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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

Sieg, großer Sieg! Ich sehe alles rosenrot.

勝利、大勝利! すべてが有望に思える。

カール・マイの最期の言葉。カール・フリードリヒ・マイ(1842年2月25日 - 1912年3月30日)は、ドイツの小説家。ザクセン州ホーエンシュタイン=エルンストタール出身。貧困の中で育ち、大学中退後に窃盗などにより服役した際に多くの本を読んだことから文学に目覚め、出所後に出版活動を開始。アメリカ西部を舞台にし、いわゆるインディアン(ネイティブ・アメリカン)を主人公とした多くの冒険小説を発表した。また、これらの小説の登場人物である「オールド・シャッターハント」が「カラ・ベン・ネムジ」の名で中近東を舞台に活躍する冒険小説も発表したが、これらの地方へ旅行したのは晩年になってからのことである。彼の作品は世界中で翻訳されている。彼の作品の多くはドイツで映画化されている。また、ジンギスカンの曲ハッチ大作戦(原題:"Hadschi Halef Omar")は彼の小説を基にしたものとして知られる。小惑星(348)マイは彼にちなむ。

カール・マイはドイツ人でしたが、アメリカインディアンを主人公にした冒険小説を数多く書きました。日本では『ヴィネトゥの冒険 -アパッチの若き勇者』や『カール・マイ冒険物語』シリーズが出版されていますが、一般的な知名度は高くありません。しかし、ユネスコの調査によるとマイの作品は、ドイツ語で書かれた小説としては、最もよく読まれているものの一つです。彼の作品は世界中で、二億部ほど(内ドイツ国内は一億部)出版されているそうです。彼の最期は1912年3月30日に心臓麻痺急性気管支炎、つまり喘息で亡くなりました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Nicht schießen!

撃つな!

