同年6月12日には、農民による反乱が起こっていたタンボフ州で毒ガス使用による反乱鎮圧を命令するというような冷酷なところもありました。また大粛清を生き延びたスターリンの側近モロトフは、スターリンの死後、大粛清に多くの冤罪があったことは認めましたが、トゥハチェフスキーについては冤罪ではないと主張し続けました。ナチス・ドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒは、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺するべく「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、モスクワのスターリンへ届くよう工作したという説がありますが、スターリン側がドイツがそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではありません。「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーは、NKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受け、スパイである事を自白せざるありませんでした。なんにせよロシア史上最高の将軍である彼が第二次世界大戦時に生きていれば、戦争はもっと早く終わり犠牲者はもっと少なくてすんだかもしれません。トゥハチェフスキーの最期の言葉を伝えたニコライ・エジョフは大粛清を実行した人で、天文学的な数の国民を虐殺しましたが、のちに自らも粛清対象にされて処刑されました。トゥハチェフスキーは裁判で罪名を聞く際に、裁判官の一人が「私は夢見ているのだと思う。」と呟いたのを聞きました。その軍法会議で裁判官を努めたうちの五人は、後に処刑されました。全体主義やスターリン主義への痛烈な批判を寓話的に描いた、ジョージ・オーウェルの『動物農場』に出てくる最後は売られてしまう働き者の雄馬ボクサーのモデルはトゥハチェフスキーであるとされています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Unter dem Druck der Kriegsereignisse zeigt sich, dass noch immer weite Kreise des deutschen Volkes und damit auch der Truppe vom jüdischen und demokratischen Gift der materialistischen Denkweise verseucht sind.

この戦争の結果という圧力により、ドイツ国民の多くやドイツ軍さえもが、物質万能主義に毒されたユダヤ人や民主主義の思想に穢されていたことが明らかになった

ヴァルター・モーデルの最後の訓戒。ヴァルター・モーデルは(1891年1月24日 - 1945年4月21日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中の陸軍元帥。ゲンティン(現ザクセン=アンハルト州)生まれ。1909年に士官候補生として入営。第一次世界大戦には西部戦線で第1軍傘下の第5師団の歩兵士官として従軍。1915年に速成の参謀教育を受け、中隊長として前線で重傷を負った後、陸軍最高司令部に転属となり、作戦課に配属される。1917年に大尉に昇進。翌年後備師団の次席参謀に転属となる。戦後も軍に残り、参謀将校、機関銃中隊長、戦術・戦史教官などを経験する。1929年、少佐に昇進し兵務局教育部に転属。1932年、中佐に昇進して翌年大隊長。1934年、大佐に昇進し第2歩兵連隊長。1935年、陸軍参謀本部技術部長。1938年、少将に昇進し第4軍団参謀長。第二次世界大戦が始まると、1939年のポーランド侵攻と翌1940年の西方電撃戦で第16軍参謀長を務めた。その後も第3装甲師団長、第41軍団長、第9軍司令官を務め、特に1941年からの独ソ戦では、1941年7月に騎士鉄十字章を受章、さらに1941年冬のモスクワ前面でのソ連軍の反撃に対し、就任した第9軍司令官として巧みな防衛戦で戦線を安定させ、ヒトラーの信を得た。この戦功により1942年2月に上級大将に昇進し、さらに立て続けに柏葉騎士鉄十字章、柏葉剣付騎士鉄十字章を授与された。その後も、第9軍司令官として、第二次ルジェフ会戦や、ルジェフ突出部からの撤退作戦など防衛戦に活躍し、「ヒトラーの火消し屋」の異名を得る。しかし、1943年7月のクルスクの戦いにおいては、彼の第9軍は北部からの主攻撃を担当したが、ソ連軍の堅固な守りによって大きな戦果を上げることはできなかった。この際、ヒトラーのもとで行われた5月の作戦会議において、参謀総長クルト・ツァイツラー、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ、南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタインは作戦の即時実行を主張したのに対して、モーデルは自軍は準備不足であり、作戦開始は一ヶ月は延期すべきであるとの主張を押し通した。この結果、ソ連軍の防衛体制は更に増強され、作戦の失敗につながった。これについては、モーデルはもともと作戦自体に反対だったのであり、延期を繰り返すことによって作戦そのものを中止に持っていこうとしたとも言われている。その後、一時の休養をはさんで、1944年1月には、レニングラード地区でソ連軍の攻勢を受けていた北方軍集団の司令官に就任し、とりあえず戦線を安定させた。