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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Οὐδεὶς γάρ, δι᾽ ἐμὲ τῶν ὄντων Ἀθηναίων μέλαν ἱμάτιον περιεβάλετο.

(死の床において友人たちが自分の美徳を列挙したのを聞いて)
私のせいでアテネ市民が誰ひとり喪服を着ていないことだ

ペリクレスの最期の言葉。ペリクレス(紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家であり、アテナイの最盛期を築き上げた政治家として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になった小ペリクレスと区別して大ペリクレスとも呼ばれる。ペリクレスは父は紀元前479年のミュカレの戦いの指揮官クサンティッポス、母はクレイステネスの姪であり、アナクサゴラスの弟子でもあった。紀元前462年、ペリクレスは貴族派のキモンが出征中の不在を狙って、民主派のエフィアルテスとともにアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占した。前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年連続strategosストラテゴス=「将軍職」に選出され、アテナイに全盛時代をもたらした。また、キモンが古来からの領地による富の再配分を行なっていたのに対し、ペリクレスは自ら積極的にアゴラでの売買を行ない、アテナイが商業的なアゴラを推進するきっかけともなった。この頃、ペルシア戦争に勝利したアテナイは全盛時代を迎えていた。大国ペルシアの脅威が薄れると、デロス同盟の盟主であったアテナイはその同盟資金を自己の繁栄のために流用するようになった。デロス同盟は対ペルシア防衛機関という本来の主旨を失い、所謂「アテナイ帝国」を支える機関へと変質を遂げていたのである。ペリクレスはデロス島において管理していた同盟資金をアテナイでの管理に移し、パルテノン神殿などの公共工事に同盟資金を積極的に流用しアテナイ市民の懐を潤した。アテナイが同盟内のポリスに対して専制的に振る舞うようになると、同盟から離脱しようとするポリスとの間に対立が生じるようになる。また、ペルシア戦争の勝利に大きな貢献をしたもう一つの有力ポリススパルタもアテナイの動きを冷ややかに見ていた。スパルタがデロス同盟から離反したポリスを支援するようになると、紀元前431年、両者の間に戦争が勃発した(ペロポネソス戦争)。ペリクレスは強力なスパルタ陸軍に対し籠城策をとり、海上決戦の機会を狙っていたが、翌年城内に伝染病が発生したことで多くの市民が犠牲となって急速に市民の支持を失い、自らも病に罹って没した。この時に取った戦争方針から「防御的な行動で敵の疲弊を待ち、現状維持を狙う戦略」をペリクレス戦略と呼ぶことがある。ペリクレスは弁舌に優れた政治家であった。格調高いペリクレスの演説は現代にまで伝えられ、欧米の政治家の手本となっている。1954年に発行されたギリシャの旧50ドラクマ紙幣の肖像に使用されている。

ペリクレスはアテナイの最盛期を築き上げた政治家であり、古代ギリシアの自然哲学者でイオニア学派の系譜をひくとされるアナクサゴラスの弟子です。ペロポネソス戦争は、アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とする、ペロポネソス同盟との間に発生し、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争となりました。この戦争は最終的にペリクレスの死後の紀元前404年にはアテナイ市が包囲され、アテナイの降伏を以って終結しました。ペリクレスは弁舌に優れた政治家でありましたが、デロス同盟の資金や海軍を勝手に流用したのは少々汚かったかもしれません。とはいえ世界一有名な世界遺産の一つである、パルテノン神殿を建設したのは彼の功績であり、古代ギリシアの文化を今に伝えています。もう一つの彼の遺産は、弁論による民主主義の発展です。彼は古代ギリシャの政治家の理想型とされ、彼が現在に至るヒューマニズムと民主主義の根源である、表現の自由を確立したとされています。

ペリクレスの最期については非常に良い漫画がありますので、よろしければご覧ください。
http://www.usio.co.jp/html/herosbiographia/hb_06/_SWF_Window.html?pagecode=32

http://www.usio.co.jp/html/herosbiographia/index.html
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

Water.