ローザ・ルクセンブルクの最期の言葉。ローザ・ルクセンブルク(1871年3月5日 - 1919年1月15日)は、ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。ミハイル・トゥガン=バラノフスキーとルドルフ・ヒルファーディングの不比例説に対してカール・カウツキーとともに消費制限説で対峙し、ミハウ・カレツキに影響を与えた。彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想はルクセンブルク主義とも呼ばれる。ローザ・ルクセンブルクは1870年もしくは1871年3月5日、事実上ロシア帝国の属国であったポーランド立憲王国の都市ルブリン近郊のザモシチに住むユダヤ人の木材商人エリアス・ルクセンブルク3世とその妻リーネ(旧姓レーヴェンシュタイン)の5番目の子供として生まれた。出生時の名前はロザリアである。生年について2通りの説があるのは、チューリッヒ大学へ提出した履歴書には1871年生まれと記載されているのに対し、1887年に発行されたアビトゥア資格(ドイツの大学入学資格)証書には彼女が17歳である(すなわち1870年生まれである)と記されていることによる。自由な雰囲気の家庭で過ごした少女時代にはゲーテやシラーに傾倒して多大な影響を受けた。1886年以降、彼女はポーランドの左翼政党「プロレタリアート」のメンバーとなっている。1890年に社会民主主義に対するビスマルクの規制が解かれ、ドイツ社会民主党(以下SPD)は国会の議席を得ることが法的に可能となった。しかし社会主義者の議員たちは、口先では革命について語りながら権力や富の拡大ばかりにうつつを抜かすようになった。それに対しローザは革命的マルクス主義者としての信条を守り抜き、1893年にはポーランド社会党の国家主義的な方針に反対し、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」というエンゲルスのテーゼに忠実であり、カウツキーの「民族融合論」に賛同してレーニンらの唱える社会主義の下での民族自決権を否定したためである。このことにより、のちにレーニンとのあいだに対立が生じることとなる。1898年、ローザはグスタフ・リューベックとの偽装結婚によってドイツ市民権を取得し、ベルリンへ転居。ドイツ社会民主労働党(後のドイツ社会民主党。以下SPD)に入党し、同党左派での活動を開始。それ以前から修正主義を唱えていた主流派のエドゥアルト・ベルンシュタインが1899年に発表した論文「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」に対し「社会改良か革命か」と題したパンフレットで激しく反論する。この一件により、SPD随一の雄弁家・理論家として党内外の国際社会主義運動において広く知られるようになる。1912年2月にはSPD代表としてパリをはじめとするヨーロッパの社会党大会などへ出席。フランスの社会主義者ジャン・ジョレスとともに、もしも戦争が起こったときにはヨーロッパの労働者諸政党はゼネストに突入するであろうことを確約した。1914年にバルカン半島の政治的緊張が頂点に達して戦争の避けられないことが誰の目にも明らかになってきたとき、ローザはフランクフルトほか各地でデモを組織し、良心的兵役拒否や命令への不服従を訴えかける。この件により「法と秩序への不服従を煽動」したとされ懲役1年の有罪判決を受ける。拘留は即座には執行されなかったので、同年7月ブリュッセルでの国際反戦会議には参加することができた。しかしこの会議を通して、各国の労働者党においてナショナリズムが階級意識よりも濃厚になっていることを認めざるをえず落胆する。1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発。8月3日にはドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告した。翌日、議会は戦時公債を発行し戦争に融資することを満場一致で可決。SPDの議員も全員がこれを支持し、「城内平和」の名の下に戦争中はストライキを控えると約束して政府と休戦する。またローザと同じく非戦を唱えていたジャン・ジョレスが暗殺され求心力を失ったフランスやオーストリアの社会主義者たちもこれに同調、こうして第二インターナショナルの命脈は尽きた。ローザを筆頭としカール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン、フランツ・メーリングらを中心とした党内左派は1914年8月5日に「グルッペ・インターナツィオナーレ」 (Gruppe Internationale) を結成する。メンバー共有のペンネームとして「スパルタクス」(共和制ローマで奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の奴隷剣闘士の名)が用いられた。これにより「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「スパルタクス団」として知られるようになる。スパルタクス団はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世および政府と妥協して戦争支持に回ったSPDの方針を拒否し、出獄したローザは再度ゼネストを要求して5月1日にはメーデーのデモを煽動するなど闘争を展開した。1917年にアメリカが参戦したころ、スパルタクス団はやはり戦争反対の立場からSPDを脱退したカウツキーらによって結成された独立社会民主党(USPD)と合流する。1918年11月4日に起きたキール軍港における水兵の反乱およびロシア革命時のソビエトに倣った「労働者・兵士協議会(レーテ)」の結成が引き金となってドイツ革命が勃発し、同9日に皇帝が廃位されると(同日ローザも釈放される)、USPDは勢力を拡大したSPDとともに共和政の新政府を樹立する(首班はエーベルト、革命後のヴァイマル共和国である)。一方、USPDら急進派を快く思わないエーベルトは軍部と手を組むことを選んでいた。この協定により、革命で崩壊しかけた国軍の残党や国家主義者、右翼らによる反革命義勇軍(フライコール)が創設され、やがて革命派に対する武力鎮圧が始まる。あくまでも穏健な社会民主主義に拘泥した結果である。USPDは当然これに強く抗議して連立政府から撤退する。1918年末にスパルタクス団はUSPDから再度分離し、その他の社会主義者や共産主義者のグループと連合。12月29日から翌1919年1月1日にかけて開かれた創設大会をもって、ついにローザとリープクネヒトを指導者とするドイツ共産党(KPD)が誕生する。ローザはのちにヴァイマル共和国議会となる全国憲法制定議会との関係を保っていたが、選挙に勝つことはできなかった。この1月、ドイツ革命は新たな局面を迎える。ローザが『Die Rote Fahne(赤旗)』の巻頭論文で反乱軍に対しリベラルな新聞の編集部を占拠するよう示唆したのと前後して、各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠されたため、エーベルトのSPD政府はフライコールを出動させて革命軍への弾圧を本格化したのである。1月9日から15日にかけての激しい戦闘でスパルクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテも解体されてゆく。ローザとリープクネヒトは1月15日にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは銃床で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた。ローザの死体は6ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。その後、遺体はナチス政権により暴かれて所在不明となってしまった。2009年5月、ベルリンのシャリテ病院で身体的特徴がローザのものと一致する首の無い遺体が発見され、現在調査中だと報じられた(ナチスによる墓暴きもこの時に判明した)。