その後3月には、解任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタインの後任として北ウクライナ軍集団の司令官に就任し、同時に元帥に列せられた。6月にはソ連の大攻勢によって粉砕された中央軍集団の司令官を兼任し、かろうじて戦線を立て直すことに成功した。同年7月にヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、ヒトラーに対し誓紙を差し出している。この事件の影響で、8月にギュンター・フォン・クルーゲの後任として西方軍総司令官およびB軍集団の司令官として西部戦線へ転任するが、ドイツ軍は連合国軍の急速な進撃によってファレーズ包囲戦で大打撃を受けるなど壊走状態となっており、状況はさすがのモーデルの手にも余った。この時モーデルは、ヒトラーから出されたパリ破壊命令を忠実に実行するよう、破壊命令に躊躇していたパリ防衛司令官のディートリヒ・フォン・コルティッツに命じている。9月初めにゲルト・フォン・ルントシュテットが西方軍総司令官に再任されると、モーデルはB軍集団司令官の専任となり、翌1945年4月までその職にあった。この間、9月の連合軍のマーケット・ガーデン作戦を失敗に終わらせたが、12月のバルジの戦いにおいては、自身は大規模な攻勢作戦はもはやドイツ軍の戦力では不可能として反対したものの、ヒトラーを翻意させることはできず、結局攻勢はミューズ川にも達することができず失敗に終わった。この頃からヒトラーの信任も次第に失われていった。ドイツの敗戦直前、B軍集団がルール地方で連合国軍に包囲されると、一般市民を含む「逃亡兵」や連合軍との停戦交渉を試みた者を、容赦なく即決裁判で処刑する指令を出すなど苛烈な抵抗を続け、アメリカ軍のマシュー・リッジウェイ少将による降伏勧告も拒絶した。連合軍の包囲網が狭まり壊滅が目前となると、指揮下の部隊に解散を命じた上で、「ドイツの元帥は降伏しないものだ」として連合軍の捕虜となることを潔しとせず、デュイスブルク近郊の森で拳銃を使って自決した。 ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相は、モーデルの軍集団をドイツ敗戦の責任者として非難する放送を行った。モーデルは自決の地に仮埋葬されていたが、1955年にフォセナックにあるドイツ軍人墓地に改葬されている。

モーデルはドイツ国防軍内では、もっともヒトラーに心酔していた人物と評された人物です。モーデルは軍人としては優秀な戦績を残しており、「ヒトラーの火消し屋」と呼ばれましたが、その他にも巧みな防戦指揮に因んだ「防御の職人」、部下に厳しい目標達成を命じたことから「スタハノフ(ソビエト連邦の炭鉱夫で、ソビエト連邦における生産性向上運動である「スタハノフ運動」のシンボルとなった)」、後方勤務者の中から前線勤務に耐えるものを常に選んでいたことから「恐怖の飛行者」といった、様々なあだ名を付けられました。また彼は強烈な自負心の持ち主でもあり、1942年の初頭における東部戦線の最初の冬期戦最中に、第9軍司令官として着任したとき、「どのくらいの増援を連れて来たのか?」という質問に対して「(増援は)私だ!」と答えました。独身の士官の受勲や昇進を嫌うという、奇癖の持ち主としても知られています。さてモーデルが指揮した戦いを全て書きつくすことはできないので、その中の印象的なものとしてノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)の主要な戦いである、ファレーズ・ポケット(ファレーズ包囲戦)を紹介しましょう。この戦いは進撃してきた西側連合軍に包囲されてしまったドイツ第7軍、第5装甲軍の両軍が、その包囲網から脱出する為の戦いであり、この戦いの結果連合軍はセーヌ川西岸にいたドイツ軍の大半を撃破し、パリは解放されました。この作戦が始まった時点で既にドイツ軍は消耗しており、ドイツ西方軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲはヒトラーの反撃命令に対し、反撃は不可能として命令を拒みました。抗命は認可されましたがクルーゲが連合軍に降伏すると考えたヒトラーは、クルーゲを西方軍司令官から更迭、ドイツ本国へ呼び戻しましたが、クルーゲは帰国途中に自決しました。その後任となったのがモーデルで、彼は赴任するとすぐに、第ⅡSS装甲軍団(4個装甲師団の残存部隊から形成されていた)はイギリス、カナダ両軍へ、第XLVII装甲軍団(2個装甲師団の残存部隊で形成されていた)が南のアメリカ軍へそれぞれ反撃させて、退却路を確保し、その上で第7軍と第5装甲軍の即時退却することを命令しました。この戦いにおける殊勲は、ポーランド侵攻から始まるナチスによる犯罪への怒りに燃えるポーランド軍でした。モーデルは包囲をこじ開けるために262高地を保持するポーランド部隊へ包囲網の外側から攻撃するよう第2SS装甲師団、第9SS装甲師団に命令し、ドイツ軍の強力な攻撃の前にポーランド部隊は孤立しましたが、それでも262高地を保持し、それらは「The Mace」と呼ばれました。三日間の戦闘で、226高地防衛のために常に戦い続けたポーランド第1機甲師団は戦死者325名、負傷者1,002名、行方不明者114名で戦力の20パーセントを損失しましたが、8月21日の夕方までに、カナダ第3、第4歩兵師団がサン・ ランベールとシャンボアから北へ抜ける道路を確保し、カナダ第4機甲師団の戦車がポーランド部隊と接触したことにより、ファレーズ・ポケットは完成しました。包囲内でドイツ軍が被った損害は歴史家ごとに諸説ありますが、80,000から100,000の将兵が閉じ込められ、その内、10,000から15,000が戦死、45,000 から50,000が捕虜となり、約20,000が脱出に成功したと言われています。