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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Eva se va.

エバは去ります。

エバ・ペロンの最期の言葉。エバ・ペロン(1919年5月7日 - 1952年7月26日)は、アルゼンチンの女優、政治家。フアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入されるようになった。親しみを込めて呼ばれる通称としてエビータ(Evita) と呼ばれる。現在でもアルゼンチン国内では人気が高い。マリア・エバ・ドゥアルテはアルゼンチン、パンパス草原の貧しい村・ロス・トルドスでバスク系アルゼンチン人の未婚のコック、フアナ・イバルグレンと妻帯者である農場所有者フアン・ドゥアルテとの間に生まれた5人の私生児のうちの1人として誕生。首都のブエノスアイレスから離れた田舎町フニンで育つ。15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京する。なお、高等教育は受けていない。ブエノスアイレスでは、当初は水着グラビアや広告モデルなどのモデルの仕事をしていたが、1930年代後半頃より次第にラジオドラマの声優や映画女優として活躍しはじめ、B 級メロドラマ映画やラジオドラマ「エル・ムンド」に出演していた1943年に、パーティーで軍事政権の副大統領兼国防大臣兼労働局長の肩書きを持つフアン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会う。以後、政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの民衆向け政治宣伝を担い、第二次世界大戦下で中立国として連合国と枢軸国の双方へ牛肉の輸出を行うことで膨大な外貨を稼いでいたものの、度重なる政変と汚職により貧富の差が大きかったアルゼンチンで、貧しく無学な労働者階級(無学な文盲者の多くがラジオをその情報源・娯楽としていた)から大きな支持を得た。なお、その後使われるようになった「エビータ」の愛称は、ラジオドラマの頃から使われ始めたものである。第二次世界大戦終結直後の1945年10月に、中南米に強い影響力を持つアメリカの支援を受けたエドゥアルド・アバロス将軍によるクーデターが起き、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受け(10月11日)刑務所に服役したが、エバはペロン支持者の指示の元、ラジオで国民に向かってペロンの釈放を呼びかける。この様な動きを受けて、支持母体の弱かったアバロスが 10月21日に政権を放棄したためにペロンは釈放され、10月26日にペロンと結婚。選挙母体であるアルゼンチン労働党の支援で選挙戦を戦ったフアン・ドミンゴ・ペロンは翌1946年3月28日にアルゼンチン大統領に就任した。夫のフアン・ドミンゴが大統領に選出された後、ファーストレディ(大統領夫人)となったエバは、夫の地位を背景に積極的に国政に介入するようになった。正義党への支援票を増やすべく、夫の指示を受けて婦人部門を組織させた上に女性参政権を導入させ、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立した。また、ミシン、毛布、食料などを配布(その一部は敗戦による困窮状況にあった日本にも送られた)するなど、「バラマキ政策」を武器に無学なブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をした。これらのことから、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、「エビータ」と愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。しかし、エバがばら撒いた資金は税金のみならず、労働者や企業から半ば強制的に取り立てた「献金」によってまかなわれていたため、アルゼンチンの経済に大きな悪影響を与えた。また、財団を利用した蓄財や汚職の疑いも受けている。さらに、下層階級出身でまともな教育も受けておらず、しかも選挙で選ばれたわけでもないのに国政に参加していたこと、経済状況も顧みずに公私混合の「バラマキ政策」を行っていたことなどから、きちんとした教育を受けた中流層以上の知識階級や富裕層、軍上層部から大きな批判を浴びた。また水着モデルで元愛人というその経歴から、「淫売」、「成り上がり」と非難を受けた。カトリック信者がその殆どを占める保守的なラテンアメリカの土壌においては、女性として政治において活動的過ぎる人物と見なす者も多かった。1947年6月6日より、「レインボー・ツアー」と呼ばれたヨーロッパ外遊を行い、スペインやイタリア、バチカンやイギリスなどを訪問し、スペインのフランシスコ・フランコ総統やイタリア大統領など多数の国家元首と会見した。これは、第二次世界大戦において中立国でありながら、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと親しいなど枢軸国寄りの姿勢を保ったことから大戦後にファシストの一員として見なされたペロン政権を、ヨーロッパにおいてイメージアップする大規模な広報活動を目指すものであった。なおこの際に、大戦中に蓄えた外貨をこれらの諸国にばら撒くと共に、エバに勲章を与えるように各政府に要請したほか元首や国王との公式晩さん会を開くように依頼したものの、イギリスは、選挙で選ばれたわけでもない上に、毀誉褒貶が激しかったエバとの公式晩さん会を開催することを拒否したほか、バチカンも法王との会見は行ったものの勲章を与えなかった。エバの人気に期待をかけたファンは、1951年頃より、エバに副大統領の地位を与えさらなる政治的権力を得ようとした。この動きに対して、政府内における彼女の影響力の増大を嫌う軍部はこれに危機感を募らせたが、直後にエバが子宮癌と診断を受けたこともあって、フアンはそのポストを与えることを断念した。1952年に 33歳で子宮癌によって死去、ブエノス・アイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバ・ペロンの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られただけであった。その後遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。フアン・ペロンはその3年後の1955年9月には軍事クーデターにより大統領の職を追われ、同じく独裁者のフランシスコ・フランコ将軍が君臨するスペインに、独裁者仲間のアルフレド・ストロエスネル大統領が国を治めるパラグアイ経由で亡命した。のちエバの遺体はイタリアのミラノへ空輸され埋葬され、16年後の1971年に遺体は発掘されスペインに空輸された。その後1976年に発生した軍事クーデターによって、エバの遺体はアルゼンチンに返還されブエノスアイレスのラ・レコレッタ墓地、ドアルテ家の墓に改葬された。なお、ブエノスアイレスには彼女の遺品などを展示したエビータ博物館 (Museo Evita) が存在する。

