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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Lassen Sie nur.

やめたまえ。

ヴェルナー・フォン・フリッチュの最期の言葉。ヴェルナー・フライヘル・フォン・フリッチュ(1880年8月4日 ‐ 1939年9月22日)は、ドイツの軍人。1935年‐1938年、陸軍総司令官を務める。ブロンベルク罷免事件の関連で失脚したのち、第二次世界大戦開戦直後にポーランドで戦死した。最終階級は上級大将。デュッセルドルフ近郊のベンラート生まれ。名前の一部の「フライヘア」は男爵の称号を意味し、父親も陸軍中将だった。1898年、士官候補生としてプロイセン野砲兵第25連隊に入営。2年後少尉に任官。1907年から3年間、ベルリンの軍事大学で学ぶ。1911年に参謀本部付。1913年、大尉に昇進。第一次世界大戦にはさまざまな部隊の参謀将校として従軍。設立間もない航空部隊にも籍を置いた。1917年、少佐に昇進。その年プール・ル・メリット勲章を受章。戦後ヴァイマル共和国の国軍に採用され、国防省付となる。のち第5砲兵連隊で部長。1923年、中佐に昇進。1924年、第1歩兵師団参謀長。1926年、兵務局(参謀本部の偽称)で陸軍部長。1927年、大佐に昇進。1928年、砲兵第2連隊長。1931年、少将に昇進。同年第1騎兵師団長、翌年第3歩兵師団長および第3軍管区司令官に転じる。アドルフ・ヒトラーが首相に就任したのちの1934年、ヒンデンブルク大統領により陸軍司令官に任命される。これはヴェルナー・フォン・ブロンベルク新国防相の任命と共に、自分に近い保守的な伝統的プロイセン軍人を軍のトップに据えることで、ナチスの勢力伸張を押さえ込む狙いがあった。しかしこの狙いは成功しなかった。ヒトラーによる再軍備宣言に伴い、1935年6月に引き続き陸軍総司令官となり、同時に上級大将に昇進した。1937年11月5日、ヒトラーはフリッチュらドイツ国防軍の三軍の将を前に侵略戦争の計画を打ち明ける。しかしフリッチュはブロンベルクと共に時期尚早として異議を唱え、ヒトラーの不興を買った(→ホスバッハ議事録)。翌年3月、同性愛の疑いで捜査を受け、陸軍総司令官を更迭された。もとよりこの容疑は無実であり、軍法会議で無罪とされ名誉を回復したが、職務に戻されることはなかった。実態はヒトラーの戦争計画に抵抗したためにブロンベルクと共に失脚させられたといわれている。ヒトラーはこの後、国防軍最高司令部を設置してドイツ国防軍を直接掌握し、戦争への道を突き進む(ブロンベルク罷免事件)。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、第12砲兵連隊の名誉連隊長として、異例ながら最前線で従軍した。9月22日、ワルシャワのプラガ地区での戦闘で戦死した。この大戦で戦死した最初の将官だったため死の状況が詳しく調査されたが、それによれば機関銃弾が弾いた石片が彼の大腿に当たって大動脈を切ったことによる失血死であった。手当てをすれば助かる傷だったが、副官が包帯を当てようとするとモノクルを外して「ああ、やめたまえ」と言ったきりで応急処置を拒否したという。死を望んでの前線での従軍であり戦死だった。

フリッチュはナチスの侵略戦争の計画に反対したために、同性愛の疑いをかけられて失脚した上に、ナチスの起こした戦争で戦死したという悲運の人です。フリッチュとヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥が罷免された、ブロンベルク罷免事件はドイツ陸軍の上層部を一掃する目的による、ナチスの謀略事件であるとされています。ヒトラー本人が謀略計画を知っていたかどうかについては両説がありますが、ヒトラーが希望していた国防軍掌握はこの事件により確実なものとなりました。ブロンベルクの後継としてブラウヒッチュが就任すると、16人の将軍の解任と44人の将軍の異動を伴う粛軍が行われました。その後、ヒトラーは大幅な軍機構改組に着手し、統帥権は国防相からヒトラーにうつり、直接最高指揮権を掌握しました。罷免されたフリッチュには軍法会議により無罪放免されましたが、ドイツ軍人が生命よりも大事にする「名誉」を失ったフリッチュは、あくまでも戦場で死ぬことを求め。そしてポーランド戦で上級大将でありながら、第12砲兵連隊の名誉連隊長として前線へと出征しました。フリッチュの最期はワルシャワ近郊で無謀な突撃を敢行し、重傷を負いましたが手当を拒否し、ほとんど自殺のような形で戦死しました。彼は国葬を以って送られ、戦死の地には直後に石碑が建てられましたが、現存はしていません。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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