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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

So hard to die.

死ぬのは大変だな。

メリウェザー・ルイスの最期の言葉。メリウェザー・ルイス(1774年8月18日 - 1809年10月11日)は、ルイジアナ買収後、ウィリアム・クラークと共にアメリカ西部探検を一任されたルイス・クラーク探検隊の隊長を務めたことで知られる、アメリカの探検家、博物学者、軍人、行政官である。1774年8月18日、ルイスはバージニア州アルベマール郡シャーロッツビル近郊に、ウィリアムとルーシー(旧姓メリウェザー)の子として生まれる。10歳の時、彼は家族と共にジョージア州へ移り住んだ。彼が13歳の時に家庭教師による教育を受けるため、再びバージニア州へと戻った。1790年代には、バージニア州レキシントンに位置していた、リバティー・ホール・アカデミー(現在のワシントン・リー大学)を卒業した。彼はバージニア国民軍に加わり、1794年にウィスキー戦争を鎮圧する派遣隊の一員として戦地に派遣された。1795年、ルイスはその後1801年まで所属することとなる正規軍に加入。ここで後に探検を共にすることとなる、ウィリアム・クラークと知り合う。その後ルイスは大尉の地位を獲得した。1801年、当時合衆国大統領であったトーマス・ジェファーソンの個人秘書を務めることになった。元々彼は、合衆国第2代大統領ジョン・アダムズが提言した「真夜中の任命(Midnight Appointments)」の結果として連邦党員の将校が流入した、合衆国軍の政策に情報を供給していた。彼は後に探検隊の計画に深く携わることとなり、地図作成法やその他かごを編みこむ方法や編み物など、必要とされる技術を教育させるため、ジェファーソンは彼をペンシルベニア州フィラデルフィアへ送り込んだ。その後ルイスはルイス・クラーク探検隊の隊長に任命され、太平洋到達を果たした。1806年8月11日、探検任務も終盤に差し掛かったころ、ルイスは探検隊の部下であった視力の低いハンター、ピエール・クルザットに「誤って」腿を撃たれてしまった。残りの探検の間、彼はその負傷が原因であまり身動きが取れなくなってしまった。探検から帰還後、ルイスは報酬として6平方キロメートル(1500エーカー)の土地を受け取った。1807年、ジェファーソンは彼をルイジアナ領の統治者に任命し、ルイスはミズーリ州セントルイスに移住した。また彼は、フリーメイソンの会員だった。1808年8月2日、ルイスと数人の知人達はペンシルベニア州にあるフリーメイソンのグランド・ロッジへ、セントルイスに支部となるロッジの建設を求める嘆願書を提出した。この嘆願書は受理され、ルイスは1803年9月16日に111番目のロッジとして建設が保証されることとなった、セントルイス・ロッジの管理者に推薦・任命された。しかしこの頃から、ルイスは大量の飲酒に依存するようになった。そしてルイスはテネシー州ナッシュビルからおよそ110キロメートル(70マイル)離れた、グリンダーズ・スタンドという名の居酒屋で、1809年に銃撃による負傷により息を引き取った。そこは彼がワシントンD.C.へ向かう途中のナチェス・トレースに位置しており、彼は頭部と胸部を撃たれていた。彼の死因が自殺か殺人だったかの決定的な判断は下されていないが、死亡する直前に彼は極度に意気消沈しており、ミズーリ川へ飛び込んで溺れ死のうとしたという報告もあったため、自殺の可能性が高い。ルイスは法的な相続人を残さぬまま逝去したにもかかわらず、2003年に発足した「ルイス姓DNAプロジェクト」が、ルイスは彼の父方の祖先がワーナー・ホール・ルイスの血統を持つと推測されるDNA細胞を持っていたと発表した。DNAによる血統から、ルイスはジョージ・ワシントン、ロバート・E・リー、エリザベス2世と関連があることがわかった。ルイスは最期を迎えた場所からそう遠くない位置に埋葬された。現在は彼の栄誉を称え、ナチェス・トレース・パークウェイ沿いに記念碑が建てられている。