ファレーズ・ポケットの戦いはドイツ軍の決定的な敗北で終わりましたが、この戦いはヒトラーの絶望的なぐらい楽観的な見通しのために安易に反撃が行われたこと、司令官へ細部までの命令を下したこと、部隊が全滅の危機に瀕したときに撤退を拒否したことなどにより、最初からドイツ軍に勝機は存在しませんでした。政治家が軍事作戦に過剰に口出しすると、とんでもないことになるという見本でしょう。モーデルの最期は 「生きて虜囚の辱を受けず」として自決するという、何となく日本の戦陣訓を思い出させるような死に方でした。ナチス政権下のドイツの軍人で、反ユダヤ主義・全体主義者は別に珍しいわけではないですが、最後の訓戒を見る限りどうも反省はしていなかったようです。とはいえモーデルが自決した後、彼の軍集団をドイツ敗戦の責任者として非難されたのですから、自分たちが正しいと信じ忠義を尽くしたとしても、負けてしまえばこんなものなのかもしれません。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Es lebe Deutschland. Es lebe Argentinien. Es lebe Österreich. Das sind die drei Länder, mit denen ich am engsten verbunden war. Ich werde sie nicht vergessen. Ich grüße meine Frau, meine Familie und meine Freunde. Ich hatte den Gesetzen des Krieges und meiner Fahne zu gehorchen. Ich bin bereit!

ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています!

アドルフ・アイヒマンの最期の言葉。アドルフ・アイヒマン(1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。アドルフ・アイヒマンは1906年3月19日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン。母はマリア・アイヒマン。アドルフは5人兄弟の長男。オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った。当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた。1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)。アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ。1934年9月、当時親衛隊伍長であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した。ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いたが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。オーストリア併合後の1938年3月、当時親衛隊少尉だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物はすべて没収された。また移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を、滅茶苦茶なレートで購入させられた。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった。アイヒマンは1938年10月21日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。同時期のドイツでは1万9000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939年9月27日に保安警察(ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設された。アイヒマンはそのIV局(ゲシュタポ局)B部(宗派部)4課(ユダヤ人課)の課長に任命され、ベルリン勤務となった。各地のユダヤ人移住局を統括する立場となった。1940年6月にフランスがドイツに降伏し、西部ヨーロッパはほぼドイツの支配領域となった。支配領域の拡大に伴い、ドイツの抱えるユダヤ人の数は大幅に増した。1940年6月の時点でドイツの支配領域にユダヤ人は325万人生活しており、彼らの追放先を探すことがドイツ政府にとって急務となった。アイヒマンは支配領域のユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させていった。本人の証言によるとアイヒマンは、1941年8月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。1942年3月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、一台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。アイヒマンの実績は注目され、1944年3月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1950年7月15日にアルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていた。