FC2ブログ
02 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Codeine…bourbon…

コデイン……バーボン……

タルラー・バンクヘッドの最期の言葉。タルラー・バンクヘッド(1902年1月31日 – 1968年12月12日)は、アメリカ合衆国の女優。トークショウの俳優だけでなく美食家でもあった。アラバマ州ハンツビル生まれ。父は政治家の ウィリアム・ブロックマン・バンクヘッドで、母はアデレード・ユージニア・バンクヘッド(旧姓:Sledge) 、タルラーという名は父方の祖母の名から取られた。 タルラーの母ユージニアは敗血症のため、彼女が生まれてから数日後の1902年2月23日に亡くなった。 タルラーは自身をぽっちゃりした『とても家庭的な子』で、遺伝性の気管支炎のため声がしわがれがちだとした。 しかし、人々は彼女を目立ちたがり屋な子だと評した。 バンクヘッド家は民主党の有力なメンバーで、彼女の父親は1936年から1940年までアメリカ合衆国下院議長だった。おじは w:John H. Bankhead II上院議員で、祖父は w:John H. Bankhead上院議員。彼女自身も民主党員だが、家族よりリベラル色が強かった。バンクヘッド家はタルラーからトラブルを避けるために、彼女をさまざまな学校へ送ったことがあり、カトリック系女子修道院に1年間在籍していたこともあった。(ただしウィリアムは メソジストで アデレード・ユージニアは 米国聖公会の信者だった)母親が死んでから、タルラーは黒人女性の乳母によって育てられた。後、ホワイトハウスに招待された時、タルラーは「母親同伴」ということで、この黒人女性を伴ってホワイトハウスに入った。これが、史上はじめて黒人がホワイトハウスに入った瞬間であった。15歳の時に雑誌の美人コンテストに入賞し、ニューヨークに移る。タルーラはニューヨーク市の St. Luke's Hospital で、インフルエンザによる肺炎にかかり、それが肺気腫へと悪化し、1968年12月12日68歳で亡くなった。遺体はメリーランド州チェスタータウンの Saint Paul's Churchyardに埋葬された。 死後、映画産業への貢献への感謝が認められ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム6141 Hollywood Blvdにスターが上がった。

バンクヘッドは映画と舞台で活躍した女優で、深い声と派手な性格で知られていました。彼女が出演した映画で一番有名なのは、アルフレッド・ヒッチコック監督『救命艇』でのコニー役でしょうか。最期の言葉で述べられている「コデイン」とは、メチルモルヒネのことで一般的には鎮咳薬として風邪薬に配合されています。彼女は不眠症でもあり、大量のお酒と睡眠薬を使用しており、あまり健康的な生活はしていなかったようです。メリーランド州のセントポールズ監督教会で葬儀が行われ、セントポール教会墓地に埋葬されました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

Mama.

アグネス・ムーアヘッドの最期の言葉。アグネス・ムーアヘッド(1900年12月6日 - 1974年4月30日)は、アメリカ合衆国の女優。マサチューセッツ州クリントン出身。イングランド人、アイルランド人、スコットランド人、ウェールズ人の血を引いている。1944年公開の『パーキントン夫人』と1964年公開の『ふるえて眠れ』でゴールデングローブ賞 助演女優賞を、1967年にはエミー賞を受賞。第21回アカデミー賞の司会を行った。TVドラマ『奥さまは魔女』のサマンサの母エンドラ役で有名である。

アグネス・ムーアヘッドが出演した映画で一番有名なのは、『市民ケーン』かもしれませんが、日本人にとってはTVドラマ『奥さまは魔女』を知っている人の方が多いかもしれません。『奥さまは魔女』は日本でも大ヒットし、1980年代まで再放送が繰り返されました。このドラマは後に魔法少女ものとして、ドラマ『コメットさん』やアニメ『魔法使いサリー』の企画の元になりました。彼女は当初『奥さまは魔女』がヒットするとは思っていなかったそうですが、1964年から1972年までの間に全254話が放送されるという長寿番組になりました。1974年にニューヨークタイムズのインタビューで次のように述べています。 "I've been in movies and played theater from coast to coast, so I was quite well known before Bewitched , and I don't particularly want to be identified as a witch."(私は海岸から海岸へと映画に出演し劇場に出演してまわり、以前は『奥様は魔女』で有名になりましたが、特に魔女だと思われたいわけではありません。 )彼女の最期は、1974年4月30日にミネソタ州ロチェスターで子宮癌で亡くなりました。最期の言葉は母親に向けたものでしたが、実は彼女の母親メアリー·M·ムーアヘッドは大変長生きをし、娘のアグネスがなくなった16年後に1990年に106歳で亡くなりました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

Oh, my country! How I love my country!

