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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Dash... I'm tired of fighting. I guess this thing is going to take me.

ダッシュ……もう戦うのに疲れたよ。このことが俺を連れて行ってしまうんだろうな。

ハリー・フーディーニの最期の言葉。ハリー・フーディーニ(1874年3月24日 - 1926年10月31日)は、「脱出王」の異名を取った、ハンガリー・ブダペスト出身のユダヤ人で、アメリカ合衆国で名を馳せた奇術師。本名エリック・ヴァイス。「現在でもアメリカで最も有名な奇術師」と呼ばれるほど認知度は高く、奇術師の代名詞ともなっている。飛行機や陸上競技への造詣が深かった。ハリー・フーディーニという芸名は、当時アメリカで活躍していた奇術師ハリー・ケラーの名前とフランスの奇術師ロベール・ウーダンの姓の綴り "HOUDIN" の最後に "I" を加えたもの。1891年にアメリカで出版された『霊媒術の暴露』(著者匿名)という霊媒のトリックを詳細に解説した本に書かれていた「縄抜け」のテクニックに興味を持ったことでマジシャンへの道を志す。デビュー前後は、従兄弟とともにコンビで興行していた。脱出術を得意とし、各国の警察の留置場や刑務所に収監されての手錠外しによる脱出や、また凍った運河やミルク缶からの脱出を行い、話題となった。「フーディーニに脱出できない所は無い」「不死身の男」「脱出王」と大規模に宣伝するなど、マスコミを利用した売り込み技術はずば抜けた才能があり、当時のアメリカのトップスターとなった。 また、それまであったトランクからの脱出を、助手と奇術師が一瞬で入れ替わるトリックへと進化させ、奇術にスピード性と鮮やかさをもたらした。妻のベアトリス(ベス)と行ったこの入れ替わりマジックは「メタモルフォーゼ(完全変態)」と呼ばれる。俳優としても数本の映画に出演し、そのいくつかは日本などの世界各地で上映されている。最初の出演作「マスター・ミステリー」(1919年)には、ロボットが映画史上初めて登場していることで有名。一方で、最愛の母の死去に伴い当時大流行していた心霊術(スピリチュアリズム、交霊術)信仰へ傾倒。だが、奇術師としての知識と洞察力からそれらがトリックだと気付き、これを暴くことに熱心に取り組んだ。心霊術の擁護を行なっていたコナン・ドイルと一時親交を結んでいたが、フーディーニは手紙の中でドイルを非常にだまされやすい人物と評している。心霊術を調査する為にアメリカの科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』が学者らによる調査委員会を発足させたときにも委員として参加し、奇術師としての知識と才能を駆使して、超能力者や心霊能力者のいかさまを見破ることに貢献した。本物の霊能力者に会い、母親と交信をしたかったが、プロの奇術師であるフーディーニを欺けるような霊媒師など存在するはずがなく、その怒りからサイキックハンターの道を歩んだといわれている(インチキ霊媒師の手口を暴き、その技を改良して本人のステージで披露できるという役得もあった)。1926年、楽屋に訪れたホワイトヘッドという大学生に「腹部を強く殴られても平気」という芸を見せる際、フーディーニが準備していない段階で殴られたことが原因の急性虫垂炎で10月31日に死亡。葬儀に参列したフローレンツ・ジーグフェルドは、棺の前で「賭けても良いが、彼はこの棺の中にもういない!」と言ったという。死の直前、妻ベスに対して「死後の世界があるのなら、必ず連絡をする」と伝えたが、その後何のコンタクトも無かったとベスは語っている。

ハリー・フーディーニは「脱出王」の異名を取った、アメリカの奇術師です。彼の脱出を撮影したフィルムが残されていますが、「メタモルフォーゼ」とまで評されたその手際は、もはや芸術の域に達しています。また彼は心霊術の信仰にも傾倒しましたが、すぐにそれらがトリックだと気づき、それらを暴くことに熱心に取り組みました。このあたりは、後のジェームズ・ランディ(奇術師でユリ・ゲラーのトリックを暴いた人として有名)に通じるものがあると思います。フーディーニの最期は上記の通り腹を殴られたことによる腹膜炎で亡くなったとされていますが、彼はショーに出るために治療を拒んだのでもしかしたらすでに盲腸炎を患っていたのかもしれません。彼は殴られた後二日間眠れないほど苦しみ、高熱を出しました。フーディーニの葬儀は1926年11月4日にニューヨークで行われ、2,000人を超える哀悼者が訪れました。上記の最期の言葉のダッシュとは弟のことで、彼もハーディーンという芸名で同じく奇術師をしていました。

フーディーニの神業を見てみたいという方はこちらからどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=EbvZZsYZmEY
http://www.youtube.com/watch?v=3r8qr-p9z5g
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Children be comforted, I am well.

