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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

(妻に向かって)
おい、だっこ。

大宅壮一の最期の言葉。大宅壮一(1900年(明治33年)9月13日 - 1970年(昭和45年)11月22日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。毒舌の社会評論家として有名である。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋に父・八雄、母・トクの三男として生まれた。祖父の八右衛門は、嫁入りの日に差し押さえを受けるような貧しい所から富を作ったり、法廷へ出るのに衣類が無くて薦を被って行ったという者の金まで絞り取る程の残酷な人だったが、妻子には甘かった、と大宅壮一自身が書き残している。旧制富田尋常小学校、高等小学校を卒業。小学校を卒業後は大阪へ“商業見習”に出るつもりであった。大阪の姉のもとへ修行へ出たりしている。この時に、丁稚や番頭らと質草の値踏みの練習を毎晩したが、壮一は番頭よりも値踏みが上手であったという。一方で親友が遠く離れて勉学に勤しむ姿に触発され、自身も中等学校への進学を親族に頼み込み、承諾を得た。入学の申請書類を小学校へ受け取りに行ったのはなんと中学校の入学試験の前日であったという。 なお、小学校時代からの友人に大川光三がいる。旧制茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)入学。一般的には尋常小学校を出て中等学校へ進むところを、高等小学校を出てから中等学校へ進んだため、同級生より年長であった。川端康成が三学年上に在籍していた。当時の中学生向けの雑誌『少年』『少年倶楽部』などに作文や俳句を投稿したものが選ばれてメダルや昆虫採集用の虫籠など多くの懸賞を得ている。この頃、学内では大宅に関して、『部屋の四方をめぐらす鎖ほどのメダルを投稿で得ている』という噂され、川端康成も耳にしていたという。中学在学中の将来の夢は、まだジャーナリストではなく、渋沢栄一やカーネギーのような実業家であったり(実家の醤油業が傾いていた事に因る)、文学者、渡米して学者、であったりしている。家業をこなしつつ文学に親しむ一方で、ドイツ語とフランス語を独習していた。やがて教育勅語への疑問、米騒動の支持などから中学校からは好ましからざる生徒と目された。また、街の教会に講演に来た賀川豊彦に出会い、こころひきつけられる。中学校での友人の中には、秀才の寄気実英がいる。兄が家の金を持ち出して行方をくらました際に、父に兄の探索を命じられて大阪の松島遊郭を一軒々しらみつぶしに探し歩いた事もあるという。1919年(大正8年)、第三高等学校に入学。三高では茨木中学で一学年上であった文学好きの秀才・小方庸正と同級生となる。小方とは茨木中学時代から親交があり、時に病に伏せる小方が大宅に死の覚悟を打ち明けたりしている。学生生活は、弁論部に所属したり、校友会雑誌『嶽水会雑誌』に投稿をした。三高在学中に茨木中学校で制服に関するストライキが起きたが、背後に壮一の暗躍があったと言われている。兼ねてより心酔していた賀川豊彦が1921年(大正10年)に携わった川崎造船所の大規模ストライキには、馬上で指揮する賀川の伝令役を務めた。三高在学中の壮一はマルクス主義に傾倒していたという。1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部社会学科入学。帝大時代の大宅は小倉の袴にオールバックという出で立ちだった。大学1年の時に妻和子を東京へ呼び、下落合に間借りするも、生活費を稼ぐために東京帝大へ通学する傍ら、夜は下谷の岩倉鉄道学校で夜学の英語教師をした。また、長女が誕生している。東大新人会にも片足を突っ込んでいる。イデオロギー的な表現を嫌い、「無思想人」と自称していた。ただし宗教と偽善者の排撃は終生止めなかった。中国で発生した文化大革命については幼い紅衛兵が支配者に利用され暴れてまわる様子を「ジャリタレ革命」と論評した。1967年(昭和42年)1月に「大宅壮一東京マスコミ塾」(略称・大宅マスコミ塾)を開塾する。逝去で幕が閉じられるまで、8期480名の塾生を送り出した。この年東南アジアへ船で旅行した時、同行した青地晨の回想では、航海中に海が荒れ大宅は階段から転げ落ちて腰骨を打ったが、それでも狭いカイコ棚のベッドで英和辞典を引き『バートン版 千夜一夜物語』(集英社)の新訳を続行したという。「週刊文春」の連載対談に登場するなど、面識のあった三島由紀夫が、割腹自決(三島事件)する3日前に病没したので、後々まで多くの人たちから「生きていればあの事件をどう論評したか」と惜しまれた。娘の映子は、「ジャーナリストとして光栄なこと」とコメントしている。大宅門下で三島の友人でもあった村上兵衛の『昨日の歴史 大宅壮一と三島由紀夫の生と死』(光人社 2000年)に詳しい。葬儀は同郷の生まれの川端康成が弔辞を読み、仕事仲間の池島信平が主に取りまとめた。

大宅壮一は日本のジャーナリストとして、もっとも有名な人の一人でしょう。「一億総白痴化」や「恐妻」「口コミ」といった言葉を誰もが聞いたことがあると思いますが、これらの言葉は彼の造語です。彼の伝記は、門下生の大隈秀夫『裸の大宅壮一 マスコミ帝王』、若き日の伝記には猪瀬直樹『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』などがあります。彼はジャーナリストとして、縦横無尽に資料を使いこなして記事を書きましたが、彼は情報の使い方について非常に示唆に富んだ言葉を残しています。「本は読むものではなく、引くものだよ」。もう一つ彼の残した言葉を紹介しておきましょう。晩年に色紙にこのんで書いた言葉に「美しく死ぬことはやさしい。しかし美しく老いることはむずかしい」というのがありますが、これは至言でしょう。「死ぬことは易く、生きることは難い」とは、万古普遍の真理であると言えるでしょう。三島由紀夫の割腹自決を彼がどう論評したかという疑問は、この言葉を思えば明白であるように思われます。彼の最期は1970年(昭和45年)11月22日3時4分に一度心臓が停止し、3時43分に心拍が停止し亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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