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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Bin ich noch in meinem Haus?

私はまだ家にいますか?

ゲアハルト・ハウプトマンの最期の言葉。ゲアハルト・ハウプトマン(1862年11月15日 - 1946年6月6日)は、ドイツの劇作家、小説家、詩人。1912年にノーベル文学賞を受賞した。ドイツにおける自然主義演劇の中心的人物。作風は、自然主義的手法で社会的問題を描くものから始まり、やがてロマン主義・象徴主義などの手法を用いるようになっていく。後には再び自然主義的作風に戻るが、その頃には社会的問題よりも個人の内面に着目した作品が目立つようになる。最初の戯曲は、イプセンの影響を受けた『日の出前』(Vor Sonnenaufgang 、1889年)。労働者の抱える問題を自然主義的手法で描いている。『織匠』(Die Weber、1892年)では下層階級の生活を描写した。この戯曲はハウプトマンの代表作の一つとされている。他の作品には、風刺喜劇『ビーバーの毛皮』(Den Biberpelz、1893年)、ロマン主義的な作品『ハンネレの昇天』(1893年)、象徴主義的な作品『沈鐘』(1896年)などがある。他にも歴史劇や童話劇などを書いており、自然主義に収まらず様々な様式を試みた劇作家といえる。

ハウプトマンは現在はポーランド領であるシレジア(Silesia)に生まれました。この町はドイツ語ではシュレージエン(Schlesien)と言います。最初は彫刻家になる意図で美術学校に入りましたが、後にイェーナの大学で勉強しました。ハウプトマンは第二次世界大戦時にもドイツに残り、ドレスデンの爆撃を生き延びました。ハウプトマンは平和主義者でしたが、ヒトラー政権を批判せずにドイツに留まったことが、後の彼の評価に悪い影響を及ぼしたようです。ハウプトマンの最期は、1946年6月6日に83歳で気管支炎により亡くなりました。ハウプトマンはポーランドで亡くなったのですが、彼は上記の理由で祖国から裏切り者扱いをされていたので、最期の言葉はここが本当に自分の家なのかという想いを述べたものでした。ポーランド共産党政権はハウプトマンがポーランドで埋葬されることを許可しなかったために、彼の遺骸は棺に入れられてドイツに送られ、バルト海上のドイツの領土ヒデンゼー島に埋葬されました。彼は特に悪いことをしたわけではないのに、その最期の言葉の通り祖国を失っていたようです。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Useless . . . useless . . .

