FC2ブログ
12 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 02

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

To my Friends, My work is done. Why wait?

友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?

ジョージ・イーストマンの遺書。ジョージ・イーストマン(1854年7月12日 - 1932年3月14日)はアメリカの実業家、発明家であった。イーストマン・コダック社の創業者。ロールフィルムを発明。それによって連続撮影のスピードが著しく速くなり、写真機の主流となった。ロールフィルムは1888年にエドワード・マイブリッジやルイ・ル・プランスが映画用フィルムを発明する元となり、レオン・ボウリー(英語版)、トーマス・エジソン、リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエスらによる映画の発明のための基礎技術となった。篤志家としても有名で、ロチェスター大学のイーストマン音楽学校と医歯学部を創設し、ロチェスター工科大学(RIT)に寄付をし、マサチューセッツ工科大学(MIT)の第2キャンパスを建設し、いくつかの大学に寄付をしている。また低所得者のために、ロンドンをはじめとするヨーロッパ各地の都市に診療所建設のための基金を創設した。ニューヨーク州ウォータービルにある、両親が1849年に購入した10エーカーの農場で末っ子として生まれた。1874年に写真に興味をもったが、当時の写真はガラス板に感光乳剤を塗って、乾く前に撮影する方法であった。3年の実験の後に乾式の写真板(乾板)を開発し、イギリスとアメリカでの特許を取得し、1880年に写真の事業を始めた。1884年に写真の基材をガラスから乳剤を塗ったロール紙に換える特許を取得した。1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得した。「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります("You press the button, we do the rest")」の宣伝文句のもと、顧客はカメラを送り返して、10ドルを払えば、フィルムを現像し100枚の写真と新しいフィルムを装填するシステムで市場を開拓した(この宣伝文句は社会の関心を引き、ギルバート&サリヴァンのオペレッタ『ユートピア国株式会社』で使われた)。1888年9月4日、イーストマンはコダックの商標を取得し、世界最初のロールフィルムカメラ「No.1コダック」を発売した。1889年にはセルロースを使った透明な写真フィルムを発明。1896年までに100台のコダックのカメラが売れた。1900年にはブローニーシリーズを1ドルで発売し、写真とカメラを一気に普及させた。早くからフィランソロピー活動を始めており、事業の収益の一部を教育機関や医療機関の創設にあてた。例えば、1901年にはロチェスター工科大学の前身である力学研究所に62万5千ドルを寄付している。1900年代初めには他にマサチューセッツ工科大学に寄付し、チャールズ川沿いの第2キャンパス建設を支援した。同キャンパスは1916年にオープンされた。イーストマンは生涯独身だったが、ビジネス仲間ジョージ・ディックマンの妻で歌手のジョセフィン・ディックマンと長年に渡ってプラトニックな関係を続けた。晩年の2年間は脊椎管狭窄症と見られる症状に苦しんだ。立つことも難しく、すり足でゆっくりとしか歩けなくなった。母も最晩年の2年間は車椅子を使用しており、同じ病気だったのかもしれないが、母の文書化された病歴には子宮がんの手術を受けて成功したことしか記されていない。いずれにしてもイーストマンは母が苦しむ様子を目にしており、強まる痛みと身体の衰えからますます憂鬱になっていった。母マリアは彼の人生の大きな部分を占めており、その死はジョージに大きな衝撃を与えた。礼儀を病的に重んじる性質だった彼が、友人たちの前で感情を抑えられなかった。後に「母が死んだとき、1日中泣いていた。死にたい衝動を抑えられなかった」と述べている。1932年3月14日に自邸でピストル自殺した。

ジョージ・イーストマンはコダック社(英:Eastman Kodak Company)の創業者です。さて問題ですKodakという言葉の意味はなんでしょう? 答えは意味はありません。イーストマンが力強くシャープな感じを出すために、「K」をはさんだ単語をいく通りも考えた結果として生まれたものです。コダックという単語そのものに特別な意味はありませんが、イーストマンはこの社名をとても気に入っていたそうです。イーストマンは、アンドリュー・カーネギーやジョン・ロックフェラーに次ぐ有名な篤志家であり、ロチェスターやマサチューセッツ州ケンブリッジ、南部の黒人を受け入れている2つの大学、ヨーロッパ各地の都市などの様々なプロジェクトに1億ドル以上を寄付をしました。彼が特に多くの寄付を贈ったのが、ロチェスター大学とマサチューセッツ工科大学です。ロチェスター工科大学には彼の寄付と支援を記念してイーストマンの名を冠した建物があり、MITには記念銘板が設置されており、浮き彫りになった肖像の鼻を触ると幸運が訪れるという言い伝えがあります。ケンブリッジに行くことがありましたら、ぜひ触ってきましょう。このような多大な功績のあるイーストマンですが、晩年は病気と母の死により健康状態が悪化し、最期は自殺してしまいました。葬儀はロチェスターの聖ポール英国聖公会教会で行われました。彼の遺体は2012年現在、ロチェスターのコダック・パークに埋葬されています。彼の家であったジョージ・イーストマン・ハウスは、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されており、2012年現在は国際写真映画博物館として運営されています。彼がいなければ写真は元より、映画産業の発達もかなり遅れていたことでしょう。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0