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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Surgite!

Push On!

続け!

アイザック・ブロックの最期の言葉。アイザック・ブロック(1769年10月6日 - 1812年10月13日、バス勲章)は、イギリス陸軍少将であり、イギリスの植民地アッパー・カナダの統治者であった。戦闘における優れた指揮と戦略家としての名声を得、特に米英戦争においては劣勢であったイギリス軍で、アメリカ軍の侵略に対抗した。この功績でナイトの爵位を授けられ、アッパー・カナダの英雄という呼び名も貰った。ブロックは1802年にカナダ駐在となり、アメリカ合衆国とカナダの国境の防衛責任者となった。カナダやイギリスの多くの者が米英戦争を避けられると考えていた時、ブロックは戦争に備えて軍隊や民兵の準備を整え始めた。戦争が始まった時、一般大衆の準備はできており、緒戦のマッキナック砦やデトロイト砦で勝利し、アメリカの侵略を止めた。カナダでは兵士の脱走や反乱という苦難にも直面したが、ブロックの英雄的な行動が称えられ、バス勲章も受章した。また、ショーニー族の指導者テカムセと共に戦う機会もあった。クィーンストン・ハイツの戦いにおけるブロックの戦死は、イギリス軍の指導力にとって大きな痛手となった。ブロックは米英戦争におけるデトロイト砦の占領などの功績で広く知られているが、それ以前にも輝かしい軍歴があり、軍隊における出世が速かった。ブロックの速い昇進について運や他の技量を上げる者もいるが、運・技量のどちらも傑出してくるだけのものを持っていたと言っても過言ではない。1807年、ブロックはカナダ総督のジェイムズ・ヘンリー・クレイグによって、准将に昇進し、1810年にはアッパー・カナダの全軍を指揮することになった。副総督のフランシス・ゴアがイギリスに戻ったので、ブロックが暫定的な副総督となり、アッパー・カナダの統治者となった。このために、ブロックは軍政面も民政面もすべて見ることになった。ブロックは、アッパー・カナダの管理者として戦争に備えて幾つかの改革を行った。植民地議会の反発はあったものの、まず軍法を改定し、志願兵の利用を可能にし、これら新兵の訓練を強化させた。さらに守りの強化と補強を続けた。またショーニー族の指導者テカムセなどのインディアン指導者と渡りを付けアメリカとの戦争が起こった場合にイギリスと同盟するかを確認した。当時の一般的な見方ではカナダは侵略されれば直ぐに落ちてしまうとされていたが、ブロックは植民地の戦力で戦う戦略を模索し続けた。ブロックがアメリカインディアンのショーニー族の戦士テカムセや他のインディアン同盟軍に見せた態度は注目に値する。ブロックの交わした文書を見れば、ブロックがインディアンを父親のような謙りでみていたことが分かるが、テカムセ自身を非常に高く評価していた。ブロックはテカムセを「インディアンのウェリントン公」と呼び、「テカムセより賢明で勇敢な戦士はいないと信じる」と言った。インディアン達にもそれなりの尊敬の念で接した。ブロックの個人的な高潔さは文書にも表されており、ブロックが生きておればインディアンの故郷についてショーニー族に約束したことを守ったであろうことがわかる。ブロックは、広い公的な教育が欠けていたが、教育の重要性を認めていた。ブロックは暇な時は部屋に閉じこもり、その教養を高めるための読書に耽っていたと報告されている。ブロックの好みは様々であり、戦術や軍事科学の著作を多く読む一方で、哲学や他のやや実践には直接結びつかない分野の本も読んでいた。ブロックの死んだ時に、そのささやかな蔵書の中にはウィリアム・シェイクスピア、ヴォルテールおよびサミュエル・ジョンソンのものも含まれていた。アメリカ合衆国は1812年6月12日にイギリスに対する宣戦を布告した。ブロックは現状の準備では植民地全体の安全を守るには不十分だと感じたので、逆に攻勢に出て、戦略上重要なマッキナック砦を奪取する行動に出た。この作戦は完全な成功であったが、ブロックはまだ足りないと思った。ブロックはテカムセの援助を確保してデトロイトに向かった。デトロイト砦の奪取はアメリカの士気を損ない、その地域のアメリカ軍の脅威を取り除いたことで、ブロックにとって大きな勝利であった。翻ってカナダ人の士気は大いに上がった。ブロックはアメリカ軍の物資を抑え、装備の薄い民兵に配分することで自軍の戦力を上げた。最後に、戦うことを能力の印でありやる気を示すことであると考えるテカムセや他のインディアン酋長達の支援を確固たるものにした。ブロックはデトロイト砦奪取の功績に対してナイトの称号を受けたが、その知らせが届く前にクィーンストン・ハイツの戦いで戦死した。1812年10月13日の早朝、アメリカ軍はナイアガラ川を越えてクィーンストン・ハイツの戦いに突入した。イギリス軍からの激しい砲撃をものともせず、第一派のジョン・E・ウール大尉指揮する部隊は川の向こう岸に上がり、漁師道を通って丘の上に向かった。続いてイギリス軍砲兵隊を攻撃し潰した。近くにあったジョージ砦にいたブロックは丘にいる小さな部隊を指揮するために急行した。大砲が使えなくなり、アメリカ軍の残りの部隊も川を越えてくることを恐れたブロックは、丘の上からの直接攻撃を命じた。率先垂範しなければ命令するに値しないというブロックの個人的な哲学そのままに、ブロック自ら攻撃隊の先頭にたった。この攻撃は成功したかに見えたが、そこで反撃を食らった。ブロックは手を撃たれたが、さらに第二次攻撃も指揮した。ブロックの将軍服は明白な目標になっていたので、この時にアメリカ軍狙撃兵に撃たれて戦死した。狙撃兵の一人はブロックの音信不通になっていた兄弟でマッケンジー・ブロックといい、アメリカに寝返った後アメリカ市民となっていた。マッケンジーが子供の時に、アイザック・ブロックに屋根から落とされてあやうく死にかけたことがあった。ブロックの最後の言葉はsurgite(ラテン語で立ち上がる、あるいは続行するの意)、あるいは「続けよ、勇敢なヨークの雄志よ」、あるいは「私の死に注意を向けてはならない、それは勇敢な仲間が勝利を得ることを妨げる」と様々に伝えられている。しかし、ブロックは即死とも伝えられており、これらの証言に確としたものはない。ブロックの死の後で、シェフが戦場に到着しイギリス軍の指揮を執った。直接攻撃を行った前任者とは対照的にシェフはより注意深い態度を選んだ。このことが最終的には成功し、アメリカ軍に対する勝利に繋がった。イギリス軍の損失は50名程度であった。この戦闘中第49連隊は「将軍の仕返し」を鬨の声につかったという。マッケンジー・ブロックが捕虜になったとき、水に漬けられて裏切りの懺悔をやらされた。