役立たず……役立たず……

ジョン・ウィルクス・ブースの最期の言葉。ジョン・ウィルクス・ブース(1838年5月10日 – 1865年4月26日)は、アメリカの俳優(シェークスピア役者)。エイブラハム・リンカーンの暗殺者として有名。南北戦争の結果に不満を持つ、南部連合の支持者であった。ジョンは姉エイジアにリンカーンが共和制を廃止し、絶対君主制をもたらす可能性を危惧していると話しており、ブースは自らを「ブルータス」になぞらえていた。ブースは演劇一家に生まれた。父ジュニアス・ブース(en:Junius Brutus Booth)と母メアリー・アン・ホームズはイギリス出身で、1821年にアメリカへ移住した。1838年5月10日北軍に属していたメリーランド州ベル・エアの近くの農場でジョンは生まれた。家族には兄エドウィンと姉エイジアがいた。彼のミドルネームは、18世紀イギリスの急進主義者ジョン・ウィルクスに因んだもので、ブース家はウィルクスの遠縁にあたるとも言う。父ジュニアス・ブースは当時のアメリカ演劇界でよく知られた俳優(シェイクスピア役者)の一人だった。彼が1852年に死んだ時、詩人ウォルト・ホイットマンは「最も偉大で最も高貴なローマ人は逝った。"There went the greatest and by far the most noble Roman of them all."」 と綴った。兄エドウィン・ブース(Edwin Thomas Booth)はアメリカで初めて『ハムレット』などを脚本どおり演じたシェイクスピア役者であり、「演劇界の貴公子」と呼ばれた。暗殺前にリンカーンの息子ロバート・トッド・リンカーン を汽車の事故から救ったことがあり、妻メアリー・デブリンは娘エドウィナを生んで亡くなっていた。妻の死や弟の起こした暗殺事件後に2度引退したが、その後カムバックしている。ブースはジョージ・アツェロット、ルイス・パウエル、ジョン・サラット、マイケル・オローレン、エドマン・スパングラーなどの共犯者とともにリンカーン、ワシントンに帰還したグラント将軍の他多数の政府高官を同時に殺害する計画を立てた。しかし、グラント将軍夫妻は当日夕方に観劇を中止し不在であった。1865年4月14日フォード劇場で『われらのアメリカのいとこ』(Our American Cousin)(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)を観劇中のリンカーンに対し1.2mの至近距離からデリンジャーピストルで後頭部左耳後5cmを1発射撃した。ブースは羅: “Sic semper tyrannis!”(専制者は常にかくのごとし、バージニア州のモットー)と叫び(「これで南部の報復は果たされた」と叫んだともいわれる)、共に観劇していたヘンリー・ラスボーン少佐がとびかかるもナイフで腕を切って振り払い、バルコニーから舞台へと飛び降り、劇場の裏手に用意していた馬に乗って海軍基地の橋まで逃走した。この橋は夜9時以降通行禁止だったため、守衛のコップ軍曹に通行をとどめられたが、なんとかいいくるめて橋を渡った。このあと、南軍の協力者たちの家をわたりながら、ポトマック川を渡ることに成功した。しかし、深南部に逃げ込むという計画は果たせず、10日間の逃走と潜伏の後、4月 24日にリチャード・ギャレットという男の農場にたどりついたが、25日夜にタバコ小屋の中で寝ていたところをギャレットの家族によって閉じ込められ、追ってきた29名の騎兵隊に包囲された。騎兵隊はブースに投降を呼びかけたが、ブースは拒否。やがてデイヴィッド・ヘロルドのみ投降し、エヴァートン・コンガー大佐の指示によって小屋の周りに火がつけられた。その火によって照らされたブースを騎兵隊の一員ボストン・コーベット軍曹が後方から射撃したため、このときの首の傷が致命傷になって4月26日朝、ブースは命を落とした。ブースの死体と日記などの持ち物は汽船でワシントンに運ばれ、軍艦モントーク号の甲板に保管した後、死体はスタントン陸軍長官の命令で、4月27日の夜、秘密警察本部長ベイカー大佐、ベイカー中尉(大佐の甥ギャレットの農場に踏み込んだ警官)により秘密裏に埋葬された。このため自分がブースと主張する者が多くあらわれたという。1867年、ベイカー大佐の『特務機関の歴史』によれば以前の監獄の地下牢の床下に埋めたという。ブースの日記については、裁判でスタントン陸軍長官は発見されていないとしていたが、のちに発見されたと裁判に提出した。ただし日記には暗殺事件の期間24ページが破られていた。

ジョン・ウィルクス・ブースは有名な舞台俳優でしたが、現在ではエイブラハム・リンカーンを暗殺した人としての方が有名です。ブースは南部連盟の支持者で、強く奴隷制度の廃止に反対していました。リンカーンの暗殺は1865年4月14日に行われたのですが、南北戦争は1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落して実上終了していました。しかし、ブースは戦争はまだ終わらないと信じていたようです。ブースの最期は"Tell my mother I died for my country"(母に私は祖国のために死んだと伝えてくれ)と囁いた後、"Useless . . . useless . . ."と言って夜明け頃に死にました。ブースの最期は自業自得として、リンカーンは、アメリカが分裂するのを防いだ功績で、歴代大統領ランキングではしばしば最も偉大な大統領の一人に挙げられる人物なだけに、暗殺という最期は悲惨であると言えるでしょう。

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今日の辞世の句 

Ich sterbe nicht als Christ, sondern als Staatsverbrecher. Mein Werk als Chef der Orpo ist nicht anerkannt worden.