イスラエル諜報特務庁(モサッド)は2年に渡る入念な調査のすえ、モサッドはついにアイヒマンの居場所を見つけ出した。1960年5月11日、アイヒマンはバスから下車して自宅へ帰る道中拉致され、その後エル・アル航空のブリストル ブリタニアで、5月21日にイスラエルへ連れ去られた。アイヒマンの裁判は1961年4月11日にイスラエルのエルサレムで始まった。「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。証言にしばしば伴ったナチスによる残虐行為の記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている人物が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。裁判を通じてアイヒマンはナチスによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した。ソ連の指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を粛清したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残しているが実際にはこの言はスターリンではなく、ドイツの反戦作家のエーリッヒ・マリア・レマルクの言葉だった事が近年証明された。アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しておりその模様は記録映像にも残されている。1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑(イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑)の判決が下され、翌1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑が行われた。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれている。

ハンナ・アーレントは1963年雑誌ザ・ニューヨーカーに、アドルフ・アイヒマンの裁判記録を連載しました。それが『イェルサレムのアイヒマン』です。上記のアイヒマンの最期の言葉は『イェルサレムのアイヒマン』が出典です。アーレントはこの本の中で、イスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのか、などの疑問を投げ掛けたほか、アイヒマンを極悪人ではなく、ごく普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかったと描いたので、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト達に激しく非難されました。彼女を裏切り者扱いするユダヤ人やシオニスト達に対しアーレントは、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人である事に自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論しました。アイヒマンは自分は命令に従っただけで、自分がやらなければ他の誰かがやっていただろうとして、無罪を主張していました。「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」これはイスラエル警察の尋問に対するアイヒマンの答えです。一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問には「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」と述べました。アイヒマンは殺されても仕方ないことをしただけに、この処刑が正しかったのかについては分かりませんが、アーレントのこの裁判の正当性へ疑問を読むと、「目的は手段を正当化しない」と「正義は結果ではなく過程に宿る」という二つの大原則について改めて考えさせられます。特にイスラエルがその後、他宗教や他民族に対して非常に厳しい政策を取ったことを考えると、正義とは何であるかということを定義することの難しさがわかります。もっとも大虐殺が悪いことであるということは、間違いのないことなのですが。さて、人間の心の闇について考えるために、アイヒマン裁判の翌年(1961年)に行われた、ミルグラム実験(アイヒマン実験)とそのバリエーションであるスタンフォード監獄実験についても紹介しておきましょう。ミルグラム実験は閉鎖的な環境下における、権威者の指示に従う人間の心理状況の実験で、イェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムによって行われました。この実験はまず実験協力者に、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行う、学習における罰の効果を測定するものだと説明し、実験協力者(実はこの実験の真の被験者)かペアを組む別の実験協力者(実は役者が演じるサクラ)が、くじ引きで「教師」か「生徒」(あるいは「犠牲者」)役となるかを決めると告げますが、実はこのクジには二つとも「教師」と書かれており、被験者が確実に「教師役」をさせるようにします。被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられます。次に「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれます。