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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

I'm going to heaven.

天国へ行くよ。

ボ・ディドリーの最期の言葉。ボ・ディドリー(本名:エラス・O・B・マクダニエル, 1928年12月30日 - 2008年6月2日)は、アメリカのロックンロール・シンガー、ギタリスト。ボ・ディドリー・ビートと称される強力なリズムを基調とした彼の独特のサウンドは、ブルースとロックンロールの掛け橋となり、チャック・ベリー、リトル・リチャードらとともにロックンロールの生みの親のひとりとして知られるようになった。ローリング・ストーンズやU2など、数多くのロック・ミュージシャンが彼から影響を受けている。1928年、ミシシッピ州マコムに生まれる。出生時の名前はエラス・オサ・ベイツであったが、生後まもなく、実母のいとこガシー・マクダニエルに養子に出された。このため、義理の母親の姓を名乗るようになる。1930年代半ばに、家族とともにイリノイ州シカゴに移住。最初に手にした楽器はバイオリンであった。12歳のときに姉のルシールからギターをプレゼントされ、ギターも練習するようになった。 彼の芸名となった「ボ・ディドリー」はこの頃生まれたものである。ジョン・リー・フッカーを耳にして感銘を受けたディドリーは、バイオリンを止めてギターに専念するようになっていった。10代の頃からギターを手に路上で演奏活動を展開し、1950年代に入ると、マラカスのジェローム・グリーン、ハーモニカのビリー・ボーイ・アーノルドらとプレイするようになる。そして1955年、チェス・レコード傘下のチェッカーと契約し、デビュー・シングル "Bo Diddley" b/w "I'm A Man" をリリースした。これがR&Bチャートのトップに昇りつめる大ヒットを記録し、一躍スターの地位を獲得する。同年、黒人アーティストとしては初めて『エド・サリヴァン・ショー』への出演を果たすが、番組側から指定された曲の演奏を断り、自らのレパートリーを演奏したことから、以後出演禁止となってしまった。以後、デビュー曲を越えるヒットは生まれなかったものの、"Crackin Up"(1959年, R&Bチャート14位)、"Road Runner"(1960年, 同20位)、"You Can't Judge A Book By The Cover"(1962年, 同21位)などのヒットを飛ばした。1967年の"Ooh Baby"(R&Bチャート17位)以降はヒットこそなかったものの、演奏活動を続けた。1987年にはロックの殿堂入りを果たした。来日は、1988年のロン・ウッドとのツアー、1992年のジャパン・ブルース・カーニバル、1997年の単独ツアー、2001年のブルーノート東京公演がある。1998年には映画『ブルース・ブラザース2000』に出演している。2003年8月号のローリング・ストーン誌上において、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」の第37位に選ばれた。80歳を目前に控えても精力的にツアーをこなしていたが、2007年5月13日、公演先のアイオワ州カウンシルブラフスで、脳卒中のため入院した。5月末には退院したものの、後遺症を改善するためにリハビリ・センターに入所した。2008年6月2日、フロリダ州アーチャーの自宅にて心不全のため死去した。79歳だった。

ボ・ディドリーはロックの生みの親の一人です。古いロックファンなら、彼の使っていた長方形のギターを覚えている人もいるかもしれません。彼の曲はコードやメロディーが非常にシンプルなものが多く、古き良きロックのリズムを今に伝えています。彼から影響を受けたミュージシャンは数えきれないほどいますが、エリック・クラプトン、エルビス・プレスリー、ビートルズらが特に有名でしょうか。彼は長方形のギターや、ジュピター・サンダーバードなどの自身の要望・デザインした奇抜なデザインの変形ギターをメーカーのグレッチに作らせて使用したことでも有名です。彼は最期の時に黒人霊歌の'Walk Around Heaven'を歌い、'wow'と言って親指を立てたそうです。そして上記の言葉を言って亡くなりました。葬儀の後追悼コンサートがゲインズヴィルのマーティン・ルーサー・キング・センターで行われ、ジョージ・W.ブッシュ大統領やエルヴィス・コステロ、ロニー・ホーキンズ、ミック・ジャガー、B.Bキングらから賛辞が寄せられました。

ボ・ディドリーの"Bo Diddley"を聞いてみたい方はこちらからどうぞ。

"Bo Diddley"
http://www.youtube.com/watch?v=Q3-rf4EgAm8
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

What's this?