私はクリスチャンとしてではなく犯罪者として死にます。
秩序警察長官としての私の仕事は認められませんでした。

クルト・ダリューゲの最期の言葉。クルト・ダリューゲ(1897年9月15日‐1946年10月24日)は、ドイツの政治家。秩序警察(OrPo)初代長官、第2代ベーメン・メーレン保護領副総督。親衛隊(SS)の高官であり、最終階級は親衛隊上級大将および警察上級大将。ドイツ帝国プロイセン王国のシュレージエン州クロイツブルクに中級公務員パウル・ダリューゲとその妻ラウラの次男として誕生。1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党するが、ミュンヘン一揆の失敗で党が解散したため、一時離れた。その後、禁止された突撃隊(SA)の偽装組織「フロントバン」(Frontbann)に参加。1924年8月から1926年3月22日にかけては「フロントバン」の北方エリアの責任者となった。フライコール退役者や無職者、民族主義者のスポーツ選手などを集めてベルリンに最初の突撃隊(SA)部隊を創設させた。その数は1926年初めには500人に達し、ベルリンのナチ党の一大勢力となった。 1926年11月から1930年7月にかけて突撃隊集団「ベルリン=ブランデンブルク」(SA-Gruppen "Berlin-Brandenburg")の司令官をつとめた。また併行して1926年11月から1930年11月にかけてはナチス党ベルリン大管区指導者ヨゼフ・ゲッベルスの代理を務めている。ダリューゲは、ミュンヘンのナチ党中央に対しても過激な態度を取るベルリン突撃隊の最高指導者であったが、党首アドルフ・ヒトラーは味方につければ頼もしいとみてダリューゲを取りこんだ。ダリューゲは、ゲッベルスとともにベルリンの過激分子を監視する「ヒトラー派」となった。ダリューゲが突撃隊監視の役割を果たせるよう、ヒトラーは、1929年1月からベルリンの親衛隊(SS)部隊の指揮をダリューゲに任せた。さらにミュンヘンにいる親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから独立して指揮してよいことも認められた。しかしダリューゲは、1930年8月30日のヴァルター・シュテンネスらベルリン突撃隊幹部の反乱を防止できず、またゲッベルスの要請でダリューゲのベルリン親衛隊部隊が反乱の鎮圧に出動するも鎮圧に失敗している。やむなくゲッベルスはこれまで散々けなしてきた警察に介入を願い出ている。しかし1931年4月2日にシュテンネスが再度反乱を起こし、再びダリューゲの親衛隊部隊が投入された際には鎮圧に成功している。この際の功績でヒトラーはダリューゲに「SS隊員よ、忠誠こそ汝の名誉」という言葉を贈っている。この言葉は全親衛隊のモットー「忠誠こそわが名誉」の原型となった。1930年7月25日に正式に突撃隊を去り、親衛隊(SS)へ移籍した(隊員番号1,119)。ヒムラーから親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)の階級で迎えられた。親衛隊移籍後もダリューゲは引き続きベルリンの親衛隊をヒムラーから半ば独立して治めていた。1933年9月にはプロイセン州地方警察少将(のち中将)の階級を与えられた。これによりダリューゲはナポレオン以来のドイツ最年少の将軍となった。1934年6月30日から7月初めにかけて行われた「長いナイフの夜」の際にはゲーリング・ヒムラー・ハイドリヒらが主導する粛清に協力した。またエルンスト・レームら突撃隊幹部が粛清されたことで様々な突撃隊の部隊や地区の指揮官に空席が生じたため、次の指揮官が決まるまでの一時的な処置としてダリューゲには五つの突撃隊集団が任せられた。第二次世界大戦開戦後、1939年9月のヒトラーの命令や10月のヒムラーの命令によりダリューゲの秩序警察からも武装親衛隊に人員が出されることとなった。1940年2月から「第4SS警察装甲擲弾兵師団」として 16,000人の警察官が出征している。1942年4月に親衛隊最上位の親衛隊上級大将及び警察上級大将に昇進した。親衛隊上級大将の階級はダリューゲを含めて4人にしか送られていない(他にフランツ・クサーヴァー・シュワルツ、ヨーゼフ・ディートリヒ、パウル・ハウサー)。1942年6月にベーメン・メーレン保護領副総督をしていたハイドリヒが暗殺により死亡するとその後任に任じられた。ダリューゲは、ハイドリヒ暗殺の報復としてボヘミアでリディツェ村やレジャーキ村の虐殺をおこなった。1943年5月、ダリューゲは二度目の心筋梗塞で重体となり、7月31日には秩序警察長官、8月20日にはベーメン・メーレン保護領副総督の地位を降りることとなった(ただし秩序警察長官職には形式的にドイツの敗戦までとどまった。後任のアルフレート・ヴェンネンベルクは秩序警察長官事務取扱という立場であった)。その後、ダリューゲは敗戦まで療養していたが、1945年5月にリューベックにおいてイギリス軍により逮捕された。ニュルンベルクで拘禁されていたが、1946年9月、ダリューゲの身柄はチェコスロヴァキアへと移された。1946年10月9日からベーメン・メーレン保護領副総督としておこなった行為についてチェコスロヴァキアの法廷にかけられ、10月23日には死刑判決を受けた。翌日、即死刑執行に決まる。ダリューゲは、死刑執行直前に壊れたグラスで手首を切って自殺を図ったが、失敗している。パンクラーツ刑務所内において処刑された。