子供たちよ落ち着け、私は大丈夫だ。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの最期の言葉。フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ) - 1809年5月31日 ウィーン、但し遺体はアイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。たくさんの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。 元来、この曲「皇帝讃歌」はハイドン自身が、オーストリア政府高官への働きかけにより、ハイドン自身がオーストリアの嘱託を受けて作曲した歌曲。後年、この曲の旋律が弦楽四重奏曲として再度取り上げられて変奏曲として作曲された経緯がある。 ハイドン自身、渡英により国歌演奏による国民的意識を高揚させる効果を知るにいたり、オーストリアにも国歌の制定の必要性を痛感した。 最晩年、ナポレオン軍ウィーン進駐時にもハイドン自身がもっとも愛した曲で、高齢と病苦の慰めに、また、ナポレオン・ボナパルトの進駐時にもこの曲をピアノで演奏していたとされる。生涯の大半はエステルハージ家に仕えていて、そのために作られた曲もかなりある。このとき、ほかの音楽家との交流や流行の音楽との接触があまり無かったため、徐々に独創的な音楽家になっていった。1732年に、当時はハンガリー王国領との国境に位置したニーダーエスターライヒ州(当時は下オーストリア大公国)ローラウ村に生まれる。1740年、ウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイターに才能を認められたことから、ウィーンに住むようになる。その後はここで聖歌隊の一員として9年間働いた(後半の4年間は弟ミヒャエル・ハイドンも聖歌隊に加わった)。1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長という仕事を得た。老齢だった楽長のグレゴール・ヴェルナー(Gregor Werner)が1766年に死去した後、楽長に昇進した。彼は30年近くもの間エステルハージ家で働き、数多くの作品を作曲した。音楽のスタイルもより向上し、エステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家のためだけではなく、出版するためにも曲を書くようになった。1781年頃、ハイドンはモーツァルトと親しくなった。ハイドンとモーツァルトは弦楽四重奏を一緒に演奏するなどして交流を深めた。彼はモーツァルトの作品に深い感銘を受け、モーツァルトの最も得意とするジャンルであるオペラや協奏曲の作曲をほとんどやめてしまった。モーツァルトはこれとは対照的に、ハイドンの最新の作品番号33番の弦楽四重奏曲「ロシア四重奏曲」(37番~42番)に応えて、6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を作曲した。モーツァルトはこの作品をハイドンに献呈している。また後にハイドンは、モーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の進学(音楽留学)の世話をしている。1791年から1792年、および1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めた。聴衆はハイドンの協奏曲を聴きに集まり、ほどなくハイドンは富と名声を得た。なお、このイギリス訪問の間に、ハイドンの最も有名な作品の数々(「驚愕」、『軍隊』、『太鼓連打』、『ロンドン』の各交響曲、弦楽四重奏曲『騎士』やピアノ三重奏曲『ジプシー・ロンド』など)が作曲されている。ハイドンはイギリスの市民権を得て移住することも考えていたが、最終的にはウィーンに帰ることにした。ハイドンはウィーンに自らの大邸宅を建て、合唱やオーケストラのための宗教的な作品の作曲にとりかかった。このときにオラトリオ『天地創造』と『四季』、それに、エステルハージ家に捧げるためのミサ曲を6つ作曲している(ハイドンは1796年にエステルハージ家の楽長に再就任しており、エステルハージ家もこの頃までにまた音楽に理解あるニクラウス2世侯が当主になっていた)。ハイドンはまた、生涯に数多く作曲した弦楽四重奏曲の最後の9曲(『皇帝』、『日の出』、『五度』など)を作曲している。この時ハイドンはすでに齢60を過ぎていたが、その創作意欲は衰えることは無かった。1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になった。これは新しいアイディアが次から次へと湧いてくるハイドンにとって、耐え難いものであったことは間違いない。晩年、ハイドンは使用人に看護してもらい、たくさんの見舞いの客がハイドンのもとに訪れたが、しかしこの時期はハイドンにとって、少しも楽しいものではなかった。ハイドンは時々ピアノに向かい、自分でかつて作曲したオーストリアの祝歌を弾くことを慰めとしていたようである。1809年、ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻の中で死去。ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して混乱している使用人たちを何とか落ち着かせようとするものであったという。遺体はアイゼンシュタットに葬られている。なお、ハイドンの埋葬については奇怪な話があり、それは頭の部分だけが150年間切り離され続けたというものである。ハイドンの死後、オーストリアの刑務所管理人であるヨハン・ペーターという者と、かつてエステルハージ家の書記だったローゼンバウムという男が首を切り離したのである。彼らはハイドンの熱烈な崇拝者だったようで、頭蓋骨を持ち去り、丁寧に薬品処理を行なうなどして保存し続けた(ヨハンは、当時流行していた骨格及び脳容量と人格の相関関係についての学説の信奉者であり、他に何人かの囚人の頭蓋骨を収集していた。ハイドンの天才性と脳容量の相関関係を研究したが、脳容量は通常人と変化なかったため、自説を補強することはできなかった。このとき書いた論文のため、のちに頭蓋骨の所在が知れた)。が、結局は露見し、最終的に頭蓋骨は1954年、アイゼンシュタットに葬られている胴体と一緒になることができた。