アイザック・ブロックは米英戦争における、イギリス軍最大の英雄です。その人格的高潔さやインディアンにとった真摯な態度などから、彼はカナダ人ではないにもかかわらず、現在もカナダ人から大きな人気を得ています。彼の最後の戦いとなったクィーンストン・ハイツの戦いは、現在のオンタリオ州クィーンストン近くでイギリス軍とアメリカ軍との間に戦われた戦闘で、アメリカ軍が冬季に入る前にナイアガラ川を越えてカナダ側に拠点を築こうとして始まりましたが、イギリス軍の砲撃と、訓練が行き届かず経験も無いアメリカ軍民兵の一部が進軍を躊躇ったために、不成功に終わりました。しかしこの戦いにより、数的には劣勢のイギリス軍を引っ張って成果を残してきていたブロック将軍が戦死し、その後の戦争の経過に重大な影響を残しました。彼の最期の言葉については諸説あり、"Push on, brave York Volunteers!" (続けよ、勇敢なヨークの雄志よ!)というものもありますが、ブロックが倒れた時、即死であったとか、近くにヨーク兵は居なかったという説もあり、後世に作られた伝説である可能性も高いようです。ブロックの葬列は政庁からジョージ砦まで続き、イギリス軍の兵士、民兵、インディアン達が道の両側に並びました。棺はジョージ砦の北東隅に新しく掘られた墓穴に降ろされ、イギリス兵は21発の弔砲を3度鳴らし、弔意を表しました。その日遅くには、敵であるナイアガラ砦のアメリカ軍守備兵も同じように弔砲を鳴らしました。数千の人々が葬儀に参列しましたが、当時のアッパー・カナダの人口を考えれば驚くべきことでした。ブロックの遺骸はその後3度移され、最終的には1853年10月13日ブロック記念碑の中に納められ、数千の人々が最後の埋葬に参会しました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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