これは何だい?

レナード・バーンスタインの最期の言葉。レナード・バーンスタイン(1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の作曲家・指揮者である。またピアノの演奏家としても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。夫人のフェリシア・モンテアレグレはチリ出身の女優・ピアニスト。バーンスタインはウクライナ系ユダヤ人移民の2世としてマサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキーの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」に就任した。1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演た。ことに同じユダヤ系であるグスタフ・マーラーの演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも有名である。1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌1990年6月にも、民主化されたチェコスロバキアのプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。 これらように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。1990年6月には札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。

今ではバーンスタインを知っているのはクラシック音楽ファンくらいかもしれませんが、ブロードウェイミュージカルの『ウエスト・サイド物語』は知っている人も多いかと思います。『ウエスト・サイド物語』は1957年にアーサー・ローレンツ脚本、レナード・バーンスタイン音楽、スティーヴン・ソンドハイム歌詞で初演が行われ、1961年に映画化もされました。この作品はシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』に着想し、当時のニューヨークの社会的背景を織り込みつつ、イタリア系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争と、その犠牲となる若い男女の2日間の恋と死を描きました。日本でも宝塚歌劇団や劇団四季で公演されているので、見たことのある人もいるかと思います。バーンスタインの作品の特徴は、ジャズやクラシックなどの様々な音楽の要素を巧みに織り交ぜることで、生前は伝統的なクラシック愛好家からの批判もありました。バーンスタインとカラヤンはライバル関係ということにされていましたが、バーンスタイン本人がカラヤンとの確執の噂を否定しています。カラヤンの亡くなる少し前には、同じ演奏会で指揮台を分け合うというという計画がありましたが、残念ながらラヤンの死によって遂にこれは果たされませんでした。バーンスタインの死因は肺癌でしたが、彼は14歳の時に煙草を覚えてから、1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲む事を日課としており、晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめなかったそうです。

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今日の辞世の句 

Doro, ich bekomme keine Luft mehr.

ドロ、もう息ができない。

エンリコ・カルーソーの最期の言葉。エンリコ・カルーソー(1873年2月25日 - 1921年8月2日)はオペラ史上最も有名なテノール歌手の一人。カルーソーはイタリアのナポリで生まれ、同地で1894年から演奏家としての活動を始めた。翌年ミラノで大きな成功を収め、最初の20回のレコード録音を行った。1903年、ニューヨーク市を訪れ、メトロポリタン歌劇場(メト)で歌った。その年から、米ビクター社にレコード録音を開始する。カルーソーのメトおよび米ビクターとの関係は1920年まで継続した。カルーソーは約60作品ものオペラをレパートリーにしていた。主にイタリアオペラであったが、フランスとイギリスのオペラも、ひどいイタリア訛りではあったが歌った。また、約500曲の歌曲もレパートリーとしており、それらはイタリアの古典歌曲や民謡から当時のポピュラーソングまで及んでいた。レコード録音を盛んに行ったスター歌手は彼が最初だったことにより、20世紀最初の20年間という時代もあって、カルーソーは円盤型蓄音機の普及を助け、それが彼の知名度も高めた。カルーソーが行った大衆的なレコード録音と彼の並外れた声、特にその声域の広さ、声量と声の美しさによって彼は当時の最も著名なスター歌手となったのである。1909年に咽頭の手術を受けた後は高域の発声に以前の輝きを失った、とする評もあるが、それを力強さを増した中低域によってうまく補った。1920年、メトでの舞台中に喀血、故郷ナポリで療養中の翌1921年に48歳の働き盛りで亡くなった。カルーソーの生涯は1951年のハリウッド映画『歌劇王カルーソー』(マリオ・ランツァ主演)で大々的に脚色されて映画化された。2000年、BMGからCD作品「カルーソー2000』("CARUSO 2000")が発売された。これには、最新のコンピュータ技術により、雑音に満ちたSPレコード音源からカルーソーの声のみを抽出、そこへ新たに録音した1999年のウィーン放送交響楽団のオケをミックスする、という革新的な手法がとられている。

