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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Ich grüße Dich, mein ewiges Deutschland.

永遠のドイツに挨拶を送ります。

アルフレート・ヨードルの最期の言葉。アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(1890年5月10日 - 1946年10月16日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦時に国防軍最高司令部作戦部長の地位にあり、陸海空三軍の調整役を務めた。1945年5月7日にドイツ降伏文書の調印を行った。戦後、ニュルンベルク裁判の被告人の一人とされ、絞首刑に処された。最終階級は上級大将。1890年5月10日、バイエルン王国のヴュルツブルクにバイエルン退役砲兵大尉ヨハネス・ヨードルの息子として生まれる。1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、第10バイエルン野砲兵連隊、のち第19バイエルン野砲兵連隊に所属して西部戦線に従軍し、二度負傷する勇戦をした。一次大戦中に二級鉄十字章と一級鉄十字章と戦傷章黒章を受章した。戦後、ヴェルサイユ条約によって10万人に限定されたヴァイマル共和国陸軍に選び残された。国家社会主義者の上官コンスタンティン・ヒールル大佐を深く尊敬し、アドルフ・ヒトラーの存在も知って彼に英雄視するようになったという。1932年6月から国軍省勤務となり、10月からは事実上の参謀本部である「兵務局」の作戦課に配属された。1933年1月30日にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に任命された。ヨードルはすぐに熱心なヒトラー信奉者となった。1940年4月のノルウェー侵攻の際には陸軍参謀本部と協議せずに国防軍最高司令部独自に作戦立案と部隊編成を進めたため、ヨードルは参謀総長フランツ・ハルダーらの怒りを買った。ノルウェー侵攻戦ではナルヴィクに上陸したエデュアルト・ディートル率いる第3山岳師団の海上補給路がドイツ海軍の駆逐艦が全滅したために途絶えてしまい、ヒトラーは撤退させようと考えたが、ヨードルがイギリス軍も同様に脆弱であるとして撤収させることに反対し、トロンハイムから補給するように進言した。ヒトラーはヨードルの案を採用した結果、ドイツ軍はノルウェー戦に完全勝利をおさめたのだった。西方電撃戦と北アフリカの戦いの作戦も彼が立案した。1940年7月19日に二階級特進して大将に昇進。12月18日、ヒトラーの第21号指令を受けバルバロッサ作戦立案に着手した。1943年1月30日には黄金ナチ党員バッジを授与された。フレンスブルク政府のデーニッツ大統領の命令でランスへ赴き、連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー米元帥と降伏交渉にあたった。デーニッツは一人でも多くのドイツ兵を野蛮なソ連軍ではなく、アメリカ軍かイギリス軍の捕虜になれるようにしようと決意しており、そのために可能な限り降伏交渉の時間を引き延ばせとヨードルに命じていた。しかしアイゼンハワーの態度は冷たかった。彼はヨードルとの交渉に自ら出て来てはくれず、副官を交渉にあたらせた。ヨードルのグズグズした交渉にいらいらしたアイゼンハワーは副官を通じてすぐさま降伏文書に調印しないならば、西部戦線を閉鎖すると通告してきた。ヨードルは引き延ばしもこれまでと判断し、5月7日午前2時38分に降伏文書に署名を行った。同降伏文書は48時間後に発効することとなった。調印にあたってヨードルは失意と屈辱の涙を流している。6年間に及んだヨーロッパでの第二次世界大戦はここに終結した。5月10日にデーニッツより柏葉付騎士鉄十字章を授与される。5月13日にはヴィルヘルム・カイテルが連合軍に逮捕されたため、国防軍最高司令部総長を引き継ぐ。連合国によりフレンスブルク政府が解体され、デーニッツ、アルベルト・シュペーア、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク伯爵らと共に連合軍に「戦争犯罪者」として逮捕された。ヨードルはこの逮捕にかなり動揺し、デーニッツに「先ほどの戦争犯罪の話をどう思われます?私たちはアイゼンハワーやモントゴメリー、ジューコフと同じように軍人としての務めを果たしただけではないのですか?」とたずねている。ニュルンベルク刑務所で所長を務めるアメリカ軍大佐バートン・アンドラスによってカイテルとヨードルは起立させられ、「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告されて階級章をはぎ取られた。1945年11月20日からニュルンベルク裁判が開廷した。ヨードルは第1起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第2起訴事項「平和に対する罪」、第3起訴事項「戦争犯罪」、第裁判では軍人として行動していたとヨードルは無罪を主張していたが、受け入れられなかった。