おお、わが祖国よ、何と愛おしいわが祖国よ!

ウィリアム・ピット (小ピット)の最期の言葉。ウィリアム・ピット(1759年5月28日 - 1806年1月23日)は、イギリスの政治家、首相(在任:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。1760年代に首相を務めたチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)とヘスター・グレンヴィルの次男。チャタム伯ジョン・ピットは兄で、大ピットと同じく1760年代に首相を務めたジョージ・グレンヴィルは母方の伯父、後任の首相ウィリアム・グレンヴィルは従兄に当たる。同名の父と並んで小ピット(Pitt the Younger)の通称で知られる。 幼いころから病弱であったが、ラテン語やギリシア語に通じるなど才能に恵まれていたため、1773年、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した。それ以後、この最年少入学記録を破った者はいない(2010年に同じ14歳でケンブリッジ大学に入学するものが現れるまでの237年間、ピットの記録に並ぶものすらいなかった)大学では政治哲学、古典、数学、化学、歴史などを勉強した。しかし、在学中も健康に恵まれなかったため、貴族の特権を行使して試験なしで1776年に卒業を果たした。1780年、ケンブリッジ大学が保有していた下院の議席に出馬するが落選。今度は学閥の力とコネを活用しアップルビーの腐敗選挙区の補欠選挙で当選、1781年に下院議員となる(後にケンブリッジ大学に鞍替え)。アメリカ独立戦争による政治の混乱と国王ジョージ3世と大衆の支持に乗じて、1783年に24歳の若さで首相に就任する。この記録はもちろん史上最年少である。翌年総選挙に圧倒的に勝利して、17年もの長期政権の基礎を築いた。1793年までは、自由主義路線に沿って諸改革に取り組む。
○国家財政の再建
○アメリカ喪失後の新しい帝国の建設(カナダの行政改革と東インド会社の再構築)
○フランスとの間に自由貿易的な通商条約の締結など。
○1786年にフランスと通商条約(イーデン条約)を締結したが、これにより産業革命を経験した安価で良質なイギリス商品がフランスに入り込んでフランスの国内産業に打撃をあたえ、フランス革命を引き起こした社会的混乱を招く原因になった。
1788年には、ヨーロッパでの孤立外交からの脱却とフランスに対抗するためにプロイセンとオランダとの三国同盟を締結。1801年、アイルランド併合を行うと共にカトリック教徒解放を考えるが、国王ジョージ3世と意見が合わず辞任。1789年、フランス革命が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、1793年から3回に渡って対仏大同盟を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派の彼は1804年に再び組閣した。1805年に第三次対仏大同盟を組織するも、同年のアウステルリッツの戦いの敗北に衝撃を受け、翌年1月に病没。

小ピットことウィリアム・ピットは、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学し、24歳の若さで首相の地位に上り詰めるという、早熟の天才でした。彼は間違いなく大英帝国の栄光の歴史における、最も偉大な首相の一人です。ピットはイギリスの保守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献して、イギリスの二大政党政治の土台を築きました。父親の大ピットはジョージ3世と仲が悪く、国王が側近を中心とした専制的な政治を行った結果、アメリカの独立という大きな失敗を招きました。父の死後5年後、ピットがアメリカ独立後の混乱した政治の後処理を始め、小ピットが政権についてからイギリスは再び「君臨すれども統治せず」という責任内閣制が復活しました。彼の最も重要な業績のうちの一つは、アメリカ独立戦争後の経済回復です。自由貿易的な通商条約は、現在の自由貿易協定に通じています。小ピットは幼いころから病弱で、慢性の健康障害に対処するためにワインを飲んでいましたが、これによって痛風が悪化し彼は長い間苦しみました。1806年1月23日に小ピット彼の胃か十二指腸の潰瘍で亡くなりました。彼は未婚で子どもがおらず、その負債は総計£40,000にものぼりましたが、議会がそれを支払いました。彼は国葬によりウェストミンスター寺院に埋葬されました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

Oculi mei te solum desiderant. Vale.