メリウェザー・ルイスは太平洋へ陸路での探検をして帰還した、白人アメリカ人で最初の探検隊であるルイス・クラーク探検隊の隊長を務めました。この探検隊は、アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンにより結成されましたが、ジェファーソンはルイス宛に送った1803年6月20日付けの通知書で、「貴殿の任務は、ミズーリ川とその主流にかかる沿道、さらにコロンビア川、オレゴン川、コロラド川ほか太平洋との連絡水路を探索し、大陸を最も短い距離で横断、かつ通商を行う目的で通行できる陸路を発見すること」と指示しました。この探検により、合衆国は主な河川と連なる山脈を表した地図を作り、アメリカ西部の地理に関する広範囲に渡った知識を獲得しました。また全178種に及ぶ植物と、122の動物の種・亜種を観察および記録し、72の先住民族の存在を明らかにしました。今なをアメリカで最も有名な探検家としてその名を残すルイスですが、その最期は自殺なのか他殺なのかよく分からないというものでした。ルイスの検死をした医師は他殺と取れる報告をしまいたが、クラークとジェファーソンはルイスの死を知らされると、自殺という結論を受け入れたそうなので、元からそういう傾向のある人であったようです。ただしルイスの死因については確証がなく、法医学的分析のために2008年に内務省が遺骸の発掘を承認しましたが、その後政策の見直しにより2010年に指定を取り消されました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I should never have switched from Scotch to Martinis.

スコッチからマティーニに乗りかえるべきじゃなかったな。

ハンフリー・ボガートの最期の言葉。ハンフリー・ディフォレスト・ボガート(1899年12月25日(1月23日とする説もあり) - 1957年1月14日)は、ニューヨーク出身のハリウッド映画の俳優である。1930年に『河上の別荘』で初出演を果たして以降20年近くに渡り、ワーナー・ブラザーズの専属に近い形で俳優活動を行った。1930年代はギャング映画の敵役を多く演じたが、40歳を過ぎて主演した『マルタの鷹』『カサブランカ』などの作品で、ハードボイルド・スターの地位を確立。後年は演技派としても活躍し、『アフリカの女王』(1951年)ではアカデミー賞主演男優賞を受賞した。1940年代 - 1950年代を代表する名優として、時代の象徴的存在に挙げられることが多い。1999年にAFIが発表した「アメリカ映画スターベスト100」では男優の1位に輝いている。ニューヨークにおいて、イングランドとオランダ系の血をひく外科医の父ベルモント・デフォレスト・ボガートと、イングランド系で画家の母、モード・ハンフリーの間に生まれる。父は厳格なプレスビテリアン、母は厳格なエピスコパリアンだった。家庭が裕福だったこともあり、イェール大学へ進学するよう希望していたが、ボガートは高校を中退。1918年に海軍に入隊するも、3年後に除隊。やがてブルックリンの劇場で舞台に立ち、俳優の道を志す。晩年に食道癌を宣告され、妻と共に闘病するものの1957年1月14日に、永眠する。

ハンフリー・ボガートは問答無用の伝説的人気俳優です。最初はブロードウェイに出演していましたが、1929年の株式市場暴落により映画へと転向し、生涯に75本の長編映画に出演しました。映画監督・脚本家のジョン・ヒューストンと仲が良く、彼の監督デビュー作である『マルタの鷹』をはじめ、『黄金』、『キー・ラーゴ』、『アフリカの女王』、『悪魔をやっつけろ』など、死去するまで数多くの作品で主演を務めました。彼は57年の生涯の中で4度結婚をしていますが、4人目の妻ローレン・バコールとは非常に仲がよく、彼女との間に1男1女をもうけました。彼の出演作品は傑作だらけで、もうどれを代表作として挙げれば良いのか分からないほどです。有名なのとしてはダシール・ハメットの名作ハードボイルドの映画化した『マルタの鷹』、AFIアメリカ映画100年シリーズのアメリカ映画ベスト100(1998年)の投票で2位になった『カサブランカ』、海洋冒険小説の大家、セシル・スコット・フォレスター原作でアカデミー主演男優賞を受賞した『アフリカの女王』辺りでしょうか。「トレンチコートの襟を立て、紙巻きタバコをキザに咥えて吹かす」というボガートの姿を真似する人も多かったそうです。彼はヘビースモーカーで酒豪でもありました。愛飲酒はドランブイ(スコッチウイスキーベースの薬用酒)で、飲んだ量に比例して毒舌が激しくなったそうで、最期の言葉もお酒について述べています。晩年は健康が悪化して食道とリンパ節を摘出する手術を受けましたが、治療を受けるのが遅すぎたため癌が転移してしまいました。彼が1957年1月14日に死亡した時には、体重は80ポンド(36キロ)しかありませんでした。彼は結婚する前にローレン·バコールに与えたブレスレットの、金笛と一緒に埋葬されました。そして彼の墓碑銘には二人が共演した最初の映画である『脱出』から引用された"If you want anything, just whistle."(何か欲しい時は口笛を鳴らして)という言葉が刻まれています。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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