ユリシーズ・グラントの最期の言葉。ユリシーズ・グラント(1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の一人である。軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。オハイオ州クラーモント郡ポイント・プレザントで、ジェシー・R・グラントとハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。出生時の名前はハイラム・ユリシーズ・グラント(Hiram Ulysses Grant)。グラントの父親と母方の祖父は、ペンシルベニア州で生まれた。父親は製革業者だった。1823年の秋に、一家はオハイオ州ブラウン郡のジョージタウンへ移住した。グラントは、17歳になるまでほとんどの時間をそこで過ごした。17歳のときに、オハイオ州選出の下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントの陸軍士官学校への推薦を受け取った。この際ハマー議員は誤って「ユリシーズ・S・グラント」として彼を登録してしまった。しかし、グラントはそれが気に入ったようで、以降はその名前で通した。また、ミドルネームのSは母親の旧姓のシンプソンから取ったとまで、周りに説明していた。グラントは、1843年に39人中の21番でウェストポイントを卒業した。グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍し、レサカ・デ・ラ・パルマ、パロアルト、モンテレーおよびベラクルス包囲戦に参加した。モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進し、チャプルテペクの戦いの後に中佐に昇進した。1854年7月31日に多量飲酒を理由に軍隊を辞職した。辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイ州ガリーナで父親の皮革・金物店の経理助手となった。南北戦争において、グラントは最優秀の将軍の1人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において両軍を通じて最も優秀であったといえる。優秀な司令官をもたなかったために再選が危うくなったエイブラハム・リンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた。南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事はグラントを反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊は南北どちらであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦とドネルソン砦を奪取し(ヘンリー砦の戦い、ドネルソン砦の戦い)、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した(シャイローの戦い)。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる。10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるビックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月4日にこれを陥落させた(ビックスバーグの包囲戦)。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日の翌日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部において南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクドウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てられることになる。1864年3月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサバンナへの海への進軍を行った。その途上の各都市を破壊し、物資の略奪を公然と行った。南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。荒野の戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして水上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに水路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対する軍に救援が送れず、シャーマンはやがてサバンナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。リーは最後の賭けに出てピーターズバーグを放棄し、南に撤退しジョンストン率いるテネシー軍と合流しようとしたが(アポマトックス方面作戦)グラント率いる北軍に捕捉されアポマトックス・コートハウスで遂に降伏した。これによりなし崩し的に残りの南軍部隊も次々と降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に陸軍元帥の階級を新しく作成してグラントを任命し、その労をねぎらった。グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選では、合計5,716,082の投票中3,012,833票 (52.7%) を得票し勝利した。グラント政権は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件では、個人補佐官オービル・E・バブコックが不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍長官ウィリアム・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、支持が急落した。1879年6月には国賓として日本を訪れた。グラントはアメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮で明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることとなった。1883年に全米ライフル協会の第8代会長に選ばれた。1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し、マーク・トウェインの勧めもあって、回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に快適な収入を与えることとなった。1885年7月23日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。

ユリシーズ・グラントは南北戦争における、北軍最大の英雄であり後に大統領にまでなりました。しかし彼は汚職とスキャンダルにより、歴史家からアメリカ最悪の大統領の一人とみなされています。南北戦争は南部の理屈の方が筋が通っているので、南部に肩入れしたくなります。グラント将軍は軍事の才能はともかく、過度の飲酒で軍籍を解雇されたり、作戦とはいえ都市の物資の略奪を行ったりと、あまりよろしくない話が多い人です。またグラントは最終的に勝利を収めましたが、戦術指揮能力はライバルのリー将軍の方が高かったというのが一般的な評価です。南北戦争で特に有名な戦闘として、コールドハーバーの戦いを紹介しておきましょう。この戦いはアメリカ史の中でも流血が多く、一方的な結果となったことで記憶されており、南軍の防御を施した部隊に対し北軍が絶望的な正面攻撃を敢行して、数千の兵士が倒れたとされています。グラントはその自叙伝の中でこの戦闘のことを。「私は常に、コールドハーバーでの最後の攻撃が行われたことを後悔してきた。同じような攻撃が1863年5月22日にビックスバーグでも行われたと言うことが出来る。コールドハーバーでは、我々の受けた大きな損失を償えるようなものは何も得られなかった。」と述懐しています。グラントはそのまずい決断故に「不器用な肉屋」とまで呼ばれ、北部州では厭戦気分が高揚しました。しかし皮肉にもこの結果が北部とグラントに幸運をもたらしました。リーはこの戦果が、エイブラハム・リンカーンに対する政治的反動を生み、1864年の大統領選挙ではもっと平和を志す候補者に敗れることを期待し、ピーターズバーグにむけてほとんどグラント軍を攻撃せず、戦争の残り期間(その最後の1週間を除いて)防御を施した塹壕線の背後でリッチモンドを守ることで過ごしました。周知のとおりこの期待は叶わず、9月のアトランタ占領によってそれらの望みは崩壊し、アメリカ連合国の終焉は時間の問題となりました。グラントの最期は1884年に63歳で喉頭癌により亡くなりました。