エンリコ・カルーソーは20世紀の最も偉大なオペラ歌手の一人であり、初期のレコードの普及に大きな影響を与えた人物です。彼は1895年から1920年までのキャリアで、ニューヨークのメトロポリタン·オペラなどで、863回の公演を行いました。また1910年のメトロポリタンオペラハウスのステージは、アメリカで初の公共ラジオ放送での放送となりました。。カルーソーは48歳の時にローマに向かう途中のナポリのベスビオホテルで、腎臓の感染症で亡くなりました。最期の言葉のドロとは妻のドロシーのことで、夫婦の仲が良かったのでしょう、彼女は夫のことをリコと呼んでいました。葬儀はサン·フランチェスコ·ディ·パオラ教会のロイヤル聖堂で行われ、何千人もの人が出席したそうです。カルーソーはアメリカで録音された260以上の音源を含め、498の音源が現存しますが、そのいくつかは未発表のものでした。カルーソーの歌う誰でも知っている曲「O Sole Mio」と、「三大テノール」として知られるルチアーノ・パヴァロッティの歌う「caruso」を紹介しておきましょう。

カルーソー「O Sole Mio」
http://www.youtube.com/watch?v=u1QJwHWvgP8
ルチアーノ・パヴァロッティ「caruso」
http://www.youtube.com/watch?v=I8A61eY1Efg

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κύριε, μὴ στήσῃς αὐτοῖς ταύτην τὴν ἁμαρτίαν.

主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。

ステファノの最期の言葉。ステファノは新約聖書の『使徒行伝』に登場するユダヤ人キリスト教徒(35年または36年頃没)。キリスト教における最初の殉教者、すなわち信仰のために自らの命を犠牲にする者であったとされている。ラテン語ではステファヌス、ギリシャ語ではステファノスないしはステパノスとも表記する。日本ハリストス正教会(正教会)では初致命者首輔祭聖ステファンと呼ばれている。記憶日(記念日)は8月3日および12月26日。8月3日は、彼の遺体がホノリウス帝の治下で発見された日であるとされる。ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト、ユダヤ系ギリシア人)であった。初代教会においてヘブライ語=ユダヤ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とヘレニストの間に摩擦が生じたため、問題解決のために使徒たちによって選ばれた7人(他にプロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、ニコラオ、フィリポ)の一人である。なお、この7人の選定を、キリスト教では伝統的に聖職位階の一つである助祭(輔祭)職の選定とみなしている。ステファノは天使のような顔を持ち、「不思議な業としるし」によって人々をひきつけたため、これをよく思わない人々によって訴えられ、最高法院に引き立てられた。そこでもステファノはユダヤ人の歴史を引き合いにしながら「神殿偏重に陥っている」とユダヤ教を批判したため、石打ちの刑に処せられた。この場にサウロ(後のパウロ)が立ち会っていたという。

ステファノの墓が公式に定められたのは415年で、エルサレムの北部の郊外にあり、多くの巡礼を集めました。西方キリスト教では12月26日が特に「ステファノの日」と呼ばれ、アイルランド、イタリア、オーストリア、クロアチア、フィンランドで公休日となっています。ステファノはキリスト教で最初の殉教者とされていますが、キリスト教で使われてきた「殉教」(ギリシャ語:Martyria)という語は、「証人」という言葉に由来しています。殉教とみなされるためには、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々の信仰を呼び起こすものであるかどうかということが基準とされており、キリスト教教会は、殉教者を神と人間を仲介できる聖人として位置づけ、祈りの対象としてきました。上記の最期の言葉は「使徒行伝 7 : 60」に書かれています。ステファノは数々の宗教画に描かれてきましたが、有名なものをいくつか紹介しておきましょう。

レンブラント『 聖ステファノの石打ち 』
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Rembrandt_Harmensz._van_Rijn_150.jpg
ヴィットーレ・カルパッチョ『 聖ステファノの石打ち 』
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Vittore_Carpaccio_084.jpg
ケルン大聖堂のステンドグラス『聖ステファノの殉教』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Koelner_Dom_-_Bayernfenster_02.jpg

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Tirez le rideau, la farce est jouée.