1946年10月1日に判決では「彼の行いは、軍人としての服従という通念によっては、如何にしても弁明しきれません」として四つの訴因全てで有罪とした。その後の個別の量刑判決で絞首刑判決を受けたヨードルは、ヘッドホンをむしり取って怒ったような足取りで法廷を後にした。判決をめぐっては連合国内でも意見の相違があったが、コミッサール指令を命じていたため、ソ連が強硬に死刑を主張した。4起訴事項「人道に対する罪」と全ての訴因において起訴された。ヨードルは理髪師に母親に抱かれる自分の赤ん坊の頃の写真について聞かれ、「あの頃に死んでしまわなかったのが残念だな。こんな悲哀を味わわずにすんだのに。」と語った。1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。ヨードルは、リッベントロップ、カイテル、カルテンブルンナー、ローゼンベルク、フランク、フリック、シュトライヒャー、ザウケルの後、9番目に処刑された。ヨードルの名誉回復を願う夫人の控訴により、西ドイツの非ナチ化裁判は「ヨードルは自分の行動を国際法を犯さない軍事作戦のみに限定していた」として、処刑理由とされた罪状を1953年2月28日付けで取り消す決定をした。すなわちヨードルは無罪となった。しかしニュルンベルク裁判の否定につながるとしてアメリカの反対にあい、9月3日にはバイエルン州法相が判決を取り消した。

ヨードルは作戦立案に妙を見せた人でした。彼が本当に死刑になるようなことをしたのかについては、連合国内でさえ意見が分かれていました。彼が死刑になったのは、スターリン率いるソ連が強硬に死刑を要求したからで、これは独ソ戦初期の作戦であるバルバロッサ作戦を立案したのが、ヨードルだからだと思われます。ではバルバロッサ作戦がどのような戦いであったのかを、紹介していきましょう。バルバロッサ作戦は、1941年6月22日に開始されたナチス・ドイツによる、ソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称です。作戦名は、神聖ローマ帝国皇帝だったフリードリヒ1世の渾名であるBarbarossa(赤髭)に由来します。フリードリヒ1世は伝説的な人物で、民間伝承によると現在も眠り続けており、ドイツに危機が訪れた時に再び目覚めて帝国に繁栄と平和をもたらすとされており、それにあやかって名付けられたのでしょう。1941年6月22日(奇しくもナポレオンのロシア侵入と同じ日である)にドイツ軍は攻撃を開始しました。作戦には合計300万人の兵員が動員され、これはその当時の歴史上で最大の陸上作戦でした。スターリンは、1930年代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部を含む何百万もの人々を処刑していたため、軍は弱体化し、指揮官不足さえ引き起こしており、赤軍はドイツの進攻に何の対策もしておらず、一方的な奇襲を受けることになりました。その後祖国を防衛するための大祖国戦争を宣言したソ連による抵抗は、ドイツ側が予想したよりはるかに激しくなりました。補給線が伸びてドイツの兵站補給が問題になると、赤軍は、ドイツ軍に占領地の食物、燃料および建造物の使用を行わせないために、放棄せざるを得なかったすべての土地で焦土戦術を実行しました。最後にして最大の目標であるモスクワ攻略のタイフーン作戦が開始されると、ヴャジマ、ブリャンスクの二重包囲戦で赤軍は再び50万の兵を失いました。しかし、寒気の到来により寒さが厳しくなるにつれてドイツ軍の前進速度は鈍り、シベリア方面から到着した新鋭部隊の増強を受けた赤軍の抵抗もあって、12月初旬についに進軍は停止しました。満足な冬季戦用の装備もなく、補給も不十分なままに各戦線で停止したドイツ軍に対して赤軍の冬季反抗が開始され、タイフーン作戦は失敗しました。ドイツ軍は限られた戦力下で再び東部戦線で決定的な戦果を上げるべく、ソ連の主要な油田が集中するコーカサス地方の制圧を目標としたブラウ作戦を発動することとなりますが、作戦立案段階では、スターリングラードは制圧対象ではありませんでした。しかし、またしてもヒトラーの命令によって戦力がカフカス方面とスターリングラードに二分されてしまい、決定的な戦果を上げる前に致命的な市街戦に引きずり込まれたドイツ軍は、スターリングラード攻防戦でかつてない大敗を喫し、独ソ戦の流れは完全に変わりました。この作戦もヒトラーが余計な口出しをしたために、ドイツ軍が絶望的な敗戦を強いられた戦いでした。とはいえバルバロッサ作戦が緒戦において大成功した大きな理由の一つは、いくら悪賢いスターリンといえども独ソ不可侵条約締結のわずか2年後にドイツが攻撃してくるとは思ってもみなかったことにあるでしょう。そのため作戦立案者であるヨードルに対するソ連の怒りは大きかったようです。ヨードル自身は死刑になるようなことをしていなかったとしても。この結果は因果応報と言えるでしょうか。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I call on God Almighty to have mercy on the German people. More than two million German soldiers went to their death for the fatherland before me. I follow now my sons - all for Germany.