交響曲の父、弦楽四重奏曲の父ことフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、古典派を代表するオーストリアの作曲家で、現在ドイツの国歌を作曲した人です。オーストリア人の彼が作った曲が、ドイツの国歌として採用されていることは意義深いと思います。この曲は1797年に神聖ローマ皇帝フランツ2世に捧げた「神よ、皇帝フランツを守り給え」(後に弦楽四重奏曲『皇帝』第2楽章の主題に用いられる)に、1841年にアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンがヘルゴラント島で詠んだ詩を付けたもので、権威主義的な諸邦を倒して君主制下での自由主義的な統一ドイツをもたらそうとした1848年のドイツ3月革命のシンボルとなりました。その後ヴァイマル共和政になって初めて正式の国歌となり、ナチス・ドイツ時代には1番のみを国歌としていました。戦後この歌詞は覇権を正当化するものであり、また歌詞に戦後ドイツの領土ではなくなった地名が含まれているという批判を受けました。またハプスブルク家統治下のオーストリア帝国国歌でもあったこの曲が、ドイツ国歌となっていることに釈然としないオーストリア人は多いそうです。ハイドンの作品はほぼ全てのジャンル(オペラから民謡の編曲に至るまで)を網羅しており、膨大な作品の総数はおよそ1000曲に及ぶとされています。ハイドンの最期の言葉は、近くに大砲が命中して混乱している使用人たちを何とか落ち着かせようとして述べられたものでしたが、ドイツ語の原文は見つけられませんでした。ハイドンの死にまつわる話で面白いのは、やはり熱狂的な崇拝者に頭部を切り取られて持ち去られたことでしょうか。150年後に事実が露見して胴体と一緒に葬られることになりましたが、ハイドンにしたら迷惑なことだったと思います。最後にドイツの国歌である『ドイツの歌』(Deutschlandlied)の歌詞と曲をあげておきましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=VxHzC9-HUv0

Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt,
Wenn es stets zu Schutz und Trutze
Brüderlich zusammenhält.
Von der Maas bis an die Memel,
Von der Etsch bis an den Belt,
Deutschland, Deutschland über alles,
Über alles in der Welt!

ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
この世のすべてのものの上にあれ
護るにあたりて
兄弟のような団結があるならば
マース川からメーメル川まで
エチュ川からベルト海峡まで
ドイツよ、ドイツよ、すべてのものの上にあれ
この世のすべてのものの上にあれ

Deutsche Frauen, deutsche Treue,
Deutscher Wein und deutscher Sang
Sollen in der Welt behalten
Ihren alten schönen Klang,
Uns zu edler Tat begeistern
Unser ganzes Leben lang.
Deutsche Frauen, deutsche Treue,
Deutscher Wein und deutscher Sang!

