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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

I only regret that I have but one life to give my country.

私は祖国のために献げる命が一つしかないことを悔やむだけだ。

ネイサン・ヘイルの最期の言葉。ネイサン・ヘイル(1755年6月6日-1776年9月22日)は、アメリカ独立戦争のときに大陸軍のために働いた軍人である。アメリカでは最初のスパイと広く認められており、情報収集任務を買って出たが、イギリス軍に捕まった。ヘイルはロングアイランドの戦い後に絞首刑にされた。ヘイルは長い間アメリカの英雄と考えられてきており、1985年には公式にコネチカット州の英雄と指定された。バージニア州ラングレーのCIA本部やワシントンD.C.のフェデラル・トライアングルなど多くの場所にヘイルの彫像が置かれている。ヘイルは1755年にコネチカット植民地コヴェントリーで生まれた。1768年、ヘイルが13歳のときに兄弟のイーノックと共にイェール大学に入学した。その時の級友には同じくパトリオットのスパイとなったベンジャミン・トールマッジがいた。ヘイル兄弟はイェールの文学的友愛会である「リノニア」に属し、そこで天文学、数学、文学および奴隷制に関する倫理を論じた。ヘイルは1773年に成績優等で卒業し、最初はイースト・ハダムで、その後ニューロンドンで教師になった。1775年にアメリカ独立戦争が始まった後は、コネチカット民兵隊に加わり、中尉に選ばれた。その民兵隊がボストン包囲戦に参加したときに、ヘイルは後方に残ったが、7月6日にスタンフォードのチャールズ・ウェブ大佐の指揮する大陸軍の正規軍である第7コネチカット連隊に入隊した。ヘイルは大尉に昇進し、1776年3月にはニューヨーク市を守るトマス・ノウルトン大佐のレンジャー部隊の小部隊を指揮した。この部隊はイギリス海軍の艦船マン・オブ・ウォーから物資を満載した1隻の船を救出することに成功した。1776年8月27日のロングアイランドの戦いではイギリス軍がスタテンアイランドからロングアイランドに渡って側面攻撃を行うことで勝利して、その後のニューヨーク市占領に繋がった。ヘイルは9月8日に敵前線の背後に回りイギリス軍の動きを報告する任務を志願した。ヘイルは9月12日に船でロングアイランドに渡った。これは捕まれば即座に死罪となるスパイ行為であり、ヘイルにとっては大きな賭けになることだった。その間にニューヨーク市(当時はマンハッタン島の南端、ウォールストリート辺り)が9月15日にイギリス軍に占領され、ワシントン軍はマンハッタン島北端のハーレムハイツ(現在のモーニングサイドハイツ)にまで後退を強いられた。9月21日、マンハッタン下流側の4分の1が大火で焼けた(1776年のニューヨーク大火)。この火事は後に、町がイギリス軍の手に落ちるのを妨害する為にアメリカ人破壊工作者が火を放ったと考えられてきたが、ワシントンや第二次大陸会議はこのアイディアを既に否定していた。また、市内に残っていたパトリオットを罰するか怯えさせるためにイギリス兵が命令無しに行動した仕業だと考えられてもいるが、これは予期せぬ結果になった。火事の後で、200人以上のアメリカ人ゲリラがイギリス軍に捕まった。ネイサン・ヘイルが捕まった経緯は、コネチカット書店主でロイヤリストのコンシダー・ティファニーが書き、連邦議会図書館が後に入手したものがある。ティファニーの証言に拠れば、クイーンズ・レンジャーズのロバート・ロジャーズ少佐が酒場でヘイルを見て、その変装にも拘らず彼を見破った。ロジャーズはパトリオットを装うことでヘイルを裏切らせようとした後に、ロジャーズとそのレンジャーズがクイーンズのフラッシングベイ近くでヘイルを拘束した。これには別の話もあり、ヘイルの従兄弟サミュエル・ヘイルがヘイルの正体を暴露した者だったということである。イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍はマンハッタンの田園地帯である50番通りと51番通りの間、かつ1番アベニューと2番アベニューの間の小山にあるビークマンの家を作戦本部にしており、ヘイルはハウに尋問され、身体的特徴を見つけられたとされている。ロジャーズはこの件に関する情報を提供した。伝説に拠れば、ヘイルはその作戦本部がある邸宅の温室でその夜を過ごした。ヘイルは聖書を要求したが拒否された。その後暫くして牧師を要求したが、これも拒否された。当時の慣例に従えば、スパイは違法な戦闘要員として絞首刑にされていた。1776年9月22日の朝、ポスト道路をダブ・タバンと呼ばれた宿屋の隣にあった砲兵隊の駐屯所(現在の66番通りと3番アベニューの角)まで歩かせられ、絞首刑にされた。21歳だった。後にヨーロッパでアフリカ系アメリカ人ボクサーとして有名になった元奴隷でロイヤリスト、13歳のビル・リッチモンドが死刑執行人の一人だったと伝えられている。「彼の担当は強い木の枝にロープを結びつけて、結び目と輪なわを持っておくことだった。」ネイサン・ヘイルに関する学者メアリー・ベス・ベイカーは、ヘイル死後の名声はイェール大学の卒業生が独立戦争の英雄だと主張したことから高まったと述べている。