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今日の辞世の句 

Take away those pillows. I shall need them no more.

その枕を持っていってくれ。もう必要ないだろうから。

ルイス・キャロルの最期の言葉。ルイス・キャロル(1832年1月27日 - 1898年1月14日)は イングランド北西部チェシャー州ダーズベリ出身のイギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人である。本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンで、作家として活動する時にルイス・キャロルのペンネームを用いた。このペンネームは "Charles Lutwidge" をこれに対応するラテン語名 "Carolus Ludovicus" に直し、再び英語名に戻して順序を入れ替えたものである。なお、 "Dodgson" の実際の発音は「ドジソン」ではなく「ドッドソン」に近いという説もあるが[1]、この記事では慣例に従い「ドジソン」と表記する。作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常に良く知られている。「かばん語」として知られる複数の語からなる造語など、様々な実験的手法で注目されている。数学者としては、チャールズ・ドジソン名義で著作を出している。キャロルの作品は出版以来人気を博し続けており、その影響は児童文学の域に止まらず、ジェイムズ・ジョイスやホルヘ・ルイス・ボルヘスのような20世紀の作家らにも及んでいる。1832年1月27日、チャールズ・ドジソン(後のルイス・キャロル)は前述の教区牧師チャールズ・ドジソンの長男としてチェシャー州ウォーリントン、ダーズベリの小さな牧師館で生まれた。チャールズの上には2人の姉がいた。またチャールズの下には8人の弟妹がいたが、女7人、男4人の兄弟姉妹全員が、だれひとり夭折せずに成人となることができた。1856年3月18日にチャールズはオックスフォードの学友であるレジナルド・サウジーとともにカメラを購入し、写真撮影を趣味とするようになった。テイラーの計算によれば、現存する作品の半分以上は少女を撮影したものである。カメラを入手した1856年のうちにチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル(当時4歳)の撮影を行っている。ただし、後述するように、現存する写真はチャールズの全作品の三分の一に満たない。チャールズのお気に入りの被写体はエクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンであった。エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。1880年にチャールズは16歳のエクシーの水着写真を撮影する許可を取り付けようとしたが、これは許されなかった。ほぼすべての少女写真では、被写体の名前が写真の角に色付きインクで記されている。チャールズの作品の中には、少女たちに中国人風やギリシャ人風、物乞い風など様々な衣装を着せて撮影された、今日でいうところのコスチューム・プレイの写真が多数含まれている。チャールズが少女ヌードを撮影していた理由としては、チャールズがロマン主義の影響を強く受けており、神に最も近い純粋無垢な存在として裸の少女たちを見ていたのではないかとの指摘がある。一方で、彼の少女ヌードの撮影やスケッチは、後の章で述べるように、長らくチャールズを小児性愛者であるとの推測に結び付けてきた。

よく知られているように、ルイス・キャロルは数学者です。彼はは物真似と物語の達人でもあり、若いころから作家か画家になりたいと思っていました。キャロルは子供向けの本によって収入を得るという考えを暖めており、『不思議の国のアリス』を書き驚異的な成功を収めました。彼は学寮長であるヘンリー・リデルの娘たち、ロリーナ、アリス、イーディスの3姉妹と親しく交際しており、三姉妹を連れてのボート遊びは、一種の習慣となっていました。リデルの娘のアリスが、『不思議の国のアリス』のモデルになったとされています。一般的にルイス・キャロルはロリコンであったとされており、成人女性に興味を持たなかったとされていますが、実際には彼は既婚や独身の多くの女性との交際を楽しんでいました。彼が少女の写真を撮ることを趣味としていたのは事実であり、その中にはヌード写真も含まれていましたが、彼の趣向は今の感覚からすると異常と言われるようなものではありませんであいた。第二回国際ルイス・キャロル会議では、キャロルの「少女愛者」像は、はっきり「神話である」と扱われています。ヴィクトリア女王がキャロルに「あなたの著書を送って欲しい」と依頼したところ、数学本『行列式初歩』を受け取って驚いたという逸話がありますが、これは後世に作られた冗談です。ルイス・キャロルの最期は、1898年1月14日にインフルエンザに続く肺炎で亡くなりました。