エバ・ペロン本人は知らなくても、彼女のの生涯を描いたミュージカル『エビータ』をご存知の方は多いでしょう。『エビータ』はティム・ライスの作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバー脚色・作曲、エレイン・ペイジ主演でロンドンのウェスト・エンドで初演(1978年)、2900回上演のロングランを記録しています。日本では劇団四季が断続的に上演していますので、見たことがある人もいるかもしれません。またこのミュージカルを基にして、マドンナ、アントニオ・バンデラス主演、アラン・パーカー監督の映画『エビータ』(1996年)もつくられ、マドンナの歌う主題歌『アルゼンチンよ泣かないで』とともに、世界中で高く評価されています。エバは元女優であるだけあって大変な美人であり、アルゼンチン国民から絶大な人気を博しました。ただ彼女の公私混同した活動には批判もあり、例えば税金から支出させたお金で、クリスチャン・ディオールなどのフランスの高級ブランドを愛好したり、裕福なアルゼンチン人の例に漏れず、モータースポーツを愛好し、希少なマセラティA6 G-1500という車を購入しています。エバの最期は子宮癌によって体重が36kgになるまで衰弱し1952年7月26日の午後8:25に33歳で亡くなりました。エバが死亡したニュースは、アルゼンチンの至る所で直ちに放送され、政府は2日間公式活動をすべて保留しました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Hello.

