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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Gott schütze Deutschland!

神よドイツを守りたまえ!

ヨアヒム・フォン・リッベントロップの最期の言葉。ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(1893年4月30日 - 1946年10月16日) はドイツの実業家、政治家。コンスタンティン・フォン・ノイラートの後任として、ヒトラー内閣の外務大臣を1938年から1945年にかけて務めた。最終階級は親衛隊名誉大将。ニュルンベルク裁判により絞首刑に処せられた。武装親衛隊に志願、大戦を生き延びた親衛隊大尉ルドルフ・フォン・リッベントロップは長男。リッベントロップは、ドイツ・ラインラントのヴェーゼルにリヒャルト・ウルリヒ・フリードリヒ・ヨアヒム・リッベントロップの子として生まれた。フランス語と英語に堪能であり、1910年から1914年にかけてドイツワインの貿易商としてカナダで働いた。ここで事業に成功を収め、モントリオールやオタワの上流社会の一員となった。リッベントロップは1930年に初めてアドルフ・ヒトラーに会った。貴族である上に外交官の経験もあり、他国の高い地位の人々との伝手を多く持つことから、ヒトラーはリッベントロップに好印象を持った。1932年5月にリッベントロップはナチ党に入党し、1933年、ヒトラーが首相に指名されるまでの一連のフォン・パーペンとヒトラーとの秘密会談をベルリンの自宅で設定するなどの支援活動を行った。ヒトラーはこれらの貢献を高く買っていたが、リッベントロップはナチ党にとっては新参者だったため、古参の幹部達からは妬まれることになった。特に、貴族ではないものの貴族的趣味を愛好したヨーゼフ・ゲッベルスは、貴族の称号を持つリッベントロップにコンプレックスを抱いており、激しい嫌がらせをした。リッベントロップはヒトラーお気に入りの外交政策アドヴァイザーになっていった。ドイツ外務省のエリート職業外交官たちは、(少なくともナチス政権下のドイツの初期の時代にあっては)国外の情勢についてヒトラーに真実を伝えていたが、リッベントロップは都合の良いことだけを伝えていた。彼は1933年に親衛隊名誉大佐の称号を与えられた。親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーとは一時は友好関係を保ったが、最終的には敵対関係となった。1934年には、影の外務省とでもいうべき「リッベントロップ事務所」(Büro Ribbentrop、後に「リッベントロップ機関」Dienststelle Ribbentrop と改称)を創設した。彼は外務省と張り合い、コンスタンティン・フォン・ノイラート外相をあらゆる局面で出し抜こうと努めた。彼は英独海軍協定(en:Anglo-German Naval Agreement 1935年)および日独防共協定(1936年)の交渉を行った。 交渉のテーブルに就くや、リッベントロップは豪胆にもサイモン英国外相に対して、ドイツの要求が完全に満足されるのでなければ代表団は帰国する、と最後通牒を突きつけたのだった。サイモンは激怒し退席したが、驚くべきことにその翌日、イギリスはリッベントロップの要求を受け入れ、海軍協定は1935年6月18日、ロンドンにて調印されたのだった。この外交的勝利によって、リッベントロップはヒトラーに対して点数を稼いだ。日独防共協定についてもリッベントロップの功績は大きい。ドイツ外務省や陸軍上層部は伝統的に親中華民国政策をとっており、ノイラートも無論推進者であった。一方リッベントロップは外務省の親華路線に反対し、国防軍情報部のカナリスや駐独日本大使館付武官の大島浩と連携して日本との同盟を主張した。協定の締結はドイツにとって重大な外交政策上の転換を意味していた。1938年2月4日、リッベントロップはノイラートの後任として外務大臣に就任する。この外相指名はドイツの外交路線がより急進的な方向に向かったことを意味する。戦争については慎重だったノイラートと対照的に、リッベントロップは1938年から39年にかけてはっきりと戦争を支持している。リッベントロップはイギリス首相ネヴィル・チェンバレンを嫌悪しており、宥和政策をドイツが国際社会において正当な地位に就く障害になると考えていた。またミュンヘン協定はドイツ外交上の敗北であるとまで考えていた。なぜなら、彼の欲した戦争なしでドイツがズデーテンランドを手中に収めたからである。彼は外務省の重要な地位にあった多くの外交官を罷免し、後任に彼自身の「事務所」の出身者を充てた。