神よどうかドイツ国民に憐みを賜わらんことを。私の前に二百万人以上の兵士が祖国のために死んでいきました。今、私は息子たちの後を追います。全てをドイツに。

ヴィルヘルム・カイテルの最期の言葉。ヴィルヘルム・カイテル(1882年9月22日 - 1946年10月16日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中に国防軍最高司令部(OKW)総長を務めた。軍における最終階級は元帥。1882年、ブラウンシュヴァイク公国ハルツ山地ヘルムシェローデに生まれる。少年時代のカイテルは家族から離れてゲッティンゲンのギムナジウムに学んだ。同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった。第一次世界大戦の敗戦後、義勇軍(フライコール)の活動に参加。またヴェルサイユ条約によって総人員10万人、将校は4000人にまで制限されたヴァイマル共和国軍の将校に選び残された。彼の事務能力の高さがうかがわれる。カイテルは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が1933年に政権を獲得するまではそれに一切関わっていない。むしろ増長著しいナチスの突撃隊(SA)をいまいましくさえ思い、アドルフ・ヒトラーを「大ぼら吹き野郎」と呼んで馬鹿にしていた。しかし1933年1月30日に自由選挙の末にヒトラー内閣が成立し、カイテルの親友ブロンベルクがヒトラー内閣の国防相に任命され、さらに1933年7月にはバート・ライヘンヒルで開かれた「突撃隊指導者大会」でカイテル自身がヒトラーと会見をもつ機会があり、徐々にヒトラーに心酔するようになった。ただしナチ党には最後まで入党していない。1937年には砲兵大将となった。ブロンベルクとカイテルはゲシュタポとも連携して「政治的に信用できない者」を国防軍から次々と追放していき、軍のナチ化をすすめた。ヒトラーはスキャンダルを利用してブロンベルク国防相と陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュを解任した(ブロンベルク罷免事件)。さらに後継の国防大臣を任命せず、直接国防三軍を指揮すると宣言した。このために国防軍最高司令部(OKW)を設けられ、国防軍最高司令部総長にカイテルを任じた。国防軍最高司令部は旧国防省の任務をほぼ受け継いでおり、カイテルの職位は国務大臣に同位ではあるが、軍指揮権は持たない事務職であった。1938年11月には上級大将に昇進している。ドイツ国防軍に国家社会主義思想を徹底させる事に励むカイテルは、かつて皇帝の軍隊の参謀本部将校だったにもかかわらず、皇帝への忠誠心をあっさり放り捨て、1939年1月27日の旧ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の誕生日記念式典にも軍部は一切参加してはならないと厳命した。カイテルは、同僚からドイツ語のおべっか使い(Lakai)をもじった「ラカイテル」と呼ばれたり、始終頭を縦に振るおもちゃのロバをさす「ニヒゲゼル」とも呼ばれた。ヒトラーは後年カイテルについて「映画館の案内係程度の頭の持ち主」と評し、これを聞いたある将校が「ではなぜそのような人物をドイツ国防軍の最高位に任じたのですか」と聞くと、ヒトラーは「それはあの男が犬のように忠実だからだ」と答えたという。当時カイテルの副官だった将校の証言によると、ヒトラーを交えた作戦会議では、常に「総統閣下の仰る通り」「総統閣下、あなたは史上最高の軍事指導者です」「総統が過ちを犯されるはずはない」などと、口癖のように話していたという。ちなみに、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将は、カイテルの軍事センスの無さを見抜き、作戦上の詳細は一切伝えず、大枠のみ伝えていたという。ただし実務能力は高かったため、統制の取れにくかった国防軍を短期間でひとつにまとめるという功績を残している。1939年9月1日にドイツ国防軍によるポーランド侵攻が開始され、イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が勃発した。ポーランド侵攻は主に陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュの陸軍総司令部が中心となって作戦指導しており、カイテルの国防軍最高司令部の役割は二次的な物だった。しかしポーランド侵攻後、カイテルのもとには親衛隊(SS)のアインザッツグルッペンの虐殺に関する報告書が積み上がった。国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス提督もカイテルにアインザッツグルッペンに関する苦情を申し立てたが、カイテルは「国防軍がこうした虐殺に関与しなくていいようにするためには親衛隊とゲシュタポが隣にいる事を許可するしかない」と回答したという。1940年5月からの対フランス戦ではドイツ軍が連戦連勝を重ね、大国フランスをわずか6週間で下した。1940年6月21日から6月22日にかけてパリ郊外のコンピエーニュにおいて列車内(一次大戦のときにドイツが屈辱的な休戦協定を結ばされた時と同じ列車)でドイツとフランスの休戦協定の交渉が行われた。