グレアム・チャップマンの最期の言葉。グレアム・チャップマン(1941年1月8日 - 1989年10月4日)は、イギリスのコメディアン、俳優。グラハム・チャップマンとも。イギリスの代表的なコメディユニット、モンティ・パイソンのメンバー。1941年1月8日、レスターにて、警官の父親ウォルターと母親のエディスの次男として生まれる。ケンブリッジ大学で医学を学びながら、コメディーサークル『ケンブリッジ・フットライツ』のメンバーとしてスケッチ(コント)を書き、舞台にも立っていた。ここで、その後のパートナーとなるジョン・クリーズと出会う。クリーズの最初の印象では、「いけ好かない野郎」であったという。しかしその後二人はコンビを組んで、コメディー番組『ザ・フロスト・レポート』や『アット・ラスト・ザ・1948・ショー』に参加。そして他の5人のメンバーと共にモンティ・パイソンを結成する。1969年から1974年までBBCで放映された『空飛ぶモンティ・パイソン』は絶大なる人気を博した。同グループ製作の映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』、『ライフ・オブ・ブライアン』では主役を演じた。『モンティ・パイソン』後のソロ活動では『オッド・ジョブ』や『チーチ&チョン イエローパイレーツ』(タイトルにはチーチ&チョンとあるが、主演はチャップマンである)などを世に送り出したが、ヒット作には恵まれなかった。しかし、TV番組への出演や大学での講演会等を積極的に行い、健在ぶりを見せていた。普段は無口でシャイな紳士であったが、スケッチの作風は非常にアナーキー(故障した中古車を死んだオウムに置き換えるような)で暴力的であった。また、医者らしく『人生狂騒曲』の「臓器移植」のようなスプラッターな作品も多く残している。また、チャップマンにはひらめきの才能があった。脚本の執筆はほとんどジョン・クリーズが行っていたが、チャップマンがその場の思いつきで奇想天外なワン・アイデアを付け足すことで、非常におもしろいスケッチになることがよくあったという。1970年代にはアルコール依存症で仕事に支障が出ることもあった。メンバーは映画『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』の撮影中、瓶一杯だったはずが半分にまで減っているジンを発見し、その深刻さに気付いたという。『空飛ぶモンティ・パイソン』の第3シリーズのころにはセリフを覚えられず、数10テイク取り直すこともしばしばであった。また、『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の登場シーンを見ると、登山家のはずのチャップマンが岩肌にしがみつきながらふらふらしているのが分かる。これは役作りではなく、本当にまっすぐ立てなかったためである。しかしあるとき、酒を飲んだ後階段から落ち怪我をしたのをきっかけに、1977年のクリスマスに禁酒と禁煙を決め、映画『ライフ・オブ・ブライアン』では立ち直っている。しかし長年にわたる悪癖がそのころには体を蝕んでいた。当時のVTRや書籍などの中ではパイプを咥えている姿がよく見られる。パイソンズのメンバーは気づいていたようだが、チャップマンは自分がゲイであることは公表していなかった。1972年に『Gay News』というゲイの新聞のサポーターとなり寄付や投書をした。現代でこそ、ゲイ・バイセクシュアルであることを公にしている著名人も多いが、70年代にしてジョージ・メリー(ジャズミュージシャン)がホストを務めた番組でカミングアウトしたことは当時としてはセンセーショナルであった。その数日後に友人宅で開かれたパーティーにてデイビッド・シャーロックを自分のパートナーとして紹介。2人は1966年に出会っており、映画の脚本などを共同で執筆していた。また、2人は合法的に養子を迎えている。1989年10月4日、48歳の若さで死去。死因は喉頭癌とそれに伴う肺炎。彼の最期を看取ったのはパイソンズのメンバーだったジョン・クリーズとマイケル・ペイリン、パートナーのデイビッド・シャーロック、弟のジョンとその妻だった。テリー・ジョーンズとピーター・クックは同日見舞いには来ていた。人の死に目を見たことのなかったクリーズのショックは大きく、ほかの部屋まで付き添ってもらい休息しなければならない程だったと言われている。亡くなった日の翌日の10月5日は、奇しくも『空飛ぶモンティ・パイソン』が放送されて20年目のことだった。
葬儀は2ヵ月後に行われ、ジョン・クリーズが弔辞を読み上げた。その中には「Fxxk」や、そのほかの汚い言葉も使われていた(チャップマンが今際の際にクリーズに言伝ていたという前置きのもと)。その後、映画『ライフ・オブ・ブライアン』の劇中歌であった「Always Look on the Bright Side of Life」が、エリック・アイドルの伴奏で歌われた。死後、パイソンズ結成30周年直前のイベントにパイソンズが出席した際に司会者のロバート・クラインの「彼に会いたかった」という台詞を受け登場(骨壷入りの遺灰で)。しかし骨壷をギリアムに蹴っ飛ばされ会場一面に散布された(しかもその際パイソンズの面々が元チャップマンを集めるために使ったのはほうきに塵取り果ては掃除機という扱いであった)。またその際にジョン・クリーズは指を舐めて唾をつけると遺灰を口にしてマイケル・ペイリンに「食うな!」と言われている。自伝に『A Liar's Autobiography Volume IV』があり、自分がアルコール中毒から立ち直るまでの道のりなどが得意げにつづられている。2011年にはこの自伝の3Dアニメーション映画化が決定、アイドル以外のパイソンメンバーが製作に携わっており、また生前に録音された自身の肉声も使用される予定である。