私の目はあなただけを望みます。さようなら。

キャサリン・オブ・アラゴンの最期の言葉。キャサリン・オブ・アラゴン(1487年12月16日 - 1536年1月7日)は、イングランド王ヘンリー8世の1人目の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。スペイン名はカタリーナ・デ・アラゴン(Catalina de Aragón)。しばしばカタリナとも表記される。現代英語の表記は頭文字がCになることが多いが、当時はKと表記された。ただし、Katherine, Katharine, Katharinaと研究者によって表記が異なる。また、アントニア・フレイザーはヘンリー8世の他の王妃(キャサリン・ハワード、キャサリン・パー)との区別のため、意図的にCを採用している。キャサリンはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世との間の末子としてアルカラ・デ・エナーレスで生まれた。イングランドとの取り決めで1501年、最初にヘンリー7世の長男でヘンリー8世の兄のアーサー王太子に嫁いだが、その数ヶ月後に花婿は急逝した。巨額の持参金の返却を惜しんだヘンリー7世は、次男ヘンリーとの婚約を持ちかけた。しかし1503年、王妃エリザベスが死去すると、彼女を後妻に要求した。さすがに厚顔無恥なこの申し出にスペイン側が硬化し、王はこの要求を取り下げた。再度王太子ヘンリーとの婚約が双方の合意で成立したが、それは旧約聖書「レビ記」にある「人もし兄弟の妻を娶れば汚らわしきことなり」の一節に抵触する恐れがあった。なお、カスティーリャ・アラゴン両王家はランカスター家、ヨーク家の祖とそれぞれ姻戚関係にあったことから、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった。そのため時の教皇ユリウス2世は教会法規により、特別な免除を与えて許可した。1509年、ヘンリー7世の死により王位を継承したヘンリー8世と再婚した。1513年、フランス遠征中の夫に摂政を命じられていたキャサリンは、突然侵攻してきたスコットランド軍に対し、第2代ノーフォーク公トマス・ハワードに反撃を命じ、ノーフォーク公はフロッドンの戦いで大勝した。また、1517年5月1日に起きたロンドンの暴動(魔のメイデイ事件)では、ロンドンに滞在中のスペイン人が多数殺害されたにもかかわらず、キャサリンは暴動の主犯者たちを恩赦した。ヘンリー8世とキャサリンとは最初は仲睦まじかった。しかし、キャサリンは度重なる流産と死産に見舞われ、1516年にようやく無事出産したのは女児メアリーであったため、ヘンリーの愛情は冷えてしまう。ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、年をとって次第に出産が難しくなるキャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになった。男の跡継ぎが一番大事にされていた時代だったこともあるが、それまでイングランドが女王の下で安泰だったことがなかったためでもある。テューダー朝の歴史はまだ浅く、薔薇戦争の惨禍はまだ記憶に生々しく残っていた時代であり、王家の安定的な継続はヘンリー8世個人の私欲にとどまらない切実な問題であった。1533年、キャサリンはヘンリー8世から結婚の無効を突きつけられ、王妃の座を追われた。その椅子に座ったのはかつてキャサリンの侍女であったアン・ブーリンである。キャサリンは離婚を死ぬまで認めなかったが、ヘンリー8世からは王太子アーサーの未亡人としてのみ遇され、庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられた。監禁に近い生活であったが、近辺の住民と努めて接触し、王妃時代同様評判が良く、住民たちは彼女をプリンセス(王太子妃)ではなくクイーン(王妃)と呼んだ。この頃の「公式」なキャサリンの呼び名はPrincess Dowager(王太子未亡人)である。なお、この離婚のため教皇クレメンス7世と対立したヘンリーは、1534年に国王至上法を発布して自らをイングランド国教会の長とするとともに、カトリック教会から離脱した。1536年にキンボルトン城(Kimbolton Castle)で没した際、最後の書類に「イングランド王妃キャサリン」の署名を残した。娘メアリーにはスペインから持参した持ち物のうち、わずかに残った毛皮1枚、金の鎖、十字架のペンダントを残した。葬儀にはメアリーの出席が禁じられ、目立った行事も厳禁とされた。しかし、キャサリンを慕う住民たちはそれを無視して進んで葬列に加わり、行列は500人にも及び、キンボルトンから40キロ北のピーターバラ修道院まで代わる代わる棺を担いだという。ヘンリー8世の正嫡の男子で唯一生存したエドワード6世が15歳で病死すると、キャサリンの生んだ娘メアリーが王位に就いた。「ブラッディ・メアリー」(血塗れのメアリー)と呼ばれたメアリー1世である。