そしてこの実験の肝とも言うべき部分は被験者には武器で脅されるといった物理的なプレッシャーや、家族が人質に取られているといった精神的なプレッシャーは全くないことです。「教師」はまず二つの対になる単語リストを読み、その後単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問します。「生徒」は4つのボタンのうち、答えの番号のボタンを押し、「生徒」が正解すると、「教師」は次の単語リストに移ります。「生徒」が間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示を受けます。電圧は最初は45ボルトで、「生徒」が一問間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げていくよう指示されます。「教師」である被験者は「生徒」に電圧が付加されていると信じ込まされますが、実際には電圧は付加されていません。しかし各電圧の強さに応じて、あらかじめ録音された「『生徒』が苦痛を訴える声」がインターフォンから流され、電圧をあげるにつれて段々苦痛のアクションが大きくなっていきます。また電気ショックの機械の前面には、200ボルトのところに「非常に強い」、375ボルトのところに「危険」などと表示されおり、これは記録映像を見れば分かりますが、音声はまるで拷問を受けているかのような大絶叫で、生徒のアクションはショックを受けた途端大きくのけ反る等、一見してとても演技とは思えない迫力でした。被験者が実験の続行を拒否しようとする意思を示した場合には、白衣を着た権威のある博士らしき男が感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告します。
1、続行して ください。
2、この実験は、あなたに続行して いただかなくては。
3、あなたに続行して いただく事が絶対に必要なのです。
4、迷うことはありません、あなたは続けるべき です。
四度目の通告がなされた後も、依然として被験者が実験の中止を希望した場合、その時点で実験は中止されました。さもなくば、最大ボルト数として設定されていたXXXボルトの電圧が三度続けて流されるまで実験は続けられました。実験を行うにあたって、ミルグラムによりイェール大学で心理学専攻の四年生14人を対象に、実験結果を予想する事前アンケートが実施しましたが、回答者は全員、実際に最大の電圧を付加する者はごくわずか(平均1.2%)だろうと回答しました。また同様のアンケートを同僚たちにも内密で行ったところ、やはり一定以上の強い電圧を付加する被験者は非常に少ないだろうとの回答を得ました。この実験の実際の結果は、被験者40人中25人(統計上62.5%)が用意されていた最大V数である450ボルトまでもスイッチを入れた、というものでした。中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいました。全ての被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいましたし、何人かの被験者は実験の中止を希望して管理者に申し出て、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいました。しかし、権威のある博士らしき男の強い進言によって、一切責任を負わないということを確認した上で実験を継続しており、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいませんでした。実験の成果は国内外において賞賛を与えられたが、同時に倫理性の観点と影響が過剰に喧伝されているとして批判の声もありました。1974年になってミルグラムは、その著書『権威に対する服従』(邦訳『服従の心理―アイヒマン実験』)を出版し、アメリカ科学振興協会から、服従についての社会的な考察の業績を理由にその年の社会心理学賞を受賞しました。スタンフォード監獄実験は1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験です。被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせると、その結果時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明されました。具体的には次第に看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始め、抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、ついには禁止されていた暴力が開始されました。ジンバルドーは、それを止めずに続行しますが、実験に協力していた牧師が、この危険な状況を家族へ連絡し、家族達は弁護士を連れて中止を訴え協議の末、6日間で中止されました。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したそうです。後にジンバルドーは会見で、自分自身がその状況に飲まれてしまい、危険な状態であると認識できなかったと説明しました。人間の心の暗い部分がモロに出たこれら二つの実験ですが、強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり暴走してしまうという、まさにアイヒマンの心理を追証したような結果となりました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I am thinking of earlier times.

昔のことが思い出されるよ。