グレアム・チャップマンは問答無用のコメディグループであるモンティ·パイソンのメンバーです。そのシュールな作風は、彼が名門ケンブリッジ大学の出身で医師免許を保有していたことを感じさせるほど、芸術的であるようなないような一種異様なものがありました。彼らの人気を決定付け、現在世界中で製作されている紺と番組の原型となったのが、1969年から1974年までイギリスのテレビ局 BBC が製作・放送された"Monty Python's Flying Circus"『空飛ぶモンティ・パイソン』です。同時代の事件や哲学に敏感に反応するとともに、同性愛や民族・宗教上の差異を扱ったきわどいネタも多く、そのナンセンスさと毒の強さは現在の目で見ても印象的です。とにかく何から何までコケにしてしまう凶暴なあのコントは、イギリス人にしかできません。今やったらおそらく許されないでしょう。その過激な作風から「パイソニア」と呼ばれる、熱狂的ファンが生まれ現在にいたるまで伝説的なモンティ・パイソンは伝説的なコメディグループとして不動の地位にいます。チャップマンの最期の言葉は、養子にした息子に病院で言ったものです。チャップマンの死因は脊髄ガンで1、奇しくも結成20周年の前日に亡くなり、これを機にパイソンズは解散状態となりました。最後に僕の好きなコントの動画をいくつかあげておきましょう。とにかく暴力的に何でも暴力的に笑いの種にしてしまう、イギリス人のブラックジョークを堪能してください。

Hilter in Britain! イギリスのヒトラー
http://www.youtube.com/watch?v=wbp0dKXDdDM

The Spanish Inquisition スペイン宗教裁判
http://www.youtube.com/watch?v=uprjmoSMJ-o

哲学者サッカー
http://www.youtube.com/watch?v=N7MlY56Gj3Y

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I'd like you to give my love to my family and friends.

