FC2ブログ
01 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.» 03

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

今日の辞世の句 

話せば分かる

犬養毅の最期の言葉。犬養毅は日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。1876年(明治9年)に上京して慶應義塾に入学し、一時共慣義塾、二松學舍(現二松學舍大学)にも通い、1880年(明治13年)慶應義塾大学卒業前に栗本鋤雲に誘われて記者となる。統計院権少書記官をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。1898年 (明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、真の盟友である右翼の巨頭、頭山満と犬養は世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。犬養は第2次山本内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。さらに政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。党内の融和派が犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。1930年(昭和6年)、ロンドン海軍軍縮条約に 統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。これは軍部に統帥権を武器として使えることを教え、自らの死につながった。同年に勃発した満州事変を巡って第2次若槻内閣閣内不統一に陥り、総辞職した。この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」 のルールが確立されていた。その上、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野 党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。犬養は組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これによりまず国民の支 持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開と取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は徐々に回復の方向に向かった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようと した。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていた。陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えた。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。犬養はその考えを娘婿の外相・芳沢謙吉)と森に喋ったため、森を通じて陸軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激した。何故森を書記官長に据えたかと聞かれたとき、犬養は「手放しておくと危険だから、手近に置いた」と答えたという。1932年(昭和7 年)5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に 鼻の治療を受けていた。体にはなんの異常もなく、犬養は医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃわい」と言っている。夕方5 時半ごろ、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルをふりかざして乱入してきた。犬養は少しも慌てず、将校たちを応接室に案内した。しばらくして応接室から「撃つぞ」「撃て」という叫びが聞こえ、ピストルの音が響いた。女中たちが駆けつけると、犬養は鼻の穴から血を流しながら も意識ははっきりしており、「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と言っている。最期まで言論で説得しようとする犬養らしい姿だった。この ときしゃべったとされる「話せば分かる」という文句は非常に有名。10時ごろ大量の吐血をしたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」 と逆に励ますほど元気だった。しかしその後は次第に衰弱し、午後11時26分に絶命した。享年77。

上記の通りこれは厳密に言うと、最期の言葉ではありません。しかし、あまりに有名な言葉であり、死を覚悟しての言葉なのでここで取り上げました。犬養毅は日本の政治家では珍しい、名演説家として知られる人です。東京朝日新聞の記者だった中野正剛は「咢堂(尾崎行雄)が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂(犬養毅)が演説は霜夜に松籟を聞く」と評しました。犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったそうです。高校の日本史では犬養毅は軍の暴走により命を落とした悲劇の宰相として教えられますが、盟友であり後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いた頭山満やアジア主義については教えられていません。アジア主義とは欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本では「興亜論」と呼ばれていました。その代表的人物が犬養毅と玄洋社の総帥で右翼の巨頭であった頭山満です。アジア主義は後に悪名高い「大東亜共栄圏」構想へとつながっていったために、日本近代史において完全に無視されるという憂き目に会いました。犬養毅は宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあり、犬養と頭山はこれらの人たちに多大な影響を与えました。犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、また犬養は中華民国の要人とりわけ孫文と深い親交があったため、満州地方への進軍に反対でした。そのため大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う人たちに敵視され、五・一五事件が起こりました。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となりました。この事件により満州事変以後の中国戦線において、参謀本部に事変不拡大の意志を持つ石原莞爾がいるにもかかわらず、彼を後押しをすることが出来なくなり、日本は陸軍統制派による軍閥政治への道を歩み出していくことになりました。事件の前日にイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日しており、事件当日に犬養と面会する予定でしたが、チャップリンは思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れました。犬養の葬儀は総理官邸の大ホールでしめやかにとり行われましたが、喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す。」との弔電に驚く参列者も多かったそうです。
スポンサーサイト

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。