1943年までに、外務省内のポストの32%は「事務所」出身者で占められるようになっていた。リッベントロップの経歴の中でも重要な外交案件は、1939年8月23日の独ソ不可侵条約調印と、それに前後するポーランド侵攻時の外交攻勢であり、リッベントロップはここで中心的な役割を演じた。彼はヒトラーに対し、ポーランドの防衛を名目にイギリスが参戦することはないと力説していた。ベルリン陥落直前の1945年4月20日、リッベントロップはベルリンで行われたヒトラーの56歳祝賀パーティーに参加した。これが彼がヒトラーに会った最後となった。パーティー後に彼はヒトラーと会談を持とうと試みたが、斥けられている。終戦時に彼はヒトラーの後継大統領カール・デーニッツによって職を解かれ、潜伏するも、6月14日ハンブルクにてイギリス軍に逮捕される。リッベントロップはニュルンベルク裁判の被告となり、すべての罪状について有罪とされた。監獄にあっても彼はヒトラーに対して忠実であった。「いまこの時点になっても、この独房に総統がいらっしゃって『これをしろ』と命令されたら、また同じことを自分はしただろう」と述べたとも伝えられる。1946年10月16日に最初に執行された死刑囚はリッベントロップであった。

リッベントロップはナチスの外交を象徴する人物です。彼もまた大変頭の良い人物であったようで、ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、彼の知能指数は130だったそうです。リッベントロップはナチスの外交の中心人物であり、ソビエト連邦を引き入れた汎ユーラシア大陸ブロックを形成して、イギリスのような海洋国家を粉砕するという構想の持ち主でした。日本の駐独大使であった大島浩と仲が良く、伝統的に親中華民国政策をとっていたドイツ外務省や陸軍上層部の反対を押し切って日本との同盟を主張しました。また彼はヨシフ・スターリンを個人的に好んでおり、1939年8月23日の不可侵条約締結後のカクテルパーティーでは、シュペーアが制作した「新第三帝国首都模型」をスターリンに披露し、大いに意気統合しました。独ソ不可侵条約(別名モロトフ=リッベントロップ協定)は、不可侵の条件だけではなく、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド及びルーマニアという独立国を、それらの国々の「領土と政治の再配置」を期待しながら、ナチとソビエトの勢力範囲に分けた秘密議定書を含んでおり、それらの国々はすべてこの後でナチスドイツかソ連のいずれかあるいは両方に侵略、占領、あるいは領土を譲ることを強要されました。この条約の締結により、ドイツは東西二正面での開戦という最悪の事態を避けられるようになり、英仏との戦いに有利な状況ができたため、第二次世界大戦の勃発を早める結果となりました。この条約が調印された後、スターリンはリッベントロップに「我がソ連は決してパートナーを裏切りませんぞ、決して、です。」と声をかけたそうですが、スターリンが独ソ不可侵条約は互いの勢力拡大の前段階としての一時的な協調に過ぎないと考えていたのは確かです。しかしこの時のスターリンの言葉は、真実となりました。なぜならソ連に裏切る暇を与えずに、条約の終結からわずか二年後にドイツが独ソ不可侵条約を破ったからです。他のリッベントロップ犯罪としては、彼は友好国の首脳に、各国のユダヤ人をナチの強制収容所に移送するよう依頼しており、この点で彼はホロコーストに責任があります。ニュルンベルク裁判の公判で、検察側が彼がヒトラー、ゲーリングと共にチェコスロヴァキア大統領ハーハを「敵対的行動をとるとの脅し」により脅迫したと主張した際のやりとりとして以下のものが伝えられています。
検察 「他国の元首に対して、強力な陸軍部隊が進攻する、あるいは首都を空軍で空爆する、などと言った、これ以上の脅迫行為はあるでしょうか?」
リッベントロップ 「例えば、戦争になるぞ、と言うこともできますね」
リッベントロップのこの発言を聞いたヒャルマル・シャハトは、「リッベントロップは、奴が愚か者だという理由だけで死刑に値する。」と零したそうです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I hope that this execution is the last act of the tragedy of the Second World War and that the lesson taken from this world war will be that peace and understanding should exist between peoples. I believe in Germany.