ローザ・ルクセンブルクは、ドイツ共産主義を象徴する女傑です。彼女とカール・カウツキーが、ドイツのマルクス主義運動の機軸を作ったと言っても過言ではないでしょう。ヒトラーは第一次世界大戦でドイツが負けたのはユダヤ人が足を引っ張ったという、いわゆる「背後の一突き」があったからだと考え、大虐殺を行いましたが、実際には「城内平和」(Burgfrieden )の名の下に、社会主義政党を中心とする野党と政府の政争や労働者と資本家の階級対立が一時停止されました。しかし、過激なユダヤ人やマルクス主義者の中には少数ですが、ゼネストを実行しようとし続ける者もいました。彼女はその内の一人です。第二インターの崩壊とともに、加盟各党内部の「城内平和」派と少数反対派との激しい対立をもたらし、これは各国社会主義政党の分裂(社会民主党と共産党)を生む遠因となりました。彼女ら急進主義的なマルクス主義者らにより結成された政治団体「スパルタクス団」は、帝国主義の時代では全ての戦争が大資本の競争から起こるのであり、ドイツが勝とうが負けようが労働者にとっては有害であるため、労働者は民族戦争を拒否し、革命により権力を握ることによってのみ救われると説きました。しかし、権力奪取の方法、革命後の組織についてローザはなにも明確なことを書かなかったため、1918年11月4日キール軍港の水兵たちの蜂起からドイツ革命に思うような行動がとれませんでした。ドイツ革命により、カウツキーらによって結成された独立社会民主党(USPD)は勢力を拡大したSPDとともに共和政の新政府を樹立しました。(革命後のヴァイマル共和国)。12月30日、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成され、政府が革命派への本格的な武力弾圧を開始すると、「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続きました。1919年1月5日から1月12日のドイツのゼネストと、それに付随した武装闘争は一般には「スパルタクス団蜂起」と呼ばれていますが、スパルタクス団やドイツ共産党(KPD)は蜂起を始めたり指導せず、始まってから参加しただけでした。これはワイマール政府に対して、ドイツ国民が幻滅することになる数多くの理由の1つとなりました。ドイツ社会民主党メンバーで国防大臣グスタフ・ノスケは、『突然起きた、どう見ても不可解な敗戦』とその後の社会の混乱に憤りを感じていた退役軍人らを、フライコール(ドイツ義勇軍)として編成しました。フライコールは1月9日から革命派と激しい戦闘を展開し、1月15日までには革命派は鎮圧されました。ローザの最期は、リープクネヒトと共にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に殺害されました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Es ist gar nichts… es ist gar nichts…

It is nothing... it is nothing...