ルートヴィヒ・ベックの最期の言葉。ルートヴィヒ・ベック(1880年6月29日 ‐ 1944年7月21日)は、ドイツの軍人。陸軍参謀本部総長を務めた。最終階級は上級大将。第二次大戦中の1944年7月20日に中心人物としてヒトラー暗殺未遂事件を起こすが、失敗して自殺した。ライン河畔のヘッセン州ビーブリッヒで、由緒ある軍人の家に生まれた。アビトゥーア合格後の1898年にドイツ帝国陸軍に入営。第一次世界大戦には参謀将校として従軍した。戦後、ヴァイマル共和国の陸軍に残り、1933年にはヴェルサイユ条約が禁止する参謀本部機能の偽装である兵務局々長に就任。1935年に総統アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍事条項破棄を宣言した後、晴れて伝統ある参謀本部総長を名乗ることになる。以後参謀総長として新生ドイツ陸軍の建設に邁進する。軍事テクノクラートとして、当時のドイツの軍事力ではイギリス・フランスなどを相手に戦った場合に勝算の無いことを見越し、ヒトラーの威圧的な外交政策に懐疑的であった。ドイツを大戦前の強国に戻すために、ヒトラーが主張するチェコスロバキアに対する攻撃自体には反対していなかったが、少なくとも1940年以前は無理とみていた。1938年、ヒトラーが計画通りに、チェコ国内に少数民族として生活するドイツ系住民の民族自決に関わるズデーテン問題が先鋭化したとき、ベックら一部の陸軍将官は、ヒトラーがチェコ侵攻を命じた場合、戦争を回避するためにヒトラーを逮捕するクーデター計画を準備していた。しかし英仏両国が外交的譲歩をしたためチェコ侵攻命令は出されず、この計画は実行されなかった。彼はブロンベルク国防相らの更迭に不満を持ち、既に1938年8月に参謀総長職の辞表を提出、第1軍司令官を拝命した直後の同年10月に退役し、以後軍務に戻る事はなかった。間もなく第二次世界大戦が勃発。ベックの予測と異なりドイツ軍は最初は快進撃を続けたものの、結局は劣勢になり敗戦は避けられない見通しになった。既にベックはカール・ゲルデラーと共に反ヒトラー抵抗運動の中心人物となっていた。ただし今日では、ベックの批判の対象はヒトラーの軍事・外交指導の誤りであって、独裁体制そのものではなかったとみなされている。数度にわたりヒトラー暗殺計画と新政府樹立が立案されていたが、その中では成功の暁にはベックが「摂政」として国家元首に就任し、首相就任が予定されたゲルデラーと共に、ドイツを破滅から救うために連合国と停戦交渉をすることになっていた。1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により爆弾による暗殺・クーデター作戦が実行されたが、失敗に終わった。ベックはベルリンで逮捕され、フリードリヒ・フロム将軍の黙認を得て自殺する機会を与えられたが、ピストル自殺に失敗し重傷を負った。フロムの命を受けた部下によりとどめの一発を受け、ベックは拷問や不当かつ不名誉な裁判といったナチスの非道な報復を避けることが出来た。

ベックは決して民主主義的でも平和主義的でもありませんでしたが、ヒトラーに抵抗した人物として今日のドイツでは高い評価を受けています。クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ作戦」が実行されると、ヒトラーのいた会議室を爆破されましたが、。ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷しましたが奇跡的に軽症で生き残りました。その後西部方面軍司令官クルーゲ元帥に、ベックが直々に連絡して反乱への参加を呼びかけましたが、クーデターはしっぱいしました。計画が失敗すると、ベックは直ちに自決の許可を求め、2度自決に失敗した後、一兵士がベックに止めの銃弾を撃ち込みました。戦術家としてのベックは、参謀総長時代には電撃作戦の生みの親であるハインツ・グデーリアンの戦車部隊の集中運用に懐疑的であり、古い型の将軍であったとも評されています。しかしベックは1936年初頭には戦車部隊における対戦車攻撃力の重視や戦車部隊の集中投入、攻撃的な運用が可能な完全自動車化師団の設立を支持する報告書も書いており、それらについてはグデーリアンと意見を同じくしていましたが、部下の参謀たちの保守的な意見との間で板挟みになり必要以上に対立してしまったようです。現在ベルリンの国防省跡には、ヒトラー暗殺を計画した、ベック、シュタウフェンベルク、ヘフテン、オルブリヒト、クイルンハイムら五人の名を刻んだ記念碑が建っています。最後に「ヴァルキューレ作戦」を扱った映画として、2008年のアメリカ映画『ワルキューレ』を紹介しておきましょう。この映画の主演はトム・クルーズだったのですが、彼がサイエントロジー(ドイツではサイエントロジーは悪質なカルトと見なされている)の信者であったため、反ナチ運動の英雄であるシュタウフェンベルクを彼が演じることに強い反発が起きました。ドイツ国防省は事件の舞台であるシュタウフェンベルク街等の国防軍関連施設での撮影を許可せず、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督が抗議する事態となりました。最終的にドイツ国防省は『制作者側が「ナチス支配から解放され、完全なる民主主義国家となった統一ドイツの姿」を作品内に盛り込むことに同意した』として、撮影を許可しました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

This is a hell of a way to die.

これはひどい死に方だ。

