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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

This is the last of Earth! I am content!

これが地球の最後だ! 私は満足だ!

ジョン・クィンシー・アダムズの最期の言葉。ジョン・クィンシー・アダムズ(1767年7月11日 - 1848年2月23日)は、第6代アメリカ合衆国大統領。彼はまた外交官として各国に赴き、上下両院で議員を務めた。所属政党は連邦党、民主共和党、国民共和党であり、後には反メイソン党、ホイッグ党にも所属した。民主共和党所属としては最後の大統領である。アダムズは第2代大統領ジョン・アダムズの息子であり、最初の親子二代の大統領(2番目の親子二代の大統領は第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュと第43代大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ)。「クィンシー」という名は母方の祖父、ジョン・クィンシー大佐から採られた。大統領として初めて長ズボンを着用している。外交官としてアダムズは多くの国際交渉に臨み、国務長官としてモンロー主義の確立に尽力した。歴史家の多くは彼が米国史上で偉大な外交官の一人であったと見なす。大統領として彼は近代化と教育的な前進に関するプログラムを提案したが、政敵が多数を占める議会によって妨害された。1828年の大統領選挙で再選に失敗し、1期のみの任期で終わった最初の大統領となった。アダムズは経済成長にかかる国家の偉大さと強い連邦政府のビジョンを提示したが、その大統領職は政治上の器用さ、人気および支援者のネットワークを欠き、彼の排除を臨む政治家との衝突に終わった。1824年の大統領選が近づくと、人々は候補を探し始めた。ニューイングランドの有権者はアダムズの愛国心と政治的手腕を賞賛した。そしてアダムズは主に彼らのサポートを受けて選挙戦に入った。民主共和党の古い幹部会議システムは崩れ、また全ての第一党システムも崩れた。そして選挙は地域の支持に基づく自由参加となった。アダムズにはニューイングランドの強い地盤があり、彼の対抗馬はジョン・カルフーン、ウィリアム・クローフォード、ヘンリー・クレイとニューオリンズの英雄、アンドリュー・ジャクソンであった。選挙戦でカルフーンは脱落し、クローフォードも体調不良で撤退、他候補への支援に回った。一般投票ではジャクソンが最多数を得票したが、選挙人投票では過半数を獲得することはできなかった。大統領の選出は下院に預けられ、憲法修正第12条では選挙人選挙の結果で上位3名のみが下院での選挙に出ることができるとされていたため、ジャクソン、アダムズ、クローフォードが候補者となった。クレイは4位で候補にはなれなかったが、彼は下院議長としてかなりの影響力を保持していた。クレイは個人的にジャクソンを嫌悪しており、彼の経済施策(アメリカン・システム)はアダムズの施策と類似していたため、アダムズの支援に回った。アダムズは1825年2月9日の第1回投票で大統領に選出された。アダムズの勝利はジャクソンに衝撃を与えた。アダムズがクレイを国務長官に指名すると、ジャクソンの支持者は激怒し「不正な取引」として糾弾した。この主張はアダムズの任期の間中喧伝され、1828年の大統領選におけるアダムズ敗北の原因となった。前大統領のモンローの時代は、「好感情の時代」とも称される事実上の野党不在時代であった。しかし、巨大化しすぎたリパブリカン党(広義の民主共和党)は分裂の兆しを見せ、アダムズが大統領に就任した後に事実上党は二分された。連邦主義的な性格の強いアダムズのグループは国民共和党を名乗り、より州権主義を掲げるグループは民主共和党を名乗った。国務長官にヘンリー・クレイを登用したが、この人事はポストを見返りに自身への忠誠を要請した闇取引であると批判された。その後も、関税法、国立銀行の設置、軍事力の強化などに関しアンドリュー・ジャクソン支持者からの議事妨害に常にさらされ、「呪われた政権」とよばれた。1828年選挙では、史上最悪の中傷合戦が展開され、再当選を図ったが、民主共和党(のちの民主党)のアンドリュー・ジャクソンに敗れた。その後、史上唯一、大統領経験のある下院議員となった。

ジョン・クィンシー・アダムズは第6代アメリカ合衆国大統領ですが、任期中は政敵が多数を占める議会によって妨害されつづけ、1期のみの任期で終わった最初の大統領でした。彼の最大の業績は外交にあり、1817年から1825年までモンロー政権で国務長官として、アダムズ=オニス条約でスペインと交渉し、モンロー・ドクトリンを起草することでアメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱しました。彼はアメリカの共和主義者の民族主義に従って、アメリカの外交政策を形作った偉大な外交官であり国務長官だったというのが歴史化の彼に対する評価です。国内政策では、アダムズはインディアン民族に対して、前任者のジェームズ・モンローと同様の強制移住方針を採りました。これは全インディアン部族を、当時白人入植者のいなかったミシシッピ川以西の南部地域へ強制移住させるというものでしたが、彼はインディアンの領土をそれ相応の条件で「購入」する義務があるとしており、土地を欲しがっている南部や西部の白人を激怒させました。彼らは野蛮人インディアンの土地を国費で購入するというアダムズの政策は生ぬるい、として激しく抵抗し、1828年の大統領選挙では「史上最悪の中傷合戦」が展開され、アダムズは落選しました。代わって大統領となったのは、インディアン虐殺で名を上げたアンドリュー・ジャクソンでした。ジャクソンはアダムズのような生ぬるい態度をとらず、問答無用でインディアンを武力で虐殺制圧し、ミシシッピ以西への強制移住を実行しました。1848年2月21日に彼は下院議長によって出された質問に答えようとしている時に、重い脳内出血を起こして倒れました。2日後の2月23日に、彼は、連邦議会議事堂の内の部屋でで妻と息子とに看取られて亡くなりました。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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