何もない……。何もない……。

フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステの最期の言葉。フランツ・フェルディナント・カール・ルートヴィヒ・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(1863年12月18日 - 1914年6月28日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者、オーストリア=エステ大公。サラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺された。このサラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発した。オーストリア皇帝フェルディナント1世の弟フランツ・カール大公の三男であったカール・ルートヴィヒ大公と両シチリア王フェルディナンド2世の王女マリア・アンヌンツィアータの長男として、1863年にグラーツで生まれた。フランツ・フェルディナントはオーストリア皇族であったが、伯父フランツ・ヨーゼフ1世にはルードルフ皇太子がいたため、本来ならば皇位継承の圏外にあった。しかし思いもかけず、1889年1月ルードルフ皇太子が情死したため、にわかに皇位継承候補者となった。フランツ・ヨーゼフ皇帝は弟カール・ルートヴィヒの3人の息子(=甥)から後継者を選ぶことにした。三男フェルディナント・カール大公は平民の娘との貴賤結婚のため除外され、次男オットー大公(カール1世の父、「麗しのオットー」と呼ばれた)は漁色が過ぎて性病にかかり、1906年に没した。よって残った長男フランツ・フェルディナントが皇位継承者として認定されるようになった。オーストリア皇室ではさっそくフランツ・フェルディナントの結婚話を進めるが、大公にはボヘミアの伯爵家出身でテシェン公フリードリヒ(ナポレオン戦争で活躍したカール大公の孫)の妃イザベラの女官であったゾフィー・ホテクという恋人がいた。当初これは秘密の恋であったが、ある日フランツ・フェルディナントが蓋付き腕時計をテシェン公家に忘れた。当時腕時計の蓋の裏に意中の女性の肖像画を描くのが流行しており、忘れ物を預かったイザベラは、彼が足繁く通うのは長女マリア・クリスティーナに気があるからだと信じて時計の蓋を盗み見たため、ゾフィーとの恋が露呈する。しかし彼は数少ない皇位継承者であり(ハプスブルク家傍系の大公はテシェン公を含めて数多くいたが、血筋の近いオーストリア皇帝フランツ1世の男系子孫の男子は限られていた)、皇室は次期皇位継承者がチェコ人の女官のような身分の低い女性と貴賤結婚するのに大反対したが、2人はあくまで意思を変えなかった。このためゾフィー・ホテクが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認された。ただし、将来皇帝に即位した後もこの誓約を守り続ける意志があったかは定かではない。2人の結婚式は1900年7月1日に挙行された。しかしその後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされていた。またそれ以外の公の場(劇場など)でも大公との同席は許されなかった。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」(Kronprinz)とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」(Thronfolger)と遠回しな呼ばれ方をされるようになった。皇太子時代の1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本に来日している。この時、フェルディナントは日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されている。フランツ・フェルディナント大公はチェコ人と結婚しただけあって、親スラブ的な傾向があり、反面で大のハンガリー嫌いだった。政治的思想も親スラヴ的で、皇帝のボヘミア王戴冠による三重帝国の大連邦国家制を望んでいた時期もあった。1914年6月、ボスニア・ヘルツェゴビナの首府サラエヴォの軍事演習視察に出かけたのもそんな感情からだった。しかし1878年のベルリン会議以来オーストリアが占領し、1908年には正式に二重帝国のオーストリア領に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、大セルビア主義者にとってはオーストリアに侵略された土地だった。ロシア帝国を後ろ盾とする汎スラヴ主義に沸くバルカン半島では、オーストリア大公の来訪は絶好の餌食であった。大公夫妻はサライェヴォの町でセルビア民族主義を奉じる秘密組織黒手組の暗殺者ガブリロ・プリンチプによって暗殺される。時に大公51歳、ゾフィー46歳であった。このサラエボ事件によりオーストリアがセルビアに宣戦布告、これが第一次世界大戦を引き起こすことになる。なおフランツ・フェルディナントの最期の言葉は「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」であった。フランツ・フェルディナントとゾフィーの葬儀は、2人合同で行われた。貴賤結婚のために、ハプスブルク家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂に入れないことを生前から悟っていた夫妻は、居城であったアルトシュテッテン城内の納骨堂に埋葬された。

彼はオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であり、サラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺されたことで有名です。彼が暗殺されたをことがきっかけで、第一次世界大戦が勃発したことを知っている人は多いと思いますが、彼がどんな人だったかを知っている人は少ないでしょう。彼は皇位継承者であるにもかかわらず、女官であったゾフィー・ホテクと貴賤結婚をしました。ゾフィーは冷遇され続け、公の場でも、夫たる大公との同席は許されませんでした。ウィーンで不遇の生活を強いられていた妻を気遣って、大公はサラエヴォへの旅に彼女を伴いましたが、そこで事件はおきました。彼女は46歳の妊娠中に、サラエヴォ事件で夫とともに暗殺されました。彼を暗殺したガブリロ・プリンチプは、セルビアの民族主義者により1911年に結成された秘密組織・テロ組織「黒手組」の一員でした。「黒手組」はすべてのセルビア人居住地域、特にオーストリア・ハンガリー帝国領であったボスニア・ヘルツェゴビナの併合を目標としていました。この組織はセルビア民族主義意外には統一した思想を持たず、クーデターを目論む陸軍将校、理想主義を信ずる学生、時には共和制を目指す者さえいました。事件の正確な経緯は明らかとなっていませんが、7人いた暗殺犯は武器に習熟しておらず、計画が成功したのはいくつかの偶然が重なったためでした。同時に行われていたいくつかの計画は失敗しましたが、最終的にはプリンツィプがピストルを取り出して、車に駆け寄り1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込みました。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも亡くなりました。オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけました。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告し、セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾しましたが、1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発しました。