ジョージ・パットンの最期の言葉。ジョージ・パットン(1885年11月11日 - 1945年12月21日)はアメリカの陸軍軍人。 モットーは「大胆不敵であれ!(Be audacious!)」。カリフォルニア州サン・ガブリエル生まれ。祖父は南北戦争中南部連盟の兵士であり、オペクォンの戦いで戦死している。またアメリカ独立戦争で戦ったヒュー・マーサー准将の血も引き継いでおり、アメリカ合衆国設立当初から続いている由緒正しい軍人一家の一員であり、パットン本人もそれを非常に意識していた。バージニア州立軍事学校およびウェストポイント陸軍士官学校で教育を受けた。幼少の頃から将軍になろうと英雄願望を持っていた。幼少時から妹と軍人ごっこをして遊んでおり、その頃からLieutenant General Georgie S. Patton, Jr.(パットン中将)を名乗っていた。古典文学と戦史を勉強する知的な子供ではあったが、基礎的な学習能力に問題があり、学校教育の全体にわたって影響した。他の子に比べ読み方を学ぶのが遅れ、綴り方のような基本的学習を行わなかった。 今でいう失読症であったと言われている。輪廻転生の信仰者でもあった。多くの文献が、彼が自身をカルタゴのハンニバル将軍の再来であると主張したことを記している。他にもナポレオンとともに戦ったとも言い、ローマの軍団兵であったとも主張していた。第一次世界大戦にアメリカが参戦するにあたり、パーシング将軍はパットンを大尉に昇進させた。フランスにおいてパーシング将軍は、パットンに新しく編制されたアメリカ戦車部隊の戦闘指揮を取らせた。ミューズ・アルゴンヌ方面での作戦において負傷し、戦時昇進により大佐にまで昇進した。ちなみにパットンは第一次世界大戦に参加した将兵では珍しく、塹壕戦と言うものを全く無意味だと信じており次の戦争は塹壕を掘ったり陣地を守ったりで勝敗が決まることは無く、機動力で決するであろうと信じていた。第一次大戦中に戦時昇進で大佐に昇進したが、大戦の終結により少佐に降格となる。 1919年のワシントン勤務中にアイゼンハワーと親友になった。このことは、後のパットンの人生に大きな影響を与えた。1920年代の前半には、アメリカ議会に対し、機甲部隊に対する予算措置を要請したが、認められなかった。また、戦車や機械化部隊についての記事を書き、これらの兵器についての用法を示唆した。平時における緊縮した軍事予算は、パットンの昇進にも影響した。その後ドイツの電撃戦により、アメリカ軍においても機甲師団の必要性が認識された。パットンはその能力が認められ准将に昇進し、機甲旅団長に着任した。この機甲旅団は後にアメリカ第2機甲師団となり、パットンも少将に昇進した。1942年11月にパットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団を指揮しトーチ作戦でモロッコに上陸した。次いで、1943年3月6日に中将に昇進し、同時に更迭されたフリーデンタール中将の後任として第2軍団の司令官に就任した。同軍団はドイツ・アフリカ軍団によってカセリーヌ峠の戦いで大敗を喫したところであった。パットンはオマール・ブラッドレー少将を副官とした。多くの米軍将校や英軍将校によれば当時北アフリカに駐屯していた米軍は規律に緩く、弱かったらしい(当初は英軍に『われわれ(連合側)のイタリア軍』と揶揄されていた)。パットンは着任早々将兵達に厳格に規律を守るように命令し、軍規を守らなかったものには容赦なく罰を科した。また、今までと全く違った厳しい訓練を行い、北アフリカの米軍を文字通り叩きなおした。良くも悪くも軍人らしい軍人だったパットンは必ずしも人気のある指揮官ではなかったが、敬意は払われていた。ほんの些細な事でも軍規を守らなかった将兵には厳しい罰則を課した反面、勇敢に戦った将兵や勇気ある行動を示した将兵の事は過剰なまで褒め上げ、その健闘を称えた。また部下の訓示でも『私を見つけたかったら師団の先頭を走っている戦車まで来い』と言っているように常に前線で指揮を取る事を好んでいた。また彼は部下の将校にもそのような積極的な態度を要求しており、北アフリカに着任してから後方に安全な指揮所を開設しただけでそこから動こうとしない将軍などは容赦なく罷免した。これらの策は功を奏し、パットンの部隊は東から攻め寄せるモントゴメリーの英軍とドイツ軍を挟撃し、1943年5月までには、ドイツ軍を北アフリカから駆逐した。北アフリカでの戦功により、第7軍の司令官となったパットンは、1943年7月にシチリア島に上陸した。第7軍の役割は、島の北東端のメッシナに直進するモントゴメリーの英第8軍の西側面を援護することであったが、第8軍がエトナ山の南で激しい抵抗にあって進撃を停止すると、パットンは島の西部に迅速に進撃し、島の中心都市であるパレルモを解放し、返す刀で東方に転回して、英軍の担当箇所であったメッシナを英軍より先に占領している。しかしドイツ・イタリア軍はメッシナ海峡の制空権と制海権を保持していたので、シチリアに駐屯していたドイツ・イタリア軍のほとんどは重装備と共にイタリア本土に引き上げてしまった。ドイツ軍戦線突破の作戦・コブラ作戦が実行されると、パットンはまるで水を得た魚のように活躍し第3軍で戦線を突破して大進撃を開始する。ノルマンディー地方から一気に南下した後に東進を開始し、ドイツ軍の後方を一気に駆け抜けた。この結果、フランス西部のファレーズ付近でイギリス軍と手を結び、ドイツ軍の包囲に成功する。このファレーズ・ポケットに閉じ込められたドイツ軍部隊は殲滅された。少なくない数のドイツ兵が装備を捨てて散り散りになって包囲を脱出することに成功したものの、1万を超える戦死者(負傷者を含めれば6万人)と5万を超える捕虜を出した「西方のスターリングラード」とも呼ばれた大敗北であった。その後パットンはドイツ軍顔負けの「電撃戦」を実施し、2週間で1000キロ(正確には600マイル前後)近い距離を進撃した。