私はあなたに私の家族と友達に愛を与えて欲しい。

テッド・バンディの最期の言葉。セオドア・ロバート・バンディ(1946年11月24日 - 1989年1月24日)はアメリカの犯罪者、元死刑囚。バンディは、1974年から1978年にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。実際、「シリアルキラー(serial killer、serial=連続の、順列の)」という表現は彼を表すために考え出されている。バンディの主な殺害方法は撲殺や絞殺であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、それから性行為を行う。アナルセックスが気に入りであったとされる。その後に殺害し、死体を遠くまで運んで切り刻み、切断し、淫らな行為をしたうえに屍姦を行い、数日後に死体の場所に戻ってから、切り取った女性の頭部の口の中に射精したという。元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをして「けだもの」と言わしめた。バンディは、女性を乱暴して殺害することをなんとも思わない、残忍で加虐的な性格の持ち主であった。バンディは反社会性パーソナリティ障害であったと考えられている。残忍な殺人犯という一般的な評価に反し、しばしば知的でハンサムで愛嬌がある青年であったとも評される。また、日本のメディアにも題材として登場し、ハンサムで頭脳明晰なシリアルキラーとしてショッキングに扱われる。1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれる。出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエル。彼の母親はデパートの店員、血縁上の父親は不明である。ロバートと母親は、ロバートが9歳になるまで(家族によると、気性が激しく暴力的であった)祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている。私生児という不名誉を隠すため、ロバートは祖父母の養子、つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。彼の叔母は、ロバートが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。ロバートと母親はワシントン州タコマ(彼女の叔父がこの地にある大学で音楽の教鞭を取っていた)に引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った病院のコックをしていた男性と結婚。バンディ姓となる。複数の情報によれば、幼年期青年期に亘りバンディは実の母親を姉と考えていたかも知れないとのことである。ウィルソン高校での高校時代、ロバートは華々しいとまでは云えないまでも、メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生であった。ただ、伝記『The Only Living Witness』の著者であるスティーブン・ミショーとヒュー・エインスウォースによれば、彼には他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。事実、ロバートは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションをとろうとすることの理由が分からなかった」という内容のことを語っている。ロバートは、高校の大半と大学時代の早期を通じて、内気で内向的なままであった。高校を卒業する前から、万引きや窃盗などの犯罪活動は始まった。また思春期の若者として覗きなどの倒錯的な性行為に耽っていたと公言している。また自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていたことを「実体」と表し、またそれをよく隠していた、とバンディは自身のことを語っている(しかし、この「他の自分自身」をバンディが語っている時は、自身の死刑判決を上告しようとしていた時期であったということに、留意しなければならない)。また、彼は残虐な性描写を特徴とするスナッフフィルムのファンであると語っている。高校卒業後、ピュージェットサウンド大学へ入学したバンディは、心理学を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わる。バンディはワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室でカウンセリングなどのボランティア活動をしている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。共にボランティア活動をしていた駆け出しの犯罪記者アン・ルールは、皮肉なことに彼女の友人であるバンディの犯罪と知らずに、彼の犯した犯罪記事を書いている。数年後、彼女はバンディの伝記『テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(原題:The Stranger Beside Me)』を書くこととなる。バンディは、大学の一年生のとある女性と交際を始める。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気の無さに嫌気が差した結果、交際は破綻する。交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2週間後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる(尚バンディはこの時期、違う女性とも交際中)。この交際の破綻後、バンディは3年間にわたる殺人凶行を始めた。バンディの殺人対象者に見られる共通点、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型はこの女性から形成されていると、ルールは考察している。バンディ専門家の一部、ルールやキング郡の元刑事ロバート・D・ケッペルなどは、10代前半からバンディは殺人を始めていたかもしれないと考えているものの(バンディが15歳の時、タコマ在住の8歳の女の子が失踪している事に関連付けられて考えられている)、最古の立証された彼の殺人は、バンディが27歳の時である1974年に犯されている。1974年1月4日の夜半過ぎ、ワシントン大学に通う18歳の女子生徒の地下寝室に忍び込み、眠っている彼女をバールにて殴打、ベッドの鉄棒を引っこ抜き、それを使って彼女に性的な暴行を行った。翌朝、彼女は自身の血の海の中、昏睡状態で横たわっている所を見つかる。一命は取り留めたものの、永久的な脳障害を負った。バンディの次の犠牲者はワシントン大学4年生の女子生徒であった。彼女の地下室に忍び込んだバンディは、彼女を気絶するまで殴り、その後ジーンズとシャツを着させてシーツで包み、彼女を運び出した。一年後、彼女はシアトルの東の山中で首を斬られた姿で発見された。1974年の1月から6月にかけて、ワシントン州の8人の女性をストーキングしては殺害している。7月には凶行も全盛を極め、サマミシュ湖州立公園にて昼間から2人の女性が拉致、殺害されている。バンディは魅力的な顔立ちをしていたが、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという長所を持っていた。後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンの様だ」と言われている。バンディは秋にユタ州に移り住み、ソルトレイクシティにあるユタ大学ロー・スクールに通い始め、ここでバンディは10月から殺人を再開した。17歳の女性をレイプし、アナルセックスをし、その後に絞殺している。彼女の遺体は7日後に見つかった。またその後、他の17歳の女性がハロウィンの日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている。バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性ということでほぼ共通していた。1974年11 月4日、ユタ州マレーに住む18歳の女性は、バンディの手に掛かりそうになったところから逃げ出した。バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った。危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる。だが車には何も異常が無い。バンディは彼女に書類を作るので警察署まで来てくれないかと、彼女をバンディの所有するフォルクスワーゲン・タイプ1に乗せて走り始める。だが、彼女は違和感を覚えていた。その後バンディが彼女に手錠をはめようとしたところで、彼女は逃亡した。以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている。1975年8月 16日、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認される。1976年3月1日1週間にわたる裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で1年から15年にわたるユタ州立刑務所での禁錮刑を受ける。しかし、コロラド当局は連続殺人事件を追求していた。1976年6月7日、彼の殺人事件の裁判準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される。休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される。バンディはそこの2階の窓から飛び降り、逃亡した。しかしその際に足首を痛め、結果として逃亡を図れなかったバンディは1週間後に捕まった。バンディは刑務所に戻された。しかし裁判の開始を待っている時期に、彼は再び逃亡する。コロラド州グレンウッドスプリングスにある刑務所に収監されていたバンディは、どういうわけか弓鋸を所持しており、それを用いて独房の天井に四角い穴を開けていた。1977年12月30日の夜、彼はその穴によじ登り、こそこそせずに正門まで歩いていき、車を盗んで逃亡した。刑務所に訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。トランス・ワールド航空のデンバー発シカゴ行に乗って逃亡。ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後、車を盗んでアトランタに乗り捨てる。そこからフロリダ州タラハッシーまでバスで移動した。1978年1月15日深夜、カイ・オメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し、2人に重傷を負わせる。1978年2月9日、レークシティーに移動。そこで12歳の少女を誘拐して性的暴行を加えながら、彼女の顔を泥につけて溺死させ、死体を小屋の下に遺棄する。彼女がバンディの最後の被害者となった。その後、1978年2月15日午前1時ペンサコーラにて、彼が乗っていたフォルクスワーゲンが盗難車のナンバーであったことから警官に拘束される。やがてバンディの身元は判明し、カイ・オメガ女子寮での殺人事件の裁判のためマイアミに移送される。1979 年6月25日から7月31日にかけて、バンディの第2審が開かれた。5人の国選弁護人がいるにも関わらず、バンディは自分で自分の弁護を行った。また、公判中、昔仕事場で同僚だった女性と結婚している(一子をもうけた後、離婚)また死刑執行までの間、バンディは数百に及ぶファンレターを貰っている。ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、 FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に課された死刑宣告を覆すためであった。しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した犯罪にしか興味が無いと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決して無いと考えたという。それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ったが、受け入れることはなかった。最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感にあふれた顔を見せた。 1989年1月24日午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳であったバンディに死刑が執行された。2000ボルト以上の電圧を2分間に亘り加圧され、午前7時16分に死亡を確認。その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していたため、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている。なお、この記事のタイトルは「Killer dies with a smile on his face(殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ)」であった。