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Don't let me die, I have got so much to do.

私を死なせないでください。私は多くのことをさせられました。

ヒューイ・ロングの最期の言葉。ヒューイ・ロング(1893年8月30日、アメリカ合衆国ルイジアナ州ウィン・パリッシュ - 1935年9月10日、ルイジアナ州バトンルージュ)はアメリカ合衆国の政治家。通称「キングフィッシュ」(The Kingfish)。民主党所属であり、急進的なポピュリズムで有名であった。1928年から1932年までルイジアナ州知事を務め、1932年から1935年まで上院議員であった。1932年の大統領選挙ではフランクリン・ルーズベルトの支援者だったが、のちに袂を分かち、自らが大統領になることを計画した。1934年には「誰もが王様」("Every Man a King")というスローガンの下に、世界恐慌のために引き起こされた犯罪と貧困を抑制するために、「富の共有運動」("Share Our Wealth")と呼ばれる、所得再分配を評価する運動を作りあげた。ロングの社会改革は大きな人気を集めたが、独裁の傾向にあることを批判された。ロングの暗殺によりルーズベルトに大統領への道が開かれたが、この暗殺がなければ、アメリカの第二次世界大戦への方針も大きく変わっていたであろうといわれている。高校を出た後、旅回りのセールスマンとなり稼いだ金でオクラホマ・バプティスト大学に入り法律を学んだ。弁護士となったが政治に関心を持ち大企業攻撃で民衆の人気を得た。1924年にルイジアナ州知事選挙に立候補したが経験不足のために落選。その後の4年間を精力的に遊説してまわり巧みな演説で人々の心を掴み1928年に最年少で当選。その在任期間中、ハイウェイ、アスファルトまたは砂利の道路、十一の新しい橋を建設することにより失業者救済を行なったが、そのために州の赤字が十倍となりまた多くの金が収賄や不正、リベートに消えた。議員を買収して州議会を牛耳り司法や教員にも影響力をふるった。1929年にはスタンダード石油に重税を課そうとしたためにこれに憤慨した下院によって知事弾劾案が提出されたが買収と脅しで無効にした。1932年からは手下のオスカー・K・アレンを州知事にさせ影から州を支配し、自らは国政を目指して上院議員に当選。フランクリン・ルーズベルトを支持したが、充分な感謝を示されなかったためすぐに袂を分かち、「富の共有運動」("Share Our Wealth")と呼ばれる大企業が独占した富を再分配(共産主義ではなくあくまで資本主義のなかで私企業のもうけを税金として集める)を主張し支持された。しかし、彼にはあまりに敵が多くいつも身の回りをボディガードがかためていた。暗殺をいつも警戒していたが彼の最大の政敵で判事であったベンジャミン・ペイリーを排除するため州法を改正したためか、医師で、ペイリーの女婿であったカール・ワイスにより1935年9月8日、バトンルージュのルイジアナ州会議事堂で銃弾を浴び、2日後に死亡した。ワイスもその場で射殺された。ロングの葬儀には十万人に及ぶ支持者がつめかけた。この暗殺には謎が多く陰謀説もある。妻のローズ・マコーネル・ロングは夫の死後に上院議員をおよそ1年間務め、息子のラッセル・ロングも同じく上院議員になった。また、実弟のアール・ケンプ・ロングも三度州知事を務めている。