この刑執行が、第二次世界大戦の悲劇の最終章であること、そしてこの大戦の教訓がこれから引き出されるよう、諸国民の平和と理解が成就せんことを希望します。私はドイツを信じます。

アルトゥル・ザイス=インクヴァルトの最期の言葉。アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(1892年7月22日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの政治家。1938年の独墺合邦(アンシュルス)においてオーストリア側で中心的な役割を果たした。第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領したオランダの国家弁務官を務めていた。戦後、ニュルンベルク裁判の被告人の一人となり、絞首刑となった。ザイス=インクヴァルトは、1892年7月22日に当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったメーレン地方のシュタンネルンに中学校教師の息子として生まれた。ウィーン大学などで法律を学び、法学博士号を取得して弁護士となった。弁護士としては一流であったが、彼はしばしば「演説ではなく沈黙(真実を隠して)によって裁判に勝ってきた」と陰口された。ザイス=インクヴァルトは1931年にオーストリア・ナチ党に入党し、その後ナチス党が勢力を増してきて、1933年にドイツの政権党となった後にドイツとオーストリアの合併を主張した。1936年7月11日に、ドイツの駐オーストリア公使フランツ・フォン・パーペンの仲介で、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーとオーストリア首相クルト・シュシュニックの間に協定が結ばれたが、これには秘密協定が付属していた。「ヒトラーがオーストリアに内政干渉するのをやめる代わりにオーストリア・ナチスの穏健派をオーストリア政府の中に受け入れる」という内容だった。1938年2月26日にシュシュニックは「オーストリアの独立放棄せず」と宣言した。これに反発したオーストリア・ナチ党がドイツとの併合を求めてテロを含めたデモを起こしたが、内相ザイス=インクヴァルトは取り締まらないようにとオーストリア警察に命令した。ザイス=インクヴァルトは首相になるとただちにゲーリングからの指示でドイツ軍にオーストリア進駐を要請した。3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック大将指揮下でドイツ軍がオーストリアへ無血進駐を開始した。夜には首都ウィーンにドイツ軍が入った。市民はドイツ軍を熱狂的に歓迎した。3月13日にザイス=インクヴァルトは合併法(第1条で「オーストリアはドイツ国の一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラスが署名を拒否したため、ザイス=インクヴァルトの署名だけで合併法が発布された。3月14日にヒトラーがウィーンへ入り、「ドイツ・オーストリア合併を正式に宣言する総統布告」を発令した。これをもってオーストリアはドイツの邦(州)の一つとなり、4月23日には「オストマルク州」と名付けられた。ドイツに併合された後、ザイス=インクヴァルトはすぐにもオーストリアでユダヤ人狩りを開始させている。ユダヤ系国際財閥ロスチャイルド家のウィーン分家の当主ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵もこの際に逮捕された。彼は全財産の没収に同意する代わりに釈放されたが、すぐにアメリカへ亡命し、戦後もウィーンに戻らなかった。そのためザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト以来のウィーン・ロスチャイルド家はこれをもって滅びてしまった。1938年3月15日にはハインリヒ・ヒムラーより名誉隊員として親衛隊に迎え入れられ、親衛隊中将位を与えられた。1941年4月20日に親衛隊大将に昇進している。1940年5月15日にオランダ王国がドイツに降伏。1940年5月28日にザイス=インクヴァルトは「占領地オランダ駐在の国家弁務官」に任命され、オランダの民政の全権を握った。占領行政機関はオーストリア・ドイツ人によって固められた。