彼が敵の抵抗拠点を見つけた場合、停止しその拠点を攻略してから攻撃を再開するより、機動力を生かして敵の後方に回り込むことを好んだ。どのような抵抗拠点も後方の方が弱体であることが多く、またそうでなくとも補給路を遮断されてしまっては戦いようがない。パットンはそうやってドイツ軍の抵抗拠点の多くを無力化し、攻略した。1944年12月のバルジの戦いでは、パットンの指揮する第3軍の北方でドイツ軍の攻勢が行われた。ドイツ軍の突出部の中でも南部にあったバストーニュは交通の要衝であったため、アメリカ第101空挺師団がここを死守していた。実際バルジの攻勢が始まる前に動物的な勘でドイツが何か企んでいると感じたパットンはこれを救出するために軍を急遽北に向かって転進させ、果敢な進撃により同師団を救出した。これはパットンの大きな功績の1つとされている。パットンはそのまま第3軍を率いてバイエルンに進駐し、その地の軍政指導を担当するようになった。ナチス党に所属していた事自体が罪だと思っていなかったパットンは他の指揮官と違って占領地域での非ナチ化政策は行わなかったのだが、その行為はメディア等から疑問視されていた。そして1945年の9月22日に行われた記者会見で「何故ナチス党員だった職員をそのまま働かせているのか」と聞かれたパットンはドイツ国民にとってのナチスはアメリカ国民にとっての民主党と共和党と同じようなものであるという趣旨の発言をして、メディアや政治家から批判の嵐にさらされた。その発言の趣旨はあくまでナチス党はヒトラー政権下では合法的かつ唯一の政党であり、その当時ナチス党に所属していた事自体を犯罪として考えるべきではない、という彼のスタンスを説明したものだったのだが、その説明をする時にわざわざアメリカの政党をナチス党と同レベルで扱ったという事で、多くのアメリカ国民を怒らせてしまったのだ。アイゼンハワーの司令部も当然その発言を問題視し、パットンは第3軍司令官の任務を解かれ、1945年の10月に第15軍司令官に異動された。同じ軍から軍への異動ではあったものの第3軍と違って第15軍は書類上のみの部隊だった。彼はその後12月9日にハイデルベルクで自動車事故(暗殺の疑いもある)により重傷を負った。参謀長らと共に狩猟に出かける途中にパットンのキャデラックはトラックと衝突した。この交通事故は軽微なもので、トラックの乗員も、参謀長及びパットンの運転手も負傷しなかったが、後部座席に座っていたパットンは前後部座席の間のパーティションに頭を打ちつけて頚椎を損傷し、意識はあるものの首から下の体が完全に麻痺状態となった。皮肉な事にこのトラックはアメリカ軍のトラックだった。その12日後の21日に肺塞栓症で死去し、ルクセンブルクのハムにあるアメリカ軍墓地に埋葬された。

類まれなる指揮官としての才能と少年の心を生涯持ちつでけた、究極の戦車野郎パットン将軍は第二次大戦における最大の英雄の一人です。いわゆる古いタイプの軍人像のステレオタイプとも言える彼の人となりは、「猛進・盲信」とでも言うべき突撃精神の持ち主であり、シチリア戦で見られるような、兵の命など考えない無理な作戦の指揮は末期の日本軍にも通じるものがあるかもしれません。パットンにはマッチョなバカのイメージがありますが、ごく初期から機甲部隊の重要性を説いたことや、ソ連の戦車の高性能とそれに基づく電撃戦が西側の脅威になることを見抜くなど先見の明も見せています。「ナチスと手を組んで今のうちにソ連軍を叩くべきだ」などと当時はかなり不穏当とみなされる発言や、野戦病院で外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打したりと、なにかと素行に問題のあった人ではありますが、彼の常に最前線に出て戦う姿勢が連合国を勝利へと導いいたと言えるでしょう。パットンは作戦立案よりその行動力でその名を残した人であり、「兵は神速を尊ぶ」の原則を貫いた人でした。"A good solution applied with vigor now is better than a perfect solution applied ten minutes later."(今ある力のこもった作戦は十分後の完璧な作戦に勝る)と述べています。機甲師団における電撃戦の優位を説いたパットンでしたが、彼の死後アメリカ軍の戦術理論は空軍最優先論に傾いてゆき、空爆主戦を貫いたアメリカ軍の大戦略は、ベトナムで手痛い失敗を被るまで修正されませんでした。北アフリカ戦役は第二次大戦最大の山場の一つですが、かのエルヴィン・ロンメル率いる枢軸勢を打ち負かしたときには、"Rommel, you magnificent bastard! I read your book!"(ロンメルよ、お前はすごい野郎だ。お前の本は読んだぞ!)とのコメントを残しています。恐らくパットンの名声を決定づけたのは、ジョージ・C・スコット主演の映画『パットン大戦車軍団』でしょう。この映画はアカデミー賞6部門受賞し、パットンを演じアカデミー最優秀主演男優賞を受賞したジョージ・C・スコットは、「史上最高の演技の1つ」と賞賛されました。最後にパットンの彼らしい人の使い方を述べた言葉を紹介しておきましょう。"Never tell people how to do things. Tell them what to do, and they will surprise you with their ingenuity."(どうやるかを教えるな。何をするかを教えろ。そうすれば思いがけない工夫をしてくれるものだ。)

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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