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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Mama.

アグネス・ムーアヘッドの最期の言葉。アグネス・ムーアヘッド(1900年12月6日 - 1974年4月30日)は、アメリカ合衆国の女優。マサチューセッツ州クリントン出身。イングランド人、アイルランド人、スコットランド人、ウェールズ人の血を引いている。1944年公開の『パーキントン夫人』と1964年公開の『ふるえて眠れ』でゴールデングローブ賞 助演女優賞を、1967年にはエミー賞を受賞。第21回アカデミー賞の司会を行った。TVドラマ『奥さまは魔女』のサマンサの母エンドラ役で有名である。

アグネス・ムーアヘッドが出演した映画で一番有名なのは、『市民ケーン』かもしれませんが、日本人にとってはTVドラマ『奥さまは魔女』を知っている人の方が多いかもしれません。『奥さまは魔女』は日本でも大ヒットし、1980年代まで再放送が繰り返されました。このドラマは後に魔法少女ものとして、ドラマ『コメットさん』やアニメ『魔法使いサリー』の企画の元になりました。彼女は当初『奥さまは魔女』がヒットするとは思っていなかったそうですが、1964年から1972年までの間に全254話が放送されるという長寿番組になりました。1974年にニューヨークタイムズのインタビューで次のように述べています。 "I've been in movies and played theater from coast to coast, so I was quite well known before Bewitched , and I don't particularly want to be identified as a witch."(私は海岸から海岸へと映画に出演し劇場に出演してまわり、以前は『奥様は魔女』で有名になりましたが、特に魔女だと思われたいわけではありません。 )彼女の最期は、1974年4月30日にミネソタ州ロチェスターで子宮癌で亡くなりました。最期の言葉は母親に向けたものでしたが、実は彼女の母親メアリー·M·ムーアヘッドは大変長生きをし、娘のアグネスがなくなった16年後に1990年に106歳で亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Oh, my country! How I love my country!

おお、わが祖国よ、何と愛おしいわが祖国よ!

ウィリアム・ピット (小ピット)の最期の言葉。ウィリアム・ピット(1759年5月28日 - 1806年1月23日)は、イギリスの政治家、首相(在任:1783年 - 1801年、1804年 - 1806年)。1760年代に首相を務めたチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)とヘスター・グレンヴィルの次男。チャタム伯ジョン・ピットは兄で、大ピットと同じく1760年代に首相を務めたジョージ・グレンヴィルは母方の伯父、後任の首相ウィリアム・グレンヴィルは従兄に当たる。同名の父と並んで小ピット(Pitt the Younger)の通称で知られる。 幼いころから病弱であったが、ラテン語やギリシア語に通じるなど才能に恵まれていたため、1773年、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した。それ以後、この最年少入学記録を破った者はいない(2010年に同じ14歳でケンブリッジ大学に入学するものが現れるまでの237年間、ピットの記録に並ぶものすらいなかった)大学では政治哲学、古典、数学、化学、歴史などを勉強した。しかし、在学中も健康に恵まれなかったため、貴族の特権を行使して試験なしで1776年に卒業を果たした。1780年、ケンブリッジ大学が保有していた下院の議席に出馬するが落選。今度は学閥の力とコネを活用しアップルビーの腐敗選挙区の補欠選挙で当選、1781年に下院議員となる(後にケンブリッジ大学に鞍替え)。アメリカ独立戦争による政治の混乱と国王ジョージ3世と大衆の支持に乗じて、1783年に24歳の若さで首相に就任する。この記録はもちろん史上最年少である。翌年総選挙に圧倒的に勝利して、17年もの長期政権の基礎を築いた。1793年までは、自由主義路線に沿って諸改革に取り組む。
○国家財政の再建
○アメリカ喪失後の新しい帝国の建設(カナダの行政改革と東インド会社の再構築)
○フランスとの間に自由貿易的な通商条約の締結など。
○1786年にフランスと通商条約(イーデン条約)を締結したが、これにより産業革命を経験した安価で良質なイギリス商品がフランスに入り込んでフランスの国内産業に打撃をあたえ、フランス革命を引き起こした社会的混乱を招く原因になった。
1788年には、ヨーロッパでの孤立外交からの脱却とフランスに対抗するためにプロイセンとオランダとの三国同盟を締結。1801年、アイルランド併合を行うと共にカトリック教徒解放を考えるが、国王ジョージ3世と意見が合わず辞任。1789年、フランス革命が勃発し、その流れが過激なものへと変容していくにつれて危機感を増し、1793年から3回に渡って対仏大同盟を組織して革命を潰そうとした。そのため、彼はフランスから「人民の敵」と呼ばれることになる。のちに対仏穏健派が支持を失うと、対仏強硬派で主戦派の彼は1804年に再び組閣した。1805年に第三次対仏大同盟を組織するも、同年のアウステルリッツの戦いの敗北に衝撃を受け、翌年1月に病没。

小ピットことウィリアム・ピットは、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学し、24歳の若さで首相の地位に上り詰めるという、早熟の天才でした。彼は間違いなく大英帝国の栄光の歴史における、最も偉大な首相の一人です。ピットはイギリスの保守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献して、イギリスの二大政党政治の土台を築きました。父親の大ピットはジョージ3世と仲が悪く、国王が側近を中心とした専制的な政治を行った結果、アメリカの独立という大きな失敗を招きました。父の死後5年後、ピットがアメリカ独立後の混乱した政治の後処理を始め、小ピットが政権についてからイギリスは再び「君臨すれども統治せず」という責任内閣制が復活しました。彼の最も重要な業績のうちの一つは、アメリカ独立戦争後の経済回復です。自由貿易的な通商条約は、現在の自由貿易協定に通じています。小ピットは幼いころから病弱で、慢性の健康障害に対処するためにワインを飲んでいましたが、これによって痛風が悪化し彼は長い間苦しみました。1806年1月23日に小ピット彼の胃か十二指腸の潰瘍で亡くなりました。彼は未婚で子どもがおらず、その負債は総計£40,000にものぼりましたが、議会がそれを支払いました。彼は国葬によりウェストミンスター寺院に埋葬されました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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