ドイツの女性、ドイツの忠誠、
ドイツのワイン、ドイツの歌は
古からの美しき響きを
この世に保って
我々を一生の間
高貴な行いへと奮い立たせねばならぬ
ドイツの女性よ、ドイツの忠誠よ、
ドイツのワインよ、ドイツの歌よ

Einigkeit und Recht und Freiheit
Für das deutsche Vaterland!
Danach lasst uns alle streben
Brüderlich mit Herz und Hand!
Einigkeit und Recht und Freiheit
Sind des Glückes Unterpfand
Blüh' im Glanze dieses Glückes,
Blühe, deutsches Vaterland!

統一と正義と自由を
父なる祖国ドイツの為に
その為に我らは挙げて兄弟の如く
心と手を携えて努力しようではないか
統一と正義と自由は
幸福の証である
その幸福の光の中で栄えよ
父なる祖国ドイツ

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

I would rather be a servant in the House of the Lord than to sit in the seats of the mighty.

私は権力の座にいるよりも、むしろ神の下僕でいたい。

アルバン・W・バークリーの最期の言葉。アルバン・W・バークリー(1877年11月24日 - 1956年4月30日)は、ケンタッキー州選出下院および上院議員、アメリカ合衆国第35代副大統領。バークリーはケンタッキー州グレーブス郡ロウの近くの丸太小屋で生まれ、ウィリー・アルバン・バークリー (Willie Alben Barkley) と名付けられた。両親のジョン・ウィルソン・バークリーとエレクトラ・イライザ・(スミス)バークリーは、信心深い小作人であった。同州クリントンのマーヴィン・カレッジに入学、スピーチと討論に優れた彼は、1897年に同校を卒業、ジョージア州オックスフォードのエモリー・カレッジ(今のエモリー大学)に入学し、デルタ・タウ・デルタに加わった。1900年に卒業し、その後バージニア州シャーロッツビルのバージニア大学法律学校に入学した。彼が「ウィリー・アルバン」から「アルバン・ウィリアム」に改名したのはこの頃であった。彼は1901年に法曹界入りしケンタッキー州マクラケン郡のパデューカで弁護士業を始めた。1905年から1909年までマクラケン郡検察官、1909年から1913年までのマクラケン郡裁判所の判事を務め、都市の住民よりむしろ農民に同調した進歩人として名声を築き上げた。そのエネルギッシュで気さくな選挙活動と、巧みな演説技術は彼を地元の民主党における有力候補とした。彼は1912年の議会予備選挙で3人の対立候補を破り、連邦下院議員となった。彼はケンタッキー州第1選挙区で民主党から第63議会および次の6つの議会(1913年3月4日 - 1927年3月4日)への下院議員に選出された。下院議員として彼は禁酒法の改正およびボルステッド法の延長に尽力した。彼は1923年のケンタッキー州知事選において反石炭・ギャンブルの活動を率い、州全体にその名が知れ渡った。バークリーは民主党知事候補指名を僅差で失ったが、選挙におけるその唯一の敗北は、1926年の上院選への出馬を助けることとなった。選挙戦で彼はケンタッキー州における知名度を高め、遊説において一日最大16回の演説をこなすことで「鉄人 Iron Man」の愛称を獲得した。バークリーは1926年に上院議員に選出、1932年、1938年、1944年および1954年に再選され、1927年3月4日から1949年1月19日の彼の辞職まで同職を務めた。彼は1937年から1947年まで院内総務、1947年から1949年まで少数院内総務を務めた。バークリーは1932年のシカゴにおける民主党全国大会で基調演説を行った。同大会ではフランクリン・ルーズベルトが大統領候補に選出された。また、1936年および1948年のフィラデルフィアにおける民主党全国大会でも基調演説を行っている。1933年12月、彼は民主党カンファレンスの副議長および上院院内総務ジョセフ・T・ロビンソンのアシスタントとなった。彼はロビンソンと共に、ニューディール政策関連法の可決に取り組んだ。例えば証券取引所法、全国労働関係法(ワグナー法)、社会保障法などである。これらは1934年から36年にかけて上院を通過した。1937年の司法手続改正法案が実施される間にロビンソンは死去し、バークリーはミシシッピ州選出上院議員のパット・ハリスンと院内総務の座を争った。投票では38対37と、1票差でハリスンを破ることとなる。バークリーの最初の妻、ドロシー・ブロワー・バークリーは長期の病気療養の後1947年に死去した。そのような個人的労苦にもかかわらず、バークリーの公的人格は高く評価された。 彼は最も人気がある民主党員として格付けされて、ルック誌の最も「魅力的な」アメリカ人の座をドワイト・D・アイゼンハワー将軍と争った。彼は1948年にハリー・S・トルーマンの伴走候補者に選ばれ、1949年1月20日から1953年1月20日まで副大統領を務めた。1952年に民主党大統領候補の指名選挙に立候補したが高齢が理由で、イリノイ州知事アドレー・スティーブンソンに敗北した。彼は、アメリカ上院議員に再び選任され、1955年1月3日からその死まで同職を務めた。彼はバージニア州レキシントンで死去し、ケンタッキー州パデューカの近く、ローン・オーク・ロードのケントン山墓地に埋葬された。彼の栄誉にちなんで、エモリー大学の討論クラブがバークリー・フォーラムと改名された。