ダリューゲはベルリンの突撃隊指導者時代には喧嘩好きで知られる、非常に好戦的な人でした。そのため知能の低い人物として「ドゥミ・ドゥミ」(Dummi-Dummi)(ドゥミは「馬鹿」の意)と蔭口されていたそうです。また親衛隊内部では、ダリューゲが梅毒によって精神不安定になっているのではないかという噂が流れていたほどなので、同僚や部下からもあまり好かれてはいなかったようです。エルンスト・カルテンブルンナーはニュルンベルク裁判で拘禁されていた際に、ダリューゲは「大言壮語する癖があり、彼の部下の数は30万人だったのに部下が300万人いる、などと述べていた」と述べており、また「ダリューゲはうぬぼれ屋で野心的でもあったが、ハイドリヒよりは道徳をわきまえていた。ハイドリヒは目的のためには手段を選ばなかったが、ダリューゲはむしろ従順な役人という感じだった。」とも証言しています。ダリューゲが最期の言葉で述べている"Orpo"「オルポ(Orpo、 Ordnungspolizei)」とは秩序警察のことで、保安警察と並ぶナチスの体制維持の二本柱の一つでした。もちろん裁判でダリューゲの仕事が認められて免罪される訳もなく、彼は絞首刑に処せられた後プラハの無名墓地に葬られました。

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今日の辞世の句 

(ヨハネの福音書19章30節 十字架上のイエスの言葉より)
Consummatum est!

終わった!

ホセ・リサールの最期の言葉。ホセ・リサール(1861年6月19日 - 1896年12月30日)は、フィリピン独立運動の闘士にしてフィリピンの国民的英雄。医師、著作家、画家でもあった。志半ばにして捕らえられ、スペイン軍の手で銃殺されたが、その意志は人々に受け継がれ、フィリピン独立の英雄として今も愛され続ける。8人の高祖父の内、1人は日系フィリピン人とされている。1949年から1973年にかけて1ペソまたは2ペソ紙幣に肖像が使用されていた。1861年、ラグナ州のカランバで父フランシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に生まれた。彼の家系はメスティーソといわれる中国とフィリピンの混血の一族であった。メルカード家は中国・福建省の晋江から17 世紀に渡りフィリピンの先住の女性と結婚した商人の末裔であり、元来の姓は「柯」といった。また母方のアロンソ家はスペイン人と先住民の混血の家系で、ホセの曽祖父は、日本からの移民と現地女性の末裔にあたる女性と結婚している。初等教育を終えるとマニラにあるアテネオ学院(現在のアテネオ・デ・マニラ大学 w:Ateneo de Manila University)に学び、1877年に学士号を取得した。さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、当時のフィリピンの最高学府サント・トマス大学(w:University of Santo Tomas)で哲学を学んだ。その後、母が失明の危機に陥ると、サント・トマス大学で医学を学び始めた。しかし同大学を運営するドミニコ会員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った。リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインのマドリッドに留学した。マドリード・コンプルテンセ大学で医学の勉強を続け、医師免許を取得すると、さらにハイデルベルク大学とパリ大学で医学の研鑽を積んだ。ちなみにリサールは語学の天才であり、アラビア語、スペイン語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、マレー語、ポルトガル語、ロシア語、タガログ語やフィリピンの諸言語を自在に操り、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、日本語、サンスクリット語を理解したといわれている。ホセ・リサールは『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』]と『エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)』[スペイン語で『反逆者』]という2つの著作で有名である。両方ともスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの様子が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。バルセロナでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、雑誌『ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)』[スペイン語で『連帯』]を創刊した。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。
フィリピンはスペインの一地域であること。
スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと。
スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと。
言論の自由が認められるべきこと。
フィリピン人に法律的平等が与えられること。
もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。1892年、マニラに戻ったリサールを待っていたのは辺地への追放であった。容疑は「ラ・リガ・フィリピナ(La Liga Filipina, フィリピン連盟)」という組織による破壊工作。ミンダナオ島のダピタン(Dapitan、現在のサンボアンガ・デル・ノルテ州にある)へ追放されたリサールは同地で病院と学校を作って住民の啓蒙に努めた。1896年、秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕され、マニラに送致され裁判にかけられ、暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告された。リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出て、キューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に「ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』)」と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年12月30日、マニラで銃殺された。リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す地は現在、リサール公園として整備されており、衛兵に24時間守られている記念碑があり、緑も多くマニラ市民の憩いの場所になっている。また、リサールは1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。