テッド・バンディはアメリカ犯罪史上最悪の連続殺人犯の一人です。彼に関する限り、環境が彼を凶行に駆り立てたというような、もっともらしい理由は一切成り立ちません。金持ちでハンサムで知的で、友人たちは彼はいずれ州知事なるのではないかと思っていたほどでした。バンディの飽くなき殺人の欲求はとどまるところを知らず、刑務所を脱獄してまで殺人を続けました。バンディはとても頭のよい人で裁判では自らの弁護士をやったほどでしたが、最後までどうして人を殺してはいけないのかを理解できなかったそうです。このようにバンディは女性だけを狙ったとんでもない殺人鬼だったのですが、信じられないことに非常に女性に人気があり、裁判所に女性ファンが殺到しました。さらに信じられないことに、バンディはかつての自分の同僚の女性と獄中結婚しました。ここまで来ると常人の理解の限度を超えてしまいます。『FBI心理分析官』の著者として有名な元FBI捜査官ロバート・K・レスラーがバンディと面談した時、バンディは「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したそうです。バンディは冤罪、無罪を訴えて続けましたが、最終的には殺人を認めました。被害者の数は少なくとも36人とされていますが、推定では100人を越えているのではないかとも言われています。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Oh God, here I go!

おお神よ、御許へ参ります!