キャサリン・オブ・アラゴンはイングランドの歴史において、かなり不当に評価されてきた人物です。「偉大なるエリザベス1世の生母と対立した女性」または「ブラッディ・メアリー女王の母」という理由から、意図的に歴史を改竄し、キャサリンを誹謗する著作もあります。イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害を行った、娘のメアリー1世への批判を彼女までが受けるのは不当でしょう。確かに男の子供ができなかったためにヘンリー8世はキャサリンと離婚し、そのことが元になって国王ヘンリーは1534年に国王至上法を発布して、自らをイングランド国教会の長とするとともに、カトリック教会から離脱しました。このことが後のメアリー1世による弾圧へのきっかけとなったのですが、それを彼女のせいにするのは酷でしょう。実際のキャサリンは貧しい人たちを救済し、ヒューマニストとして有名なのエラスムスやトマス·モアを庇護するなど、とても優れた人でした。現在では、キャサリンの埋葬されたピーターバラ大聖堂にある墓所に「Katheren Queen of England」という墓碑銘が掲げられており、今日もなおキャサリンに対して抱かれるイングランド国民の敬意をうかがい知ることができます。キャサリンは毒殺されたという噂がありますが、最近の研究では心臓の癌で死亡したとされています。上記の最期の言葉は、ヘンリー八世へあてた手紙に記されています。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0   

今日の辞世の句 

嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死

ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死

金玉均の墓碑銘の一説。金玉均(1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、백온)、号に古愚(コウ、고우)。本貫は安東(新安東金氏)。忠清南道公州に生まれる。1872年に科挙文科に合格。朴珪寿、呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使・竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には“岩田秋作”と名乗っていた。日本では東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。福澤諭吉は、上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺住職寺田福寿に依頼し、寺田はただちに福澤の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを福澤邸に招いて営んだ。遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。甲斐軍治によっても遺髪、衣服の一部が日本に持ち込まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。現在、同じ場所に甲斐軍治の墓もある。さらに、犬養毅、頭山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。

金玉均は親日開化派の主導者で、閔氏政権打倒のクーデター甲申政変を起こした人です。当時の李氏朝鮮は、壬午事変(1882年(明治15年))で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していました。このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉や後藤象二郎らの協力を得て、日本と同じく君主を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立をさせることを国王高宗に承諾させ、クーデターを起こしました。しかし袁世凱率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退すると、結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立しました。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命し、残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑されました。その後日本と清国の間に1885(明治18)年4月天津条約を結ばれ、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めました。その10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争の火蓋が切られるこになります。福澤諭吉らはこの事件により朝鮮・中国に失望し、福澤が主宰する『時事新報』は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の社説に「朝鮮独立党の処刑」を掲載した。さらに、天津条約締結の前月の3月16日に有名な社説「脱亜論」を掲載し、8月13日には社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」を掲載しました。金玉均の最期は洪鐘宇により上海に誘引され、東和洋行ホテルで暗殺されました。洪鐘宇は清国警察の尋問に対して、「自分は朝鮮王の勅命で行動しており、金玉均は親日派として、逆賊であり清国の敵でもある」と述べたそうです。その後洪鐘宇は朝鮮政府の交渉により釈放され、帰国すると高宗から激賞され、守旧派の一員として要職に就き、開化派を弾圧しました。青山霊園の外人墓地にある金玉均の墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔(イ・ジュンヨン)の書で上記の文章が書かれています。書かれている通り金玉均は、非常に有能な人物であり人格的にも優れていたようで、多くの日本人が彼に協力しましたが、その結果は芳しいものではありませんでした。彼は改革に失敗して暗殺されただけでなく、朝鮮独立後は親日派として祖国から半ば売国奴とみなされるという憂き目に会っています。この辺りの悲哀は、憂国の士としての悲劇の典型と言えるでしょう。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0