ホセ・リサールはアンドレス・ボニファシオと並ぶ、フィリピン独立運動の闘士にして大英雄です。独立運動家や革命家という人たちはけっこう悪どい人も多いのですが、リサールは最後の最後まで立派であり、真の愛国者でありました。しかも博学多才にして医師免許を持ち、22もの言語に精通していたというのですから驚きです。彼は暴力革命を通じてではなく、制度改革を通じてフィリピンの自治を平穏に達成しようとした穏健派でしたが、スペインは彼を危険人物として最後は処刑してしまいました。リサールはラ・リガ・フィリピナ(La Liga Filipina;フィリピン同盟)という組織を作り、平和的にフィリピンの自治を求めましたが、当局は同組織を脅威と受け止め、1892年7月6日の夜、同組織創立のたった四日後にリサールは逮捕されました。ラ・リガ・フィリピナの一員でもあったアンドレス・ボニファシオによって創設された秘密組織がカティプナンです。カティプナンは武力闘争路線のもとで1896年にフィリピン独立革命を開始しました。リサール自身は武力闘争を志向したことはありませんでしたが、カティプナンのメンバーたちから独立運動の思想的指導者として敬愛されていたため、スペインの意図に反して、リサールの死は独立運動を活発化させることになりました。カティプネロスと呼ばれたメンバーたちは「ホセ・リサール万歳!」と叫んで戦いに身を投じました。上記の通りリサールは日本に滞在したこともあるのですが、この時自由民権運動家である末広鉄腸と親交を結んでいます。末広鉄腸はリサールとの同行記を『唖之旅行』にまとめ、1891年にはリサールをモデルとするフィリピン人「多加山峻(たかやまたかし)」を主人公にフィリピン独立革命を描いたアジア主義的な政治小説『南洋之大波瀾』を発表しています。リサールは処刑される時に、ヨハネの福音書のイエス十字架上で語ったとされる言葉を述べて亡くなりました。恐らくかれは自分の役割と運命が、殉教者のようなものであると考えていたのでしょう。最後にリサールの辞世の詩はである「ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』)を紹介します。残念ながらスペイン語は分からないので、英語からの重訳です。

"Mi Último Adiós"

¡Adiós, Patria adorada, región del sol querida,
Perla del mar de oriente, nuestro perdido Edén!
A darte voy alegre la triste mustia vida,
Y fuera más brillante, más fresca, más florida,
También por ti la diera, la diera por tu bien.

En campos de batalla, luchando con delirio,
Otros te dan sus vidas sin dudas, sin pesar;
El sitio nada importa, ciprés, laurel o lirio,
Cadalso o campo abierto, combate o cruel martirio,
Lo mismo es si lo piden la patria y el hogar.

Yo muero cuando veo que el cielo se colora
Y al fin anuncia el día tras lóbrego capuz;
si grana necesitas para teñir tu aurora,
Vierte la sangre mía, derrámala en buen hora
Y dórela un reflejo de su naciente luz.