喜劇は終わった。幕を引け。

フランソワ・ラブレーの最期の言葉。フランソワ・ラブレー(1483年? - 1553年4月9日)は、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者、作家、医師。ヒポクラテスの医書を研究したことで著名となり、次いで中世巨人(ガルガンチュア)伝説に題材を取った、騎士道物語のパロディー物語『ガルガンチュワ物語』と『パンタグリュエル物語』からなる『ガルガンチュワとパンタグリュエル』で知られる。これらは糞尿譚から古典の膨大な知識までを散りばめ、ソルボンヌや教会など既成の権威を風刺した内容を含んでいたため禁書とされた。経歴には不明な点が多い。中部フランスのロワール川流域の町シノン近郊の村で、法服貴族出身で国王直轄シノン裁判所付き弁護士、ブルジョア地主の父アントワーヌ・ラブレーの三男として生まれる。ベネディクト会修道院で初等教育を受け、1511年頃にラ・ボーメットのフランチェスコ会修道院に入る。1520年頃にはポワトゥー州フォントネー・ル・コントにある、フランチェスコ会の厳修会派に属するピュイ=サン=マルタン修道院に在籍し、哲学、神学、ギリシア語を学び、この地の法学者アンドレ・チラコーのサークルにも出入りしていた。しかし当時のギリシャ語習得への逆風のため、マイユゼーのベネディクト会修道院に転籍する。1524年には、チラコー『婚姻の掟』に「チラコー讃」を掲載。この頃ヘロドトス『歴史』のラテン語訳を試みる。1525年頃にはリギュージェの付属修道院にいて、ポワチエの詩人ジャン・ブウシェから作詩の手ほどきを受けた。1528年から30年頃まではパリに滞在し、二児を設けたと見られる。1530年にモンペリエ大学医学部に入り得業士となり、1531年の講義実習においてヒポクラテス『箴言集』、ガレノス『医術について』を(ラテン語でなく)ギリシア語原典によって述べ、聴講者を多く集めた。1532年にはヒポクラテス、ガレノスをラテン語に翻訳して出版の盛んだったリヨンから出版し、リヨン市立慈善病院の医師として勤務を始める。1532年に民間伝承中の巨人ガルガンチュアを題材にした、作者不明の短い物語『ガルガンチュア大年代記』が出版され、ラブレーはこれの続編の形式で、当時は未発達であったフランス語を用い、やはり中世民間伝説で小悪魔的存在と知られていたパンタグリュエルをガルガンチュアの息子として設定した『パンタグリュエル物語』(魁偉なる巨人バルガンチュワの息子にして乾喉国王、その名字内に高きパンタグリュエルの畏怖驚倒すべき言行武勲の物語)を、アルコフリバス・ナジェ(Alcofrybas Nasier)のペンネーム(本名のアナグラム)で刊行。続いて当時の占星術のパロディである小冊子『1533年用のパンタグリュエル占い』を発行する。1534年にフランソワ1世の重臣ジャン・デュ・ベレーの知遇を得て、侍医としてローマに同行するなどしていた。またパンタグリュエルの父親について上書きする『ガルガンチュワ物語』(パンタグリュエルの父、大ガルガンチュワの無双の生涯の物語)を執筆する。しかし1534年の檄文事件により身の危険を感じて一時期姿をくらますが、1535年にはイタリアに旅行して、還俗して医学の道に進んだことの赦免をローマ教皇パウルス3世に願い出て認められ、1536年にはパリ郊外サン=モール=デ=フォセのベネディクト会修道院に属する。1537年にはモンペリエ大学で医学博士号を取得。1538年にはフランソワ一世とカール5世によるエーグ=モルト会談に立ち会うなど、政治世界にも関わり続ける。また作品中で激しく批判したソルボンヌや教会の圧力による出版禁止を避けるために、『ガルガンチュア』『パンタグリュエル』の表現を和らげた改訂版を1542年に出すが、両書は翌1543年の禁書目録に掲載されてしまう。1546年には続編の『第三の書』を本名で執筆し、国王の「特認」という出版独占権をお墨付きに得て出版するが、禁書目録の増補版に入れられる。このためロレーヌ地方のメスに逃れて、市の医師として勤務するが、ジャン・デュ・ベレーに懇願して政界に復帰。1548年にローマ駐在全権大使として出発したデュ・ベレーに同行し、その途中の立ち寄ったと見られるリヨンの出版社で『第四の書』の未完成原稿(「不完全版」)が出版されてしまう。その後オデ・ド・シャチヨン枢機卿の知遇を得て、1550年にその尽力により、今度は自著の出版を10年間許可するという国王アンリ二世の「特認」を得る。そして1552年に改めて『第四の書』完全版をパリで出版。この「特認」は当時のフランス国教会とローマ教皇庁の対立において、ラブレーがフランス王権側であると認められたためともされ、『第四の書』の「前口上」でもアンリ二世を褒め讃え、作品中のローマ教会批判も激烈なものとなっている1551年にはムードンのサン=マルタンの司祭職を与えられたが、他者に貸与して職には就かなかった。1553年に死去。パリのサン=ポール教会に埋葬されたとされるが、墓地も現存していない。死後の1564年に未発表原稿の『第五の書』が出版されるが、本当にラブレーの作品かどうかは議論がある。さらに1562年にも『未発表、鐘鳴島、フランソワ・ラブレー先生作』という本も出版されているが偽書と見られている。デジデリウス・エラスムス宛の書簡で「あなたの学識ある乳房で育った」と書くなど、深い敬愛を抱いており、作品にも『痴愚神礼讃』など多くの引用を取り入れている。スコラ哲学や修道士への批判は当時の宗教改革勢力と共鳴するが、後にジャン・カルヴァンはリベルタン(放蕩者、libertins)として批判した。長い間、生年はアベル・ルフランによる『ガルガンチュワ』等著作内の記述に基づく推測で1494年生まれ、没年は1553年以降に消息不明であるとして同年沒と推測されてきた。近年ラブレーの兄による遺産相続記録が発見され、1553年に死去したことが判明。70歳で沒という記録も考えあわせて、1483年生まれであるという推測が有力。

