FC2ブログ
08 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 10

新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

たれも皆かくなり果つるものと知れ 名をこと惜しめ武夫の道

誰でも皆こうなり果てるものと知りなさい 名誉を特に惜しむのがりっぱな男の道であるのだ

赤根武人の辞世の句。赤禰武人(あかねたけと、天保9年1月13日(1838年2月7日) - 慶応2年1月25日(1866年3月11日))は幕末の長州藩士。奇兵隊の総管を務めた。別名、文平・幹之丞・貞一・柴屋和平。赤根武人と書かれることが多いが、正式には赤禰武人と書く。略字で禰=根と思われており、小説、辞書などにも多くはそう書かれるが、略字ならば「赤祢」である。
周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた(生誕地については異説あり)。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の克己堂で学ぶ。安政3年(1856年)、短期間ではあるが吉田松陰の松下村塾に学ぶ。安政4年(1857年)長州藩士浦家の家老・赤根雅平の養子となり、梅田雲浜の望南塾に入塾。安政の大獄に伴い師・雲浜が逮捕されるに伴い赤根も逮捕されるが、釈放され帰郷。その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受ける。文久2年(1862年)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて尊王攘夷活動を行い、御楯組に加盟。 同年12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わり、文久3年(1863年)5月の下関戦争に参加、同年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。元治元年8月(1864年9月)の第一次長州征伐後、赤根は藩内の融和を図るが、当時藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を行った事が同志に二重スパイとして疑われる契機となる。更に、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、幕府の攻囲を前に内戦を行うことを危ぶむ赤根はこれに反対し高杉と対立する。元治元年12月(1865年1月)、高杉による功山寺挙兵が成功すると藩内での立場を失い、出奔して上方へ赴く。その後、幕府に捕縛されたが、幕府大目付永井尚志や新撰組参謀伊東甲子太郎らは長州藩の鎮撫工作に赤根を利用することを画策、赤根は11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これも、赤根が更に疑われる原因となった。幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤根は、広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認識されていた赤根の言は全く受け入れられなかった。工作は成功せず、生誕地である柱島に潜伏していたところを、12月に長州藩士槇村半九郎に捕縛される。赤根は弁明を望むが、取調べは一切行われず、翌年1月、山口の鍔石で処刑された。享年29。

赤根武人は幕末の長州藩士でありますが、尊皇攘夷派の中では穏便だった人です。赤根は奇兵隊の第三代総管でしたが、後に高杉晋作と対立しました。当時の長州藩では俗論派と正義派が対立しており、武力により藩論の統一しようとする高杉らの方が少数派でしたが、高杉が周囲の反対を押し切って功山寺で無謀な挙兵を行い、成功すると藩論は倒幕に統一されました。赤根は二派の調停を行おうとしましたが、故郷の長州藩から裏切り者扱いされ、処刑されてしまいました。赤根の調停が失敗した背景には、功山寺挙兵により敗れた俗論派藩政府が、報復として野山獄に捕らえていた正義派11名(甲子殉難十一烈士)を斬首し清水親知を切腹させたことがあり、俗論派と正義派共にやっていることはどっちもどっちです。高杉晋作は肺結核により赤根と同じ29歳で亡くなりましたが、後に「武人の気持ちを察することが出来なかったのは残念だ」と病床で語ったとも言われています。赤根には上記の辞世の句の他に、獄衣に記されていたとされる、「真は誠に偽りに似、偽りは以て真に似たり」という言葉が伝わっていますが、勝てば官軍とはいつの世にも変わりないことのようです。
スポンサーサイト



Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

tb 0 : cm 0