アルバン・W・バークリーは、アメリカの第35代副大統領です。彼は大統領にはなれませんでしたが、その人格的高潔さではアメリカの政治家の中でも屈指でしょう。彼が尽力したボルステッド法とは国家禁酒法のことで、この法律は一般に狂騒の20年代として知られる、1920年代以後の米国協会に強い影響を与えました。禁酒法は無理のある法律であるだけでなく、アメリカ国外では何の影響も持たないため、多くのアメリカ人がアルコール飲料を飲みにカナダ、メキシコ、それにカリブ海へと行きました。しかもアル・カポネとその敵対者バグズ・モランなどの、シカゴの最も悪名高いギャングの多くは違法なアルコールの売り上げを通して何百万ドルもの大金を稼いぎました。カナダからマフィアを通じて酒を密輸入し大きな財を築いたジョセフ・P・ケネディ(ジョン・F・ケネディの父)の話は有名であり、一種の語り草になっています。最期の言葉からも分かる通り、かれは非常に敬虔なキリスト教的精神の持ち主でした。バークリーの最期は、1956年4月30日にワシントンでの会議でスピーチを行う間に、心臓発作で亡くなりました。

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今日の辞世の句 

My God, what's happened?

神様、何が起こったんですか?

ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)の最期の言葉。ウェールズ公妃ダイアナ(1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、ウェールズ公チャールズの最初の妃。1996年に離婚した。1997年、パリでの交通事故により不慮の死を遂げた。それぞれ第2位および第3位のイギリス王位継承者であるケンブリッジ公ウィリアム王子およびヘンリー王子の実母。元来ドイツ発祥で、王位継承者にもドイツ系を主に外国から配偶者を迎える慣例があった同王家としては初めての、両親ともイギリス人の妃であった。ダイアナは、オールトラップ子爵ジョン・スペンサーと子爵夫人フランセスの3女として、サンドリンガム・ハウス(イングランドのノーフォークにあるイギリス王室の邸宅)で生まれた。父のオールトラップ子爵は1975年、第8代スペンサー伯爵を相続した。スペンサー家は15世紀に欧州でも有数の羊商として財をなし、チャールズ1世からスペンサー伯爵の地位を受けた。婚姻関係によってチャールズ2世とマールバラ公ジョン・チャーチルの血筋も受け継いでいる。母方のファーモイ男爵家はノーフォークの名士であった。姉にセーラ・マッコーコデールとジェーン・フェローズ、弟にチャールズ(1992年より第9代スペンサー伯爵)がいる。オールトラップ子爵夫妻はフランセスの不倫が原因で1967年に別居し、1969年に正式に離婚した。父は後に再婚したが、両親の離婚はダイアナ姉妹に大きな心の傷を与えた。ダイアナは最初はノーフォーク、後にケントの寄宿学校で教育を受けたが、極端に勉強を嫌い、成績は悪かった。ただ、乗馬や水泳などのスポーツやピアノは得意だった。16歳の時にスイスのフィニッシングスクールに入っている。母フランセスは、チャールズ皇太子と再婚したカミラ・ローズマリー・シャンド(パーカー=ボウルズ夫人)の一族、ピーター・シャンド=キッドと再婚し、父ジョンはロマンス作家バーバラ・カートランドの娘レイヌ・マッコーコデール(ダートマス伯爵夫人)と再婚した。ダイアナの姉セーラはニール・マッコーコデールと結婚した(レイヌはジョンの死後、フランスのジャン=フランソワ・ド・シャンブラン伯爵と再々婚した)。スイスから帰国したダイアナは社交界にデビューし、1978年11月にバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ王太子の誕生日パーティーで初めて将来の夫と対面する。ダイアナがこのパーティーに招待されたのは長姉のセーラが1977年から1978年にかけてチャールズ王太子と交際していたからである。この交際はうまくいかなかったが、チャールズはスペンサー家のことはよく知っていたのである。やがてダイアナはロンドンのアパートで住むことを許され、保育士として働きはじめた。1980年7月ダイアナは再びチャールズと出会い、交際を深めていった。だが、チャールズには既に恋人のカミラ・パーカー・ボウルズがおり、カミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたと言われる。