16世紀にイタリアの先進文化がフランスに伝えられると、国王の文芸保護政策もあって文化活動が活発になり、フランス・ルネサンスが花開きました。ラブレーは『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の著者で、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者として有名ですが、医者でもありヒポクラテスやガレノスらギリシア医学の研究も行いました。『ガルガンチュワとパンタグリュエル』は、当時ベストセラーになっていた著者不明の『ガルガンチュワ年代記』をヒントにして書かれた、巨人の一族を巡る荒唐無稽な物語です。この物語は既存の権威を風刺し笑い飛ばす内容であったため、1543年にパリ大学により禁書目録に掲載されるという憂き目にあい、また長い間下品なジョークや歌の作家と見なされてきましたが、現在では世界文学の偉大な作家の一人とみなされています。例えばバルザックは20以上の小説の中でラブレーを引用しています。またモンペリエ大学の医学部の卒業生が召集されるときは、必ずラブレーのローブの下で宣言が行われます。ラブレーはラテン語ではなく、まだ未熟であったフランス語で著作を行い、ギリシャ語、ラテン語、イタリア語などの直訳複合語やイディオムをフランス語にもたらしました。彼はおそらくフランス語を豊かにした、最も重要な著者の一人です。ラブレーの最期の言葉は諸説があり、一番有名なのは上記のものであると思いますが、他にも"I have nothing, I owe a great deal, and the rest I leave to the poor"(私には何もない、私は多くを借りたので貧しい人々に残す)や"I go to seek a Great Perhaps."(私は偉大なものを探しに行く)と言ったともされています。

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