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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

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今日の辞世の句 

Saat kaç?

What time is it?

今何時かい?

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの最期の言葉。ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881年3月12日 - 1938年11月10日)は、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。1881年、オスマン帝国領マケドニアの州都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディ と母ズュベイデ・ハヌムの子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名し、後に、サロニカ幼年兵学校の数学教官ユスキュプリュ・ムスタファ・サブリ・ベイ(大尉)が「ケマル」(「完全な」を意味する)を付け加え、ムスタファ・ケマルとなった。なお、『ユダヤ百科事典』によると、テッサロニキのユダヤ人の多くは、ムスタファ・ケマルをユダヤ教デンメ派(シャブタイ・ツヴィを救世主として信奉し、イスラム教徒のふりをしながらユダヤ教の戒律を守り続けた)の隠れユダヤ人の子孫と断言しているという。ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校(陸士1317年入学組)に入学した。第一次世界大戦中の1915年1月20日、第19師団長に任命され、2月25日、エサド・パシャの指揮下にある第3軍団の予備兵力として、ガリポリ半島のエジェアバド-セッデュルバヒル周辺に展開した。1915年4月25日、英仏軍がガリポリ上陸作戦を敢行し、ムスタファ・ケマル・ベイは、オーストラリア・ニュージーランド軍団が上陸したアルブルヌ地区に急行し、前進を食い止めた。6月1日に大佐に昇進した。1915年8月6日夜半、英軍は、増援の第9軍団をスヴラ湾に上陸させた。英軍の前進を食い止めたムスタファ・ケマルは、ルーシェン・エシュレフ(ユナイドゥン)らイスタンブルのメディアにより「アナファルタラルの英雄」として報じられ、名声を獲得した。8月19日以降、第16軍団司令官も兼任した。1917年12月15日から1918年1月5日まで、皇太子ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行し親交を深めた。6月から7月にかけて、療養のために、ウィーンとカールスバート(現 カルロヴィ・ヴァリ)に滞在したが、メフメト5世が亡くなったため、8月2日にイスタンブルに戻った。帰国後、8月7日、パレスティナ・シリア戦線でザンデルス元帥の指揮するユルドゥルム軍集団隷下の第7軍司令官に任命され、スルタンに即位しメフメト6世となっていたワフデッティンから「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1918年11月13日、イスタンブルのハイダルパシャ駅に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」(Üçler Misâkı) と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・メフメト6世は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」を改めさせ、現世権力である「スルタン」の地位を奪った後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。1924年、ムスタファ・ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。当初、ムスタファ・ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアにおけるクルド人宗教指導者シェーフ・サイード(シェイフ・サイト)の反乱など、反ムスタファ・ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。文化面では、1931年、私財を投じて「トルコ歴史協会」、その後「トルコ言語協会」をアンカラに設立した。スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「肝硬変は「ラク(トルコの蒸留酒)」のためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。ムスタファ・ケマルが死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにムスタファ・ケマルの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。ムスタファ・ケマルの後はイスメト・イノニュが継ぐが、有能ではあってもカリスマ性は無かったイノニュの時代には停滞し、再発展は第二次世界大戦後まで持ち越される。

ケマル・アタテュルクは初代大統領にして、世界史にその名を残す大英雄です。人呼んで正しい独裁者。彼は成立して間もないトルコ共和国において、独裁的な権力を行使し、政教分離やアラビア文字を廃止してラテン文字に改め、民法を制定して一夫多妻を禁止し男女平等を訴えるなど、旧来のイスラム教指導者からの大反対を押し切って、トルコ近代化への改革を進めました。トルコの近代史は、「赤い流血の皇帝(Kızıl Sultan)」と呼ばれた、伝説的な暴君でるアブデュルハミト2世から始まり、1908年の立憲政治の復活を求める統一と進歩委員会(青年トルコ党)の青年トルコ人革命とつながり、1922年にトルコ革命が起こりました。ケマル・アタテュルク率いるトルコ大国民議会は、祖国解放戦争に勝利し、オスマン帝国は打倒され、ケマル・アタテュルクは初代大統領となりました。彼は、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷き、在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけています。一方で彼が酒を好んだことや、イスラーム保守派への抑圧などからイスラーム主義者の中には、彼を背教者と非難する者も存在しています。ケマル・アタテュルクは一党独裁制の限界を理解し多党制への移行を目指していましたが、彼が生きている間に実現させることはできませんでした。ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れ、毎年彼の命日には、アタテュルク廟ほかトルコ全土で黙祷など記念式典が行われています。
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Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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