国家弁務官ザイス=インクヴァルト、行政担当弁務官フリードリヒ・ヴィマー、経済問題担当弁務官ハンス・フィシュベック、親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター親衛隊大将など全員オーストリア出身である。ザイス=インクヴァルトは、非ユダヤ系オランダ人についてはオランダとの間に結んだ休戦協定に基づいて取り扱うが、ユダヤ系オランダ人はその対象とはならないと明言した。彼はこう述べている。「我々にとってのユダヤ人は、オランダ人ではない。彼らは、我々が休戦条約を結ぶ事も、和解する事も出来ない敵である」。ザイス=インクヴァルトが支配するオランダは、他のドイツ占領地と比べても特に激しいユダヤ人狩りが行われた。当時オランダで暮らしていたユダヤ人は14万人いたが、そのうち11万以上がオランダ国外の絶滅収容所や強制収容所へと移送されている。そのうち戦後まで生き延びていたのはわずか6000人だったという。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクもオランダから移送されて死亡した者の一人である。戦争末期の1945年4月30日に自殺したヒトラーの政治的遺書により、外務大臣に指定された。しかし戦争末期の混乱期の任命であったため、実際に外相の職務を執ったわけではない。戦後、ニュルンベルク裁判において戦犯として起訴されることとなった。ザイス=インクヴァルトは裁判中、虚言も吐かず、申し開きもしなかった。すべてを諦めているかのようだった。冷静な口調で淡々と残虐行為を証言するので法廷内の人々は驚いた。彼は死刑を覚悟していたようで、別の被告ハンス・フリッチェに「私にとって法廷での言動など重要ではないんだ。なんと言おうと、私のためのロープは、オランダ産の麻でいま作られているはずだからね。」と語ったことがあった。判決の日には刑務所医師に対して「来るべき判決は憎悪なくして受けなければなりません」「とにかく憎悪はしません。(ドイツ)再建のためには(憎悪以上に)十分障害があるのですから。」と述べている。死刑判決を受けた後もザイス=インクヴァルトは沈着冷静だった。のみならず彼は死刑判決を受けて動揺するフリッツ・ザウケルを「党同志(パルタイゲノッセ)ザウケル」と呼びかけ、励ましたりしていた。1946年10月16日に入った深夜に死刑囚10人(自殺したゲーリング除く)の死刑が執行された。ザイス=インクヴァルトは死刑囚の中で最後に処刑された人物であった。

インクヴァルトは軍人ではありませんでしたが、国家犯罪に加担したという罪においては他の受刑者に劣るものではありませんでした。インクヴァルトは相当頭の良い人だったようで、開廷前にアメリカ軍心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、彼の知能指数は141であり、調整前の知能指数は全被告の中で一番上でした(年齢に応じた加算調整を行うとヒャルマル・シャハトが143になり、一番となりますが)。アンシュルスとは「接続・合併」という意味で、ドイツによるオーストリア合邦(Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich)の意味で使われ、独墺合邦、オーストリア併合等と訳されます。神聖ローマ帝国が、その内実を失った三十年戦争以後、ドイツ民族の統一した「ドイツ国家」の復活は多くのドイツ人の悲願でありました。当時のドイツ語圏には旧神聖ローマ帝国皇室であるハプスブルク家が治めるオーストリアとホーエンツォレルン家が治める新興国プロイセンという2つの大国があり、どちらもが自国によるドイツ統一を望んでいました。多民族国家であるオーストリアは排除して、とりあえずの統一国家をつくるべきだという「小ドイツ主義」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「大ドイツ主義」が対立することになりました。そして、いち早く強国となったプロイセンが行ったのは、自らが完全に主導権を掌握できる、オーストリアなしの「小ドイツ主義」による統一策でした。1866年の普墺戦争で勝利したプロイセンは、1871年には普仏戦争にも勝利し、この結果プロイセン王はドイツ皇帝となり、オーストリアを除く統一国家ドイツ帝国(ドイツ国)を成立させることになりました。