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今日の辞世の句 

Die? I should say not, dear fellow. No Barrymore would allow such a conventional thing to happen to him

死? 私は違うと言うべきだ、愛しい友よ。バリモアはそのような因習が彼の身に起こることを認めない。

ジョン・バリモアの最期の言葉。ジョン・バリモアは(1882年2月15日 - 1942年5月29日)はアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の俳優。サイレント期から活躍した映画スターの一人であり、兄のライオネル・バリモア、姉のエセル・バリモアと共に「バリモア三兄弟」として名を馳せた。ドリュー・バリモアの祖父にあたる。両親や親戚が皆舞台俳優という演劇一家に生まれた。しかし当初ジョンは画家を志し、ニューヨークの新聞社で漫画を描いたりしていた。本格的に俳優への道を歩み始めたのは23歳の時である。1909年、『The Fortune Hunter』のヒットでブロードウェイ の人気スターとなり、1914年に『An American Citizen』で映画界にも進出する。「The Great Profile(偉大な横顔)」と呼ばれた端正な風貌と、舞台で培われた確かな演技力で、『ドン・ファン』(1926年)『マノン・レスコウ』(1927年)のようなロマンティックなメロドラマから、『狂へる悪魔』(1920年)『悪魔スヴェンガリ』(1931年)などでの狂気に満ちた男まで、様々な役柄をこなした。また、舞台活動も並行して行い、特に1922年に主演した『ハムレット』は大評判となり、同作における当時の最長上演記録を作っている。20年代後半以降は映画に専念するようになった。30年代には兄ライオネルが所属していたMGM社へ移籍し『グランド・ホテル』(1932年)等に出演するが、若い頃からの過度の飲酒がたたって出演作は減り、加えて50歳を過ぎた年齢で二枚目役が困難となったため、次第に脇役へと転ずるようになる。晩年にはB級映画で自らをカリカチュアしたような役を演じるまでに落ちぶれていた。4度の結婚にもすべて失敗し、失意と貧困のうちに60歳で亡くなった。『海の野獣』(1926年)で共演し3番目の妻となった女優ドロレス・コステロとの間に生まれた長男で俳優のジョン・ドリュー・バリモアが、女優ドリュー・バリモアの父親である。

ジョン・バリモアは今となっては、最初にオスカーを獲得した兄妹である兄のライオネル・バリモア、姉のエセル・バリモアの弟としてしか知られていないかもしれません。彼は最初、喜劇でのハンサムな舞台俳優として有名になり、後にシェイクスピア劇でハムレットとリチャード3世を演じ当たりを取りました。彼の出演した映画で有名なのは『ジキル博士とハイド氏』を基にした『狂へる悪魔』のジキル博士/ハイド氏役か、アカデミー賞で作品賞と取った『グランド・ホテル』のガイゲルン男爵役でしょう。過度の飲酒癖と4度の結婚のすべて失敗したことでも分かるように、彼はかなり破滅的な生活を送った人でした。バリモアの最期はは、1942年5月29日にラジオ番組に出演しようとしているときに倒れ、病院に搬送されましたが亡くなりました。死因は、肺炎によって悪化した肝臓、腎臓、心臓病でした。

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今日の辞世の句 

(リー、もし誰かがお前を狙って撃つなら、お前と同じように上手く撃つことを願うよ。と言ったダラスの警官に答えて)
Aw, no one's gonna shoot at me.