ヒューイ・ロングは革新派の人民主義者で、暗殺による非業の最期によって大統領になれなかった人です。彼は「誰もが王様」という非常にアメリカンチックな標語を掲げて、民衆の支持を得ましたが、同時に大量の敵も作りました。彼は世界恐慌中、、「富の共有運動」という、純資産税金の形式をとる富の再分配法案を提案しました。彼の経済政策はケインズ主義的であり、経済を刺激するために、公共工事、大学への連邦支出および老齢年金を主張しました。彼の政策によって病院や教育機関は充実し、学校には無料の教科書が配られました。しかし、彼は強権的な政治手法により、政敵で判事であったベンジャミン・ペイリーを排除しようとしたため、その女婿であったカール・ワイスにより暗殺されてしまいました。ロングの最期は、1935年9月8日にバトンルージュのルイジアナ州会議事堂でワイスに腹を撃たれて亡くなりました。ロングの護衛は、ワイスに62発もの弾丸を浴びせて射殺しましたが、全ては後の祭りでした。ロングは病院に連れて行かれましたが、2日後に亡くなりました。

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Never by God will that be that a King of Bohemia flees from the battle.

神に誓ってボヘミア王が戦闘から退却することはない。

ヨハン・フォン・ルクセンブルクの最期の言葉。ヨハン・フォン・ルクセンブルク(1296年8月10日 - 1346年8月26日)は、ルクセンブルク家のボヘミア王(在位:1310年 - 1346年)およびルクセンブルク伯(在位:1313年 - 1346年)。父は神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世、母はブラバント公ジャン1世の娘マルガレータ。息子に皇帝カール4世がいる。父と息子は皇帝に即位したものの、自身は帝位を得ることはなかった。後に病によって失明したため、ヨハン盲目王(Johann der Blinde)と呼ばれる。フランス語名でジャン・ド・リュクサンブール(Jean de Luxembourg)と呼ばれることもある(この名で呼ばれる人物は複数存在するので注意)。チェコ語名はヤン(Jan Lucemburský)であるが、日本語文献で用いられることは稀である。パリで育つ。1310年、ボヘミア王(ハンガリーとポーランドの王も兼ねた)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカ(エルジュビェタ)とプラハで結婚し、エリシュカの姉アンナの夫であるケルンテン公ハインリヒ6世に代わってボヘミア王に選ばれた(名目上のポーランド王位も得ている)。1313年に父である皇帝ハインリヒ7世が死亡し、次期皇帝の最有力候補者となったが、ルクセンブルク家の強大化を快く思わない選帝侯は、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ルートヴィヒ4世を新皇帝に即位させた。しかし、ハプスブルク家からもフリードリヒ3世が選出され、二重選挙となった。フリードリヒを支持したのはライン宮中伯ルドルフ1世、ザクセン公ルドルフ1世、ケルン大司教ハインリヒ・フォン・フィルネブルフ、ケルンテン公ハインリヒ6世の4名、ルートヴィヒを支持したのはマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルト、トリーア大司教バルドゥイン・フォン・ルクセンブルク(ヨハンの叔父)、ボヘミア王兼ルクセンブルク伯ヨハン、ブランデンブルク辺境伯ヴァルデマールの4名である。1322年、ルートヴィヒ4世とフリードリヒ3世の間で行われたミュールドルフの戦いでは、ヨハンはルートヴィヒ4世の側で参戦した。しかし1323年にはルートヴィヒ4世がブランデンブルク辺境伯位をヨハンに与える約束を破ったことや、ハプスブルク家がハンガリー王カーロイ・ローベルトと結ぶなどの影響から、ルートヴィヒ4世とヨハンの関係は対立へと変化した。ルートヴィヒ4世は対立を続けるが、後にハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト2世らの仲介を受けて一旦和解し、ヨハンは捲土重来を期して勢力の拡大を図る。1327年にシレジア諸侯を臣従させ、シレジアに勢力を伸ばした。ただし、シフィドニツァ公ボルコ2世だけは臣従しておらず、ハンガリーやポーランドと同盟を結んで独立を維持したため、シレジアの完全な併合は1368年までかかることになる。1330年から翌年にかけて2度イタリア遠征を行い、イタリアでの勢力確立を狙うが、この遠征は何の益ももたらさず、失敗に終わった。ヨハンは武勇に優れた名将ではあったが、たびたび財政悪化を招き、ボヘミアの首都プラハには税の徴収の時にしか戻らないとさえ言われた。このため、ヨハン不在の間にチェコ人の大貴族たち(ロノフ家のインジフ・ス・リペー、ロジュンベルク家のペドル1世など)の勢力が拡大した。1315年と1317年には大貴族との対立が頂点に達し、ヨハンは和解のため譲歩を余儀なくされた。これを転機としてヨハンは対外政策に傾斜し、チェコの不在期間が増大し、1333年にはチェコ貴族達から息子カールが招かれることになる。一方、対照的にルクセンブルク伯領の発展には積極的で、そのため今日でもヨハンのボヘミア(チェコ)での評価は芳しくないが、対照的にルクセンブルクでの人気は高いという。ルートヴィヒ4世がローマ教皇と対立して破門となると、再び皇帝打倒の兵を挙げた。ところがその頃から、ヨハンは病の影響で視力が低下し、1340年には完全に失明してしまい、息子カールが政務を代行するような状態になった。盲目になったヨハンは、それでもヨーロッパ各地を転々とし、従者に命じて自分の体と従者の体を紐で結びつけ、従者の先導で戦場を駆け巡ったと伝えられる。1346年、息子カールはルートヴィヒ4世の対立王に選出される。その直後、娘ボンヌを嫁がせていたフランス王太子(ドーファン)ジャン(後のジャン2世)からイングランド軍との戦い(百年戦争)で援助を求められ、ヨハンはカールら周囲の反対を押し切って出陣した。ヨハンはクレシーの戦いでイングランド王エドワード3世の軍勢を相手に奮戦したが、壮絶な戦死を遂げた。失明しながらもなお、死に場所を戦場に求めたその騎士としての生き様は、敵味方問わず大きな賞賛を受けたという。翌1347年、ルートヴィヒ4世が死去し、息子カール4世は晴れて単独のドイツ王(皇帝)になった。