1981年2月24日チャールズ王太子とダイアナの婚約が発表され、同年7月29日、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンのセントポール大聖堂で結婚し、その模様はイギリス連邦をはじめとする世界各国で生中継され、その後も2人の動向は世界各国のマスコミで大きく報道されることとなった。1982年には長男ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイスが、1984年に次男ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッドが生まれ、同じく世界各国で大きく報道された。その後もイギリス国王の世継ぎの妃としてチャールズとともに様々な王室の行事に出席するほか、日本やアメリカなど世界各国を訪れ、各地で「ダイアナ・フィーバー」と呼ばれるような熱狂的な歓迎を受けることとなった。併せて世界各国のマスコミに常に追いかけられる立場となり「理想のカップル」的な扱いを受けた。だが、将来イギリスの国王となることを念頭に、伝統に基づいたつつましやかな生活と公式行事への参加を常に優先するよう教育され、自らもそれを実践していたチャールズと、まだ20代前半で、公的な生活よりも自由奔放にセレブリティとの派手な付き合いを行うことを好んだダイアナとは、その生活様式や趣味、嗜好が合わず、次第に2人の間には深い溝ができていくこととなった。しかも結婚後もチャールズはカミラとの交際をやめず、この秘密の交際にダイアナは早くから気付いていた。このため、彼女は手首を切るリストカットや腕や太ももを傷つける自傷行為、過食嘔吐などの摂食障害を起こすようになったことを、自叙伝『ダイアナの真実』やBBCテレビのインタビューで明かしている。当時「私は二人分の食事をとっているかもしれないわ」という言葉が、「三人目懐妊か」と世界中の新聞に掲載されたが、これは実際は妊娠ではなく過食症の状況を暗示していた。なお1988年から専門医による治療を受け、これらの症状は回復したという。1997年8月31日に、フランスの首都のパリで、当時の恋人であるエジプト系イギリス人の大富豪のドディ・アルファイドとともにパパラッチに追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツS280のハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝した。36歳という若さであった。BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」と報道していたものの、その後間もなく事故の際に受けた脳損傷などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。訃報が知れわたった翌日9月1日には、ダイアナの居住していたケンジントン宮殿の門前にはたくさんの人々が訪れ献花や死を悼むカードが捧げられ、各国のイギリス大使館には記帳台が設置された。ダイアナの遺体をフランスまで引き取りに行ったのは、かつての夫チャールズであった。

シンデレラストーリーというと、世の女の子の憧れの的かもしれませんが、現実の世界でお姫様を演じるのはなかなか大変なことです。ダイアナは貴族の家の生まれでしたが、一時期は保育士として働いており、チャールズ王太子との出会いは世紀の大恋愛だとされました。しかし、現実は夫の不倫による過食症に悩まされたりと、楽な生活ではありませんでした。常にマスコミに監視され続けたことも彼女に大きなストレスを与え、最期はパパラッチに追跡された果てに、乗車しハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝したました。36歳という若さを考えると、早すぎるシンデレラの最期でした。国葬にすべきとの世論がすぐにイギリス国内で高まったが、王室の伝統に鑑みて、トニー・ブレア首相は「国民葬」にする旨を発表しました。9月6日、ウェストミンスター寺院で国葬に準じた盛大な葬儀が行われましたが、バッキンガム宮殿に半旗が掲げられないことから「王室はダイアナの死を悼んでない」との非難も沸きあがりました。2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で第3位となるなど、彼女は国民から高い人気を得ており、当時の世論調査では王室について廃止意見が存続意見を上回っいただけに、王室はその対応に慎重にならざるを得ませんでした。