マックス・ベアの最期の言葉。マックス・ベア(1909年2月11日 - 1959年11月21日)は、アメリカ合衆国のプロボクサー、俳優。ネブラスカ州オマハ出身。元世界ヘビー級王者。弟にジョー・ルイスに2度に渡って挑戦したバディ・ベア、息子にマックス・ベア・ジュニアがいる。1929年5月16日、プロデビュー。1930年8月25日、フランキー・キャンベルと対戦し、5回TKO勝ち。ベアのパンチが原因でキャンベルは翌26日に死去した。1932年8月31日、アーニー・シャーフと対戦し、10回判定勝ち。シャーフは1933年2月10日のプリモ・カルネラとの試合でKO負けし、2月14日に死去したが、当時のスポーツ記者の中には、ベアとの試合でのダメージを原因に挙げるものもいた。1933年6月8日、元世界ヘビー級王者マックス・シュメリングと対戦し、10回TKO勝ち。この試合は1933年のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。1934年6月14日、世界ヘビー級タイトルマッチで王者プリモ・カルネラに挑戦。11度のダウンを奪った上での11回TKO勝ちで王座を獲得した。1935年6月13日、世界ヘビー級タイトルマッチでジェームス・J・ブラドックと対戦。圧倒的有利と見られていたが、15R判定負けを喫し王座から陥落した。この試合は1935年のリングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出され、2005年にはブラドックを主役とした映画『シンデレラマン』として実写化された。1935年9月24日、再起戦でジョー・ルイスと対戦し、4回KO負け。この試合は1935年のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。1938年3月11日、トミー・ファーと対戦し、15回判定勝ち。この試合は1938年のリングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。1941年4月4日の試合を最後にボクシングから引退。ボクサー引退後は俳優として活動した。

当時のボクシング世界チャンピオンは、現在のように団体が分裂したり階級が増えておらず世界中にたったの8人しかいまっせんでした。マックスベアは世界王座に長期間いたボクサーではありませんが、リング誌の100人の偉大なチャンピオンランキングで22位に選ばれるほどの、人気のあるボクサーです。ヘビー級のチャンピオンには、アメリカに来た民族の順にチャンピオンになるというジンクスがあり、歴代チャンピオンを並べると初めはイタリア、次にユダヤ、最後が黒人という順番になります。ユダヤ人であったマックス・ベアは、後に黒人に独占されるヘビー級の白人チャンピオンです。対戦したフランキー・キャンベルを死亡させたことで、ベアは”キラー”と呼ばれ人気を博しました。ベアの試合で最も印象的なのは、ドイツ人として唯一のプロボクシング世界ヘビー級王者となった、マックス・シュメリングとの試合でしょう。実はシュメリングは大のナチス嫌いで、戦争中は数度に渡るナチス入党の誘いを断り、アメリカでマネージャーをがユダヤ人であることを理由にマネージャーを代えるようナチスから勧告されても変えなかったほどの人なのですが、当時のアメリカではシュメリングは、世界征服のためにヒトラーの計画の延長と見られており、奇しくもユダヤ人マックス・ベアとは因縁の対決となってしまいました。ベアはトランクスにダビデの星を刺繍して試合にのぞみ、ベアはその後すべての試合でそのトランクスを着用することを誓いました。試合はベアが10回TKO勝ちしました。ベアの最期は1959年11月21日の朝にハリウッドのホテルで、胸の痛みを訴えて医者にかかりましたが、そのまま亡くなりました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