Mis sueños cuando apenas muchacho adolescente,
Mis sueños cuando joven ya lleno de vigor,
Fueron el verte un día, joya del mar de oriente,
Secos los negros ojos, alta la tersa frente,
Sin ceño, sin arrugas, sin manchas de rubor

Ensueño de mi vida, mi ardiente vivo anhelo,
¡Salud te grita el alma que pronto va a partir!
¡Salud! Ah, que es hermoso caer por darte vuelo,
Morir por darte vida, morir bajo tu cielo,
Y en tu encantada tierra la eternidad dormir.

Si sobre mi sepulcro vieres brotar un día
Entre la espesa yerba sencilla, humilde flor,
Acércala a tus labios y besa al alma mía,
Y sienta yo en mi frente bajo la tumba fría,
De tu ternura el soplo, de tu hálito el calor.

Deja a la luna verme con luz tranquila y suave,
Deja que el alba envíe su resplandor fugaz,
Deja gemir al viento con su murmullo grave,
Y si desciende y posa sobre mi cruz un ave,
Deja que el ave entone su cántico de paz.

Deja que el sol, ardiendo, las lluvias evapore
Y al cielo tornen puras, con mi clamor en pos;
Deja que un ser amigo mi fin temprano llore
Y en las serenas tardes cuando por mí alguien ore,
¡Ora también, oh Patria, por mi descanso a Dios!

Ora por todos cuantos murieron sin ventura,
Por cuantos padecieron tormentos sin igual,
Por nuestras pobres madres que gimen su amargura;
Por huérfanos y viudas, por presos en tortura
Y ora por ti que veas tu redención final.

Y cuando en noche oscura se envuelva el cementerio
Y solos sólo muertos queden velando allí,
No turbes su reposo, no turbes el misterio,
Tal vez acordes oigas de cítara o salterio,
Soy yo, querida Patria, yo que te canto a ti.

Y cuando ya mi tumba de todos olvidada
No tenga cruz ni piedra que marquen su lugar,
Deja que la are el hombre, la esparza con la azada,
Y mis cenizas, antes que vuelvan a la nada,
El polvo de tu alfombra que vayan a formar.

Entonces nada importa me pongas en olvido.
Tu atmósfera, tu espacio, tus valles cruzaré.
Vibrante y limpia nota seré para tu oído,
Aroma, luz, colores, rumor, canto, gemido,
Constante repitiendo la esencia de mi fe.

Mi patria idolatrada, dolor de mis dolores,
Querida Filipinas, oye el postrer adiós.
Ahí te dejo todo, mis padres, mis amores.
Voy donde no hay esclavos, verdugos ni opresores,
Donde la fe no mata, donde el que reina es Dios.

Adiós, padres y hermanos, trozos del alma mía,
Amigos de la infancia en el perdido hogar,
Dad gracias que descanso del fatigoso día;
Adiós, dulce extranjera, mi amiga, mi alegría,
Adiós, queridos seres, morir es descansar.

最後の別れ

さらば我が愛する祖国よ。太陽に抱かれた場所よ
東の海の真珠よ。失われた我らのエデンの園よ
喜びをもって汝に我が生命と悲しみと抑圧を捧げる
それはさらに輝き新鮮で、最高であったとしても
私は今でも汝の幸福のためにそれを捧げよう

激情に駆られる戦いの場において
他の者たちは汝に苦痛と躊躇いのない生命を捧げる
場所は問題ではない、糸杉、月桂樹、虹彩
断頭台、空き地、紛争や悲惨な殉教
祖国と同胞が求めるなら全ては同じなのだ

空が朱に染まるのを見る時私は死ぬ
夜の暗い闇の後で私はこう言おう
もし朝の光を染めるために色が必要ならば
我が血潮を注ぎ正しい瞬間に散らして
君の旭で金色に輝かしてくれ!

やっと青年になった時の私の夢
すでに活力溢れる若者となった時の私の夢
いつの日か、東の海の宝石よ
黒い瞳は渇き、滑らかな額は高く平らに
顔をしかめることもしわも恥の汚れもない

我が生涯の夢、我が熱烈な燃え立つ希望
万歳! 汝への魂の叫びはもうすぐ出発する
万歳! 汝の願いを満たして倒れることは何と甘美であることか
終の空の元にて汝に命を捧げる
そして神秘の大地で永遠の眠りにつこう!