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【鑑賞】戦場でワルツを 

『戦場でワルツを』(2008)を鑑賞

 5月27日の活動で『戦場でワルツ』を鑑賞。非常に有名な映画で話題になっていた記憶があるが、まだ観ていなかった。イスラエルの監督の自伝的なドキュメンタリーで、舞台がレバノン内戦であるということは知っていたが、実際に観てみるまでは、なぜアニメーションなのかという点もピンと来なかった。実際に観てみると、非常によくできているの一言。なるほど、というべきか。

 自分の中にある心象風景をもとに、同じ戦場を経験した部隊の仲間を訪ね、戦場の記憶を徐々に辿っていくというストーリー。前提知識なくこの映画をみると、①彼はなぜベイルートにいるのか。②何が起こったのか(主人公の失った記憶とは?)という命題を考えながら話を追う事になるが、そのへん、ストーリー構成が非常に良く出来ているのでよかった。「なんだ、なんだ?」という感じで、そうした視聴者の思考を追う形で話が展開して行くあたり、例えて言うなら芥川の『藪の中』に近い。『藪の中』は、「真相はなんだ」というのが読み手の中核にあるけれど、この映画は、「リアリティとは何か」というのを考えさせられる。その点でも、非常にうまい。

 まず、主人公がPTSDの症状を抱えていることを、女医が彼に戦場のカメラマンの例を話しながら説明する場面がある。そのカメラマンは旅行者として戦場にいた。カメラを通してみるフィクションのように戦場を眺め続ける彼は、まるでアクション映画をみているように「すごい!すごい!」と興奮していたんだけど、あるときカメラが撃たれる。自己防衛として存在したレンズを失った彼は、現実に素手で触れてしまった。それからおかしくなってしまったという話。その話のあと、女医の質問に主人公は「休暇の記憶は鮮明なんだ」と答える。

 舞台は戦場。それなのに、時折流れる陽気な音楽。遠足気分の兵隊。で、その瞬間、一発の弾丸で世界が変わる。そんな描写が冒頭にある。(このへんの雰囲気はシュタゲに似てる)女医の話のところで、ああ、我々がみているのは主人公の自己防衛としての映像で、時々起こるシュタゲ的な風景描写は、その自己防衛からこぼれ落ちた現実の断片なんだなと気付くわけだけど、それもどこか〝リアリティー〟がない。

 リアリティーがないとはどういうことか。例えば、物語の後半。西ベイルートへ抜ける広い幹線道路での戦闘シーン。その様子を周りの建物から見物している住民。戦場のリアリティーの中にいる兵士とその様子を外から見ている周囲の住人(観客)という不思議さ。その場にいた記者も「不思議な光景だった」と回想する場面だが、その刹那、ショパンの曲に合わせて狂ったように銃を乱射し始める主人公の上官シュミュエル・フレンケル。(どうやら、「バシール暗殺の復讐劇だ」と叫んで、ショパンに合わせて機関銃乱射しながら気の狂れたワルツを踊るこのシーンが映画タイトルの由来らしい。)このへんの不思議さがなんとも。

 さらにうまいのは、話が終盤に差し掛かって、サブラー・シャティーラの虐殺になると、今度は、虐殺を主人公のイスラエル人が外からみているという図式に変わる。さっきの気の狂れたワルツの幹線道路の戦闘とは逆転して、虐殺の現実はパレスティナ人のリアリティー。それを何のことか分からず戸惑いながらみている主人公たち。アングルがぐるっと変わるわけね。でも、本人たちもなにがなんだか分かっていないという点では、さっきと同じ。なんだか不思議な感じで図式が変わる。そこにあるのは永遠と続く弱者の列。―これがアウシュヴィッツの記憶と重なって主人公の記憶を欠落させたんだ云々というのは、まあ、ともかくとして―その虐殺は、イスラエル軍幹部の「ストップ・シューティング。」の一言で終了するという。「GO HOME!」の一言で列は消えて、虐殺の結果だけが残る。これで終われば、「リアリティーとは何か」という命題を感想としてなんとなく漠然と終わったんだろうけど、ラストだけ「実写」というのがよかった。ただ不思議な感じで終わるんじゃない。「あ、そうだ。現実だったんだ。」と気づかされてそのままプツンと終わる。そんな映画でした。


Category: かつどう!

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