ボヘミアはヨーロッパのヴルタヴァ川流域の盆地をさすラテン語の地名で、現在のチェコの西部・中部地方に位置します。その名は古代に中央ヨーロッパにいたボイイ人に由来します。現在はボヘミアンと言うと、流浪の芸術家や作家を連想しますが、これは15世紀にフランスに流入していたジプシー(ロマ)が、主にボヘミア地方の出身であったからです。これが19世紀ごろになると、伝統的な暮らしや習慣にこだわらない、自由奔放な生活をしている者をさす言葉となりました。ヨハン盲目王ことヨハン・フォン・ルクセンブルクは、神聖ローマ皇帝も輩出したリンブルク=ルクセンブルク家に生まれ、盲目となってからも従者に体を縛り付けて戦場を駆ったと伝えられる武名をもって知られる人です。彼が命を落としたクレシーの戦いは、1346年8月26日に百年戦争の一環としてフランス北部、港町カレーの南にあるクレシー=アン=ポンティユー近郊で行われ、エドワード3世率いる少数のイングランド軍(約1万2千人)がフィリップ6世率いるフランス軍(約3万~4万人)を打ち破りました。この戦いは歴史家が騎士道華やかなりし時代の終焉の始まりを告げるものだったとするように、ウェールズ人の自由農民で構成されたロングボウ部隊が、栄光あるフランス騎士団の突撃を撃退してしまうという、ヨーロッパにおける戦闘方法の変化を如実に表しました。この戦いによる被害は甚大で、フランス軍の死傷者はおよそ1万2千人と言われており、その1割は騎士で、11人のプリンスが含まれていました。そのようなクレシーの戦いにおいて、ヨハンは正統騎士道の最後のきらめきを見せる、見事な散り様を遂げました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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