いつの日か、私の墓に風にそよぐ
草むらの中にただひっそりと咲く花を見つけたら
汝の唇を寄せて、我が魂に口づけしてくれ
そうすれば私は冷たい墓の下で額に感じるのだ
汝の優しさの香りのする暖かな吐息を

柔らかで温和な光をたたえた月に私を見つけてもらおう
輝く光にはかない光を映してもらおう
風は息をつぐために低い声で呟いて
一羽の鳥が舞い降りて、私の十字架にとまったら
鳥には平和の歌を歌ってもらおう

燃え上がる太陽には雨粒を消し去ってもらい
そして再び澄み渡った空に我が喧噪で
友達に私の早すぎる死に涙を流してもらおう
そして静かな午後に私のために祈る者があれば
そして、おお我が祖国も祈ってくれるのならば、私は神の中で安らかに眠ろう

希望もなく死んでいった者たちのために祈ってくれ
比類なき苦痛を受けた全ての者たちのために
苦しみの叫び声をあげた全ての哀れな母親たちのために
苦痛を受けた孤児や囚人や未亡人のために
そして汝自身の救済のために

そして夜のとばりが墓場を包む時
ただ残された死者だけが見守る時に
その静寂と神秘を乱さないでもらいたい
その竪琴の音が聞こえたら
それは私だ、愛する祖国よ、私が歌っているのだ

そして私の墓が全く思い出される事のなくなった時
その場所を示す十字架や墓石がなくなったら
男に耕させて、すきでそれを散らしてくれ
私の灰は無へと帰り
汝の大地を敷きつめる塵となろう

そうなったら私の事など忘れてくれて構わない
汝の大気、汝の空、汝の谷間を私は吹き抜けよう
汝の耳に響く澄んだ音色と私はなろう
香り、光、色、さやめき、ささやき、歌、低く唸る
私が信じ続けた事の本質を絶えず繰り返しながら

我が親愛なる祖国よ、我が最大の望みよ
愛するフィリピンよ、私の最期の別れを聞いて欲しい
私は両親も愛する人たちも残して
私は奴隷も暴君も囚人もいない所へと行く
信仰が人を殺すことのない、神のみが統治する所へ

さらば両親、兄弟、わが愛する人たちよ
苦しんでいる幼い頃からの友人たちよ
私を疲弊させた日々を離れ今休めることに感謝します
さらば優しい見知らぬ国の人たち、我が道を照らす友人たちよ
さらば我が愛する全ての人たちよ、死は安らぎなのだ

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Milan: What a beautiful place to die.

ミラノ、死ぬには美しいところだ。

ジョン・キャラダインの最期の言葉。ジョン・キャラダイン(1906年2月5日-1988年11月27日)はアメリカ合衆国の俳優。ラストネームは、日本では「キャラダイン」として広く知られているが、米国では「キャラディーン」に近い発音で呼ばれる。ニューヨーク出身。父親はAP通信の特派員、母親は医師であった。シェイクスピア劇に魅了され、デザイナーから俳優へと進路変更。1930年にピーター・リッチモンド(Peter Richmond)の名でデビュー。1933年からは「ジョン・キャラダイン」と名前を改め、多くの映画作品に出演。特に『駅馬車』、『怒りの葡萄』や『リバティ・バランスを射った男』など、ジョン・フォード作品によって脚光を浴びる。1940年代には自身のシェイクスピア劇団でツアーを行うなど、舞台でも活躍した。生涯で4度結婚している。5人の息子のうち4人 - ブルース・キャラダイン、デヴィッド・キャラダイン、キース・キャラダイン、ロバート・キャラダインは俳優となった。1988年11月27日、イタリアミラノで死去した。82歳であった。

ジョン・キャラダインはジョン・フォード監督の映画に出演したことで知られる俳優です。キャラダインは生涯で4度結婚しましたが、彼の息子のうちの4人と孫のうちの4人が俳優になりました。かれはウエスタン映画で特に人気がありますが、2003年はオクラホマにある西部遺産博物館の殿堂入りを果たしました。晩年は関節炎に苦しみながら仕事を続け、最期は1988年11月27日に、ミラノの病院でで多臓器障害で死にました。彼は死ぬ数時間前に、険しい328もの階段のあるゴシック式大聖堂ドゥオーモに登ったそうです。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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