カイテルはこの調印式にドイツ軍代表として出席し、フランス軍代表シャルル・オンツィジェール将軍に対して「この車両においてドイツ民族受難の時が始まった。一民族に与えうる最大の不名誉と屈辱が始まった。人間としての苦しみ、物質的な苦しみがここから始まったのだ。(略)その世界大戦終結より25年の時を経た1939年9月3日にイギリスとフランスは、またしても何の根拠もなくドイツに宣戦を布告した。今や武力による決着はつけられた。フランスは倒されたのである。」と宣言し、フランスに屈辱的な内容の休戦協定の締結を調印させた。カイテルはこの復讐劇に大変満足し、後にこの瞬間を「わが軍隊生活最高の時」と語った。1941年12月7日には『夜と霧の布告』に副署した。この布告ではドイツ占領軍当局に反抗する者は軍法会議による判決が下されなかったならば、親族への通知なしにドイツの強制収容所へと移送されることになった。この法令によってフランスだけでも7000人を超えるレジスタンスと目された人物が痕跡も残さず姿を消した。スターリングラードの戦い以降、ドイツの戦況が悪化してくると、ヒトラーが死守命令を連発するようになる。撤退許可を求める者に対してはヒトラーが政治的な理由で却下し、その後ヒトラーは国防軍最高司令部総長カイテル元帥に話を振り、カイテルも「自分の意見を持たない無駄なおしゃべり」(フランツ・ハルダー)をして結局総統と同じ結論を出すのがドイツの作戦本部の日常の姿となっていった。ヒトラーの自殺を知ると、ヒトラーの遺言により大統領兼国防軍総司令官となったカール・デーニッツのフレンスブルク政府の下に参じた。アイゼンハワー司令部、モントゴメリー元帥の司令部における降伏式に続いて、1945年5月8日、ベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst) の工兵学校においてソ連軍に対する降伏式が行われた。カイテル元帥は陸軍を代表してソ連との降伏文書の署名を行った。現在、カイテルが降伏文書の署名を行った建物はドイツ・ロシア友好博物館になり、ベルリン攻防戦や降伏式の資料が展示されている。カイテルは他のフレンスブルク政府の面々より一足早く、5月13日にアメリカ軍の捕虜となっている。ニュルンベルクでも刑務所長を務めるアメリカ軍大佐バートン・アンドラスによって起立させられ、さらに「お前たちはもはや軍人ではない。犯罪者だ。」と宣告されて階級章がはぎ取られた。カイテルは第1起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第2起訴事項「平和に対する罪」、第3起訴事項「戦争犯罪」、第4起訴事項「人道に対する罪」と全ての訴因において起訴された。1945年11月20日からニュルンベルク裁判が開廷した。カイテルは審理中に抗弁することはほとんどなく、口をつぐんでいたという。また、死刑判決が出るのを覚悟していたという。「止めるべきことを止められなかった」と罪を認めるニュアンスの最終弁論を行い、同様の趣旨の遺言も残している。2006年に新たに公開された遺言状では、ヒトラーに対する忠誠と、裏切り者になることへの忌避が綴られていた。1946年10月1日に判決が下った。カイテルの判決文は「このように衝撃的かつ広範囲にわたって犯罪を犯した場合、被告がたとえ一軍人であったとしても、上官の命令であったという弁明は減刑理由にはできない」としてカイテルを4つの訴因全てで有罪とした。カイテル自身やフランス代表により銃殺による死刑が主張されたものの、絞首刑判決に変更はなかった。1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。カイテルは、ヨアヒム・フォン・リッベントロップに次いで二番目に処刑された。

カイテルは軍人というよりも、有能な事務官であった人でした。彼のことを愚かだと言うのはたやすいことですが、ニュルンベルク裁判における被告人達の心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、彼の知能指数は129だったそうで、かなり頭の良い人でした。いかし頭が良いというだけで、軍人としての才能があるということにはなりません。彼は第二次世界大戦においてただの一度も実戦指揮の経験が無い、叙された唯一の陸軍元帥でり、カイテル自身もこれをコンプレックスに感じるところがあったらしく、一個師団でもいいから前線で指揮をとらせてほしいと、ヒトラーに嘆願したことがあったそうですが、敗戦までこの嘆願が受け入れられることはありませんでした。ナチスやヒトラーに対して一貫して「追従者」としての態度を貫いたカイテルでしたが、なぜ彼が最後までナチスに入党しなかったのかは、はっきり言って謎です。最後にカイテルの最期の言葉についてですが、彼の言う通り、二百万人以上のドイツ兵士が祖国のために死んでいったことは紛れもない事実ですが、二百万を遥かに超える無実の人々がナチスのせいで死んでいったことも指摘しておきたいと思います。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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