中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書「孫子」の用間篇は、スパイを使い敵情を偵察することの重要性が説かれています。曰く「明君賢将の動きて人に勝ち、成功すること衆に出ずるゆえんのものは、先に知ればなり」(賢明な君主や優秀な将軍が、行動を起して勝つことができ、人なみはずれた成功をおさめることができるのは、前もって敵情を知っているからである)と。または「明君賢将のみよく上智をもって間となす者にして、必ず大功を成す。これ兵の要にして、三軍の恃みて動くところなり」(賢明な君主や優秀な将軍で、すぐれた知恵をもってスパイを使える者は、必ず大成功をおさることができる。スパイこそがが軍隊のかなめであり、スパイの情報によって全軍が動くのである)と。ネイサン・ヘイルはアメリカの最初のスパイであり、失敗はしましたが英雄としてその名を祖国の歴史に刻みました。残された史料に拠ると、ヘイルは処刑前に雄弁に振舞ったとされていますが、上記の有名な最期の言葉を言ったのかについては、いくつか議論があります。別の説では"I am so satisfied with the cause in which I have engaged that my only regret is that I have not more lives than one to offer in its service."(私はこれまで関わってきた大義に満足しているので、唯一の悔いはそのために差し出せる命が一つしかないことだ。)とされています。ヘイルの有名な発言に関する話は処刑を目撃したイギリス兵ジョン・モントレソールから始まりました。処刑から間もなく、モントレソールはヘイルの死についてアメリカ軍士官ウィリアム・ハルに話し、話を聞いたハルがヘイルの最期の言葉を広めました。しかしハルはヘイルの発言を直接聞いた者ではなかったので、歴史家の中にはその証言の信頼性について疑問を投げる者もいます。あるいはヘイルは、ジョゼフ・アディソンの劇『カトー』で多くのパトリオットに理論的影響を与える次のセリフを言ったのかもしれません。"How beautiful is death, when earn'd by virtue!Who would not be that youth? What pity is itThat we can die but once to serve our country."(死は美徳で得られたときになんと美しいことか 誰がその若さでありたいと思わないだろう?なんと哀れなことか 我々の国のために尽くすために一度しか死ねないことが)。どちらにせよヘイルが非常に立派なことを言って死に臨んだのは確かなことで、この言葉によって彼は故郷コネチカット州のひいてはアメリカのヒーローとなりました。この最期の言葉はあるいは楠木正成の最期の言葉である、「七生報国」などにも通じるかもしれません。さてアメリカ独立の英雄となったヘイルですが、彼の銅像はアメリカ各地に建てられております。そのいくつかを紹介しましょう。ホワイトハウスの東隣にあるワシントンD.C.のフェデラル・トライアングル、彼の志を受け継ぐアメリカの情報機関であるバージニア州ラングレーのCIA本部、地元コネチカット州の彼の名を冠したネイサン・ヘイル砦、チューレーン大学法律学校読書室、シカゴ・トリビューンタワーのベラ・ライアン・プラット、などなど。他にも彼の名を冠した地名はアメリカ中にあります。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも

中野竹子の辞世の句。中野 竹子(嘉永3年(1850年)または弘化4年(1847年)? - 慶応4年8月25日(1868年10月10日)))は、幕末の女性。会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸で生まれた。聡明で学問に長じ、また薙刀術の名手であった。戊辰戦争が始まると会津若松城下に戻り、学問や薙刀を教える。官軍が城下に侵攻した際、母・こう子らと共に娘子軍を結成し奮戦したが被弾。首級を敵に与えることを潔しとせず、母の介錯により果てた。首級は農兵の手により法界寺に埋葬された。享年18。

中野竹子は会津戦争において、わずか18歳で戦死した女性です。会津戦争は会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いです。主戦場となったのは現在の福島県あたりです。慶応4年8月21日(1868年10月6日)に、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破ると、40キロ余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入しました。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れ、会津藩は若松城に篭城して抵抗ました。佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けましたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次ぎ、孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏しました。彼女は藩主・松平容保の義姉である照姫に武道の指南をしていた赤岡大助に薙刀を、藩内の書の大家であった佐藤得所に書道を習いました。薙刀の腕前は道場の師範代を勤めるほどで、書道の方も備中庭瀬藩主・板倉侯夫人の祐筆を勤めており、非常な才女でした。彼女の最期は会津若松北西部柳橋(涙橋)のたもとで長州と大垣藩の兵と、上記の辞世の句を詠んだ短冊を薙刀に結び付けて戦い亡くなりました。

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