1918年にドイツが第一次世界大戦に敗北してドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊すると、民族自決によるオーストリア領内の諸民族が独立しました。これにより2つのドイツ人国家間の主導権争いと非ドイツ系民族の問題を解消させることとなり、再度「大ドイツ主義」によるドイツ統一の希望を抱かせることとなりました。特に工業生産力の高いチェコの独立はオーストリア共和国を経済的に脆弱にしたため、経済的な自立のために1918年11月のオーストリア臨時国民議会は「ドイツ系オーストリアはドイツ共和国の一構成部分である」という決議を全会一致で行いました。ところがフランスやイタリアなどの一部の戦勝国が「弱体化させなければならない敗戦国であるドイツがかえって国土を拡大させるのはおかしい」と異論を挟んだため、結局ドイツとオーストリアの合併は認めず、1919年9月10日に締結されたサン=ジェルマン条約によって合邦の禁止は明文化されました。両国の合併が列強によって阻止された事は、ドイツ・オーストリアの政情を悪化させ、混迷の渦中からナチス・ドイツの台頭を許す結果となりました。ドイツで(オーストリア生まれの)ヒトラー政権が誕生すると、その支援を受けたオーストリアのナチス党員が公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始め、最終的にはオーストリア制圧作戦『オットー』を発動しました。この作戦はドイツ国防軍を越境させ、実力でオーストリア国土の占領させる計画でしたが、この情報は実行される前にオーストリアに漏れ、オーストリア政府に衝撃を与えました。シューシュニック首相は辞任を発表し、代わりに首相となったのがインクヴァルトでした。その後ドイツ軍の進駐が開始されると、ドイツ軍は各地で熱狂的な歓迎を受け、そのため進軍速度が鈍ることもあったほどでした。オーストリア国民のほとんどにとって、ドイツとオーストリアの統一は悲願であり、ドイツのオーストリア併合について賛否を問う国民投票(選挙権20歳以上)が実施されると、ドイツで99.08%、オーストリアで99.75%の支持票がありました。オーストリアの人々が愛国心を抱いていた対象はあくまで大ドイツ主義によって形成される「ドイツ」国家か、あるいは彼らがかつて実際に暮らしていた1918年以前のハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)に向けられたものでした。これほど熱狂的に歓迎されたアンシュルスでしたが、オーストリア人はドイツ人の中でも落ちこぼれの「二流市民」の扱いを受ける結果となりました。また合併直後から、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や愛国主義者、知識人などが逮捕され、収容所に送られるか、処刑されました。「サウンド・オブ・ミュージック」で有名なゲオルク・フォン・トラップ少佐のようにオーストリアから亡命した人もいます。1955年のオーストリアの再独立に際して、ドイツとの合併は永久的に禁止されています。ザイス・インクヴァルトの息子はオーストリアへ戻ったのですが、アルトゥルの孫のヘルムート・ザイス=インクヴァルトは人種差別に反対し、オランダのアンネ・フランク財団への加入を希望しました。ところが、財団理事ディック・ハウヴァールトは「犯罪者の孫が財団に足を踏み入れることは許されない」とこれを拒否しました。この件は大きな騒ぎとなりましたが、マスコミは概ねヘルムートを支持し、財団の態度に批判的でした。ヘルムートは「ザイス・インクヴァルトの名を聞いて、恐ろしい記憶を呼び覚まされる人がいることは分かります。ザイス=インクヴァルト家の人間とは同席したくない、と言う人がいることもよく分かります。しかし私はアンネ・フランク財団の関係者から敵意を向けられて傷つき、やる気をそがれてしまいました。」と述べ、財団への加入希望を取り下げました。このことは戦争犯罪について考える上で、非常に興味深い事例だと言えるでしょう。戦争犯罪における罪とは何代まで相続するのでしょうか?

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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