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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Long live eternal Germany.

ドイツよ永遠なれ。

ヴィルヘルム・フリックの最期の言葉。ヴィルヘルム・フリック(1877年3月12日 - 1946年10月16日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)国会議員団長、テューリンゲン州内相兼教育相、ドイツ国内相、ベーメン・メーレン保護領総督を歴任した。全権委任法、ニュルンベルク法、強制的同一化政策の制定、ナチス式敬礼の義務化に大きく貢献した。ニュルンベルク裁判において死刑判決を受け、処刑された。1877年3月12日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国のアルゼンツに教師ヴィルヘルム・フリックの息子として生まれる。カイザースラウテルンの小学校、ギムナジウムを出た後、1896年から1901年にかけてゲッティンゲン大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学などに通い、1901年にハイデルベルク大学から法学博士号を授与された。1900年から1903年までカイザースラウテルンで弁護士をしていた。1923年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーと初めて出会った。ヒトラーが党集会を行いたい旨の申請を警察の政治部長だったフリックのところへ持参したのがきっかけだった。ヒトラーとナチ党の理想に共感したフリックは、同年にナチ党に入党した。1924年5月4日、ナチ党の友党「ドイツ民族自由党」から国会議員選挙に出馬し初当選した。同年、当時としては衝撃的な二つの法案を国会に提出した。ユダヤ人の公職就任禁止法案とユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻を禁止する法案である。これは後にナチ党政権下で反ユダヤ主義法「ニュルンベルク法」として可決成立することとなる。フリックは国会議員の力を使ってヒトラーがドイツ市民権を取得できるよう尽力した。当時のドイツでは公務員になれば自動的にドイツ市民権を取得することになっていたので、ヒトラーをヒルドブルクハウゼンという小さな町の治安関係の公務員に成れるよう手筈を整えた。しかしあまりにみすぼらしい役職にヒトラーが激怒して辞令を破り捨ててしまった。結局、1932年2月25日になってフリックはブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官という形式でヒトラーにドイツ国籍を与えることに成功した。フリックはこの業績を最も誇りにしていた。1930年1月23日にフリックがテューリンゲン州内相兼教育相に就任した。地方政府とはいえナチ党員が閣僚職を手にしたのはこの時が初めてだった。テューリンゲン州内相・教育相としてフリックが行った政策は後のナチ党政権の政策の先駆けだった。ヴァイマル共和政シンパの警察官はテューリンゲン州警察から次々と追放され、ナチ党員やナチ党シンパの警察官が続々と送りこまれた。1930年7月にはイエナ大学にナチ党お抱えの人種学者ハンス・ギュンターの人種学の特別講座を設けさせた。反戦映画「西部戦線異状なし」は上映禁止処分となり、ジャズも禁止された。一方で反ユダヤ主義プロパガンダ作品には一切の検閲が廃されてやりたい放題となった。1933年1月30日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラーが首相に任命された。フリックは内相としてヒトラー内閣に入閣した。成立当初のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相アドルフ・ヒトラー、無任所相ヘルマン・ゲーリング、そして内相フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーはフランツ・フォン・パーペン内閣時代からの貴族閣僚とナチ党の連立相手である国家人民党のアルフレート・フーゲンベルク、鉄兜団のフランツ・ゼルテなどによって占められていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの影響が大きく、権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人を取り囲む構図になっていた。フリックは1943年までの10年間にわたって内相を務め続けることになる。政権初期に大きな権限を持っていたフリックはナチ党の強制的同一化政策を推し進めた。1933年3月23日には全権委任法に内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制が確立された。フリックは形式的な内相である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律の起草にも携わっている。ニュルンベルク法をはじめとするユダヤ人を社会から排除する法律や、1934年6月の「長いナイフの夜」での粛清を正当化する法律を起草したのはフリックの内務省であった。第二次世界大戦開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内相を解任された。全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが後任の内相に就任した。ただし代わりにフリックは無任所相に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った。1945年5月4日、連合軍に逮捕された。1945年11月からはじまったニュルンベルク裁判で起訴された。フリックは4つの起訴事項(第一起訴事項「侵略戦争の共同謀議」、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」)全てで起訴された。公判中、フリックは無表情な顔と生気のない目をしていたため、精精神分析医ダグラス・ケリー少佐はフリックを「最も目立たない被告」と呼んだ。裁判ではフリックは証言を拒否し、証言台に立たなかった。彼に下された量刑判決は絞首刑だった。1946年10月16日午前1時10分から自殺したヘルマン・ゲーリングを除く死刑囚10人の絞首刑が順番に執行された。フリックは、リッベントロップ、カイテル、カルテンブルンナー、ローゼンベルク、フランクの後、6番目に処刑された。

ヴィルヘルム・フリックは、ナチスのナチスの法律面での政策に大きく関わった人物です。フリックはごく初期の頃から、強烈な反ユダヤ主義者でした。彼が深く関わった、ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として悪名高いニュルンベルク法は、司法史に残る不滅の愚行として記憶されることでしょう。ニュルンベルク法は「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehre)と「帝国市民法」(de:Reichsbürgergesetz)の総称です。「帝国市民法」は、「国籍所有者(Staatsangehörige)」と「帝国市民(Reichsbürger)」を明確に区別し、「帝国市民」は「ドイツ人あるいはこれと同種の血を持つ国籍所有者だけが成れる」と定め、「帝国市民」だけが選挙権や公務就任権など政治的権利を持つと定めました。さらに「帝国市民」はドイツ民族とドイツ国家に忠誠を誓う意志を持たねばならず、それはそれにふさわしい態度をとることでのみ証明されるとされました。これは簡単に言うとユダヤ人の公職就任禁止法でした。「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」は、ユダヤ人と「ドイツ人ないし同種の血を持つ国籍所有者」の婚姻、婚姻外性交渉を禁止したものです。これと同様の法律を二つ挙げておきましょう。黒人差別法として名高いジム・クロウ法では、先祖4世代前までに黒人の血が一人でも含まれる人は白人と結婚できませんでした。もう一つはアパルトヘイト下の雑婚禁止法で、人種の違う男女が結婚することを禁止されていました。ニュルンベルク法に対するユダヤ系ドイツ人の反応は、意外に思うかもしれませんが一般にはほっとした人が多かったそうです。なぜならヒトラーはこの法律がユダヤ人の権利剥奪の最後であると明言したことと、この法律によって剥奪された公民権は、ユダヤ人にとっては事実上すでに失われていた権利であり、それが改めて剥奪宣言されたにすぎなかったからでした。しかしニュルンベルク法は緩和政策ではなく迫害の前触れでした。この法律制定後、ユダヤ人迫害はさらに強化され、あちこちの店に「ユダヤ人お断り」の看板が掛けられるようになっていきました。1938年の水晶の夜事件を経て、ユダヤ人迫害は強化され、そしてついに大戦中には絶滅政策が行われるようになりました。さてニュルンベルク法は、1935年にニュルンベルクでナチ党党大会が開かれた時に、特例でそこに国会が召集されて制定された法律であったことから名付けられたのですが、皮肉なことにその10年後の1945年から同じニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判により、フリックは死刑判決を受け処刑されました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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