ああ、誰も俺を狙って撃てない。
(次の瞬間ジヤック・ルビーに撃ち殺された)

リー・ハーヴェイ・オズワルドの最期の言葉。リー・ハーヴェイ・オズワルド(1939年10月18日 - 1963年11月24日)は、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされる人物。ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。逮捕直後にジャック・ルビーによって暗殺される。ニューオーリンズで生まれ育つ、父親はオズワルドが生まれる前に死亡しており、おじのチャールズ・マレット(ダッツという異名があった)に幼児期から思春期の生活を見てもらっていた。マレットはカルロス・マルセロの組織の人間でもあった。兄弟とともに母親に育てられ、成績は平均的。年少期はスパイドラマが好きだった。登校拒否の経験がある。兄が海兵隊に入隊した時、オズワルドは民間の航空部隊(CAP)に参加していた。この頃からロシアの新聞を購読し始める。17歳で海兵隊に入隊、公務の一環としてロシア語を専門的に勉強した。1957年から翌1958年、日本の厚木基地(海軍厚木航空施設)に勤務していた際には航空管制官を務めた。その頃の月給は85ドル以下。軍病院によると性感染症を「職務の一環」で患っていた。この頃、同僚殺害の容疑を掛けられたことがあるほか、銃の不法所持および発射の罪状で軍法会議において有罪判決を受けている。オズワルドは日本の厚木基地勤務時代にロシア語を学び、除隊後の1959年、ソ連に旅行に出かけ、そのまま亡命した。アメリカのスパイとして疑われ、追放されることを避けるために自殺を試みた。その後ソ連当局はオズワルドにミンスクでの生活を許可した。彼はテレビ工場で働き、ロシア人女性マリーナと結婚した。マリーナと娘を連れて1962年にアメリカへ帰国。入国許可が下りるまでに6ヶ月間を要したが、亡命し軍事機密を引き渡した疑いのある人物の帰国をアメリカ政府は許可した。仮想敵国の国民であった妻子の入国も許可された。ウォーレン委員会は、1963年11月22日午後12時32分、遊説中のジョン・F・ケネディ大統領をオズワルドがテキサス州ダラスの教科書倉庫ビル5階の窓から狙撃し、暗殺したと発表している。事件発生直後、2階の食堂で食事をしているところを同ビルの従業員に目撃されており、また巡回中の警察官にも確認されている。警官が管理人にオズワルドの事を尋ねると「ここで働いている」と答えた。その後、建物を出たオズワルドはJ・D・チピット巡査を職務質問中に殺害、その後テキサス劇場で逮捕されている。オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり(patsy)」と主張し、また弁護士不在についても異議を唱えている。記者に顔の傷の事を問われると「取調べ中に警官に殴られた」と語っている。なお、ダラス警察のジェシー・カリー本部長は拘留中のインタビューで、取調中のオズワルドの様子について「非常に横柄な態度」「犯行は全面否認しているが、(自分は)彼が間違いなく犯人と信じている」とコメントしているが、拘留中の尋問調書などは全く残っていない。逮捕から2日後の11月24日午前11時20分頃、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前にジャック・ルビーによって拳銃で狙撃された。すぐに救急車でパークランド病院へ搬送されたが、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表した。

世紀の大事件である、ケネディ大統領暗殺事件を知っている人は多いでしょうが、その犯人だとされるオズワルドがソ連への亡命したことがあることを知っている人は少ないでしょう。また彼はケネディを暗殺する前に職務質問した警官を殺害するなど、異常な行動を取っていた人物でした。そのためこの大事件を何かの陰謀であったとする、根拠のない憶測が飛び交いました。オズワルドはイタリア製の旧式ライフル銃「カルカノM1938」で、テキサス州ダラスの教科書倉庫ビル5階の窓から、車で移動しているケネディを狙撃しました。発射された三発の銃弾の内、一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通しコナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えました。オズワルドはダラス市警察のJ・D・ティピット巡査を殺害した容疑で、ケネディ暗殺の80分後に現場近くの劇場で逮捕され、その夜遅くケネディ暗殺容疑で再逮捕されました。ところが、オズワルドは事件の2日後の11月24日の午前中に、ダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、マフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビーに射殺されました。この現場はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万のアメリカ人が映像でこの瞬間をリアルタイムに見ることになりました。ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーヌ夫人とその子供のため」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会どころかマスコミさえもが、その不可解さを取り上げませんでした。ケネディ大統領暗殺事件は数多くありますが、どうやら真相はオズワルドという異常な人物の被害妄想による逆恨みだったようです。

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