いっぱい恋をしたし、おいしいものを食べたし、歌もうたったし、もういいわ。

越路吹雪の最期の言葉。越路吹雪(1924年(大正13年)2月18日 - 1980年(昭和55年)11月7日)は、元宝塚歌劇団男役トップスター、シャンソン歌手、舞台女優。本名、内藤美保子。旧姓の河野より愛称:コーちゃん、コッシー。東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区麹町)出身。所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)。日本のシャンソンの女王。宝塚歌劇団男役スターとして戦中から戦後にかけて活躍した。宝塚歌劇団26期生。同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーし、特にシャンソンにおいては岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介した(同じく日本女性シャンソン歌手だった岸洋子は「聴かせる歌手」、越路は「魅せる歌手」と言われた)。1958年(昭和33年)にテアトロン賞、1965年(昭和40年)に第7回日本レコード大賞、1968年(昭和43年)に文化庁芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。宝塚OGの枠を超えて国民的人気を博したため、美空ひばりや吉永小百合と並んで女性アイドルの源流とみる向きもある(もっとも、吹雪・ひばり・吉永らの時代は日本の芸能人に対して「アイドル」という言葉は使われず、「スター」と呼ぶのが普通であった。)。映画は市川崑作品などに出演している。テレビの出演はほとんどしないことでも有名であったが、1964年(昭和39年)8月31日から始まった、フジテレビ系音楽番組『ミュージックフェア』の初代司会者でもある。また、希にテレビ出演する際は、「お久しぶりのテレビでございます」と、視聴者へ挨拶をしたこともあったという。私生活では1959年秋作曲家の内藤法美と結婚、夫妻に子はなかったが内藤とは越路自身の逝去まで連れ添った。プライベートでは家事の一切を吹雪が仕切り、特に掃除の腕前は素晴らしかったという。喫煙者であったことでも知られる。独身時代、三島由紀夫の恋人だったことがある。三島の母は、息子が吹雪と結婚するものと思い込んでいたようである。また、彼女のファンの1人が佐藤栄作元首相夫人の佐藤寛子で、後援会会長を引き受けていた。日生劇場でのリサイタルは、ほとんどが春、秋の2回で約1ヶ月におよぶロングリサイタルであった。舞台衣装はニナ・リッチとイヴ・サン=ローランのオートクチュールであり、ニナ・リッチの本店には、彼女の胴の木型がある。バッグが大好きで、エルメスやルイ・ヴィトン、フェンディなどを愛用していた。パリのエルメス本店で革の手袋を購入する際に「全色頂くわ!」と言った話は有名である。また、パリの有名店では「マダム内藤」で通っていた。面倒見も良く、多くの芸能人から慕われた。宝塚歌劇団在団時、同期生である月丘夢路がぬきんでた美貌を嫉妬されて他の生徒から深刻ないじめにあっていたが、見かねた吹雪に救われたことを月丘本人が後年になって明かしている。肝の据わった女性と思われがちだが、さすがにリサイタルの直前は極度の緊張におそわれたという。そのため、緊張を紛らせるために煙草を燻らせ、コーヒーを飲んで、リサイタルに臨んでいた。ステージに出る際は緊張も極限に達し、マネージャーの岩谷時子から背中に指で「トラ」と書いて貰い、「あなたはトラ、何も怖いものは無い」と暗示をかけて貰ってからステージに向かっていた。晩年の1980年(昭和55年)6月、西武(現・PARCO)劇場の出演中激しい胃の痛みを訴え、公演終了直後に緊急入院。胃潰瘍との診断を受け、7月8日に東京都目黒区の東京共済病院で、胃の5分の4を切除する大手術を受けた。術後の復帰を目指してリハビリに励んだが、その後も入退院を3回繰り返すものの、ついに助からなかった。56歳没。彼女の本当の病名は胃潰瘍ではなく末期の胃癌で、腹膜にも多数の癌が転移していたが、最後まで越路本人には告知されなかった。死の直前、病床の彼女は意識が朦朧とする中で「法美さんにコーヒーを」と、最期まで最愛の夫を気遣った。彼女は両親と実兄を共に癌で亡くしている(越路死後であるが夫・内藤も癌の犠牲となった)ことから、自身も一番癌を怖れ毎年の癌検診を欠かさなかったが、亡くなる前年だけが多忙のため検査を先延ばしにしていたという皮肉な結果となった。越路の死に化粧は親友の一人で生前永きに渡り交際があった淡路恵子が担当した。

越路吹雪は昭和を代表する大スターです。吹雪の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支えた、作詞家翻訳家でもあった岩谷時子の存在が大きいです。岩谷は吹雪が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当し、吹雪の代表曲である「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」などの優れた訳詞により多くのヒット曲を生み出しました。吹雪が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷でしたが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったそうです。吹雪の最期の言葉は恋愛について述べていますが、吹雪は一時期三島由紀夫の恋人だったこともあります。有名な女優には破滅的な人生を送った人が多いですが、吹雪は夫とは最期まで仲が良かったです。彼女は自分の人生に満足したのでしょう、最期に残したのは満ち足りた言葉でした。

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