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新・立命館大学戦史研究所

立命館大学の登録団体である立命館大学戦史研究所の公式ブログ。戦史研の活動再開とともに復活!

 

今日の辞世の句 

来るつはめ帰る雁わするなよ 又めくり逢ふ春もなき身を

来る燕帰る雁よ忘れないでくれ また巡り会う春もない私のことを

檜山三之介の辞世の句。檜山三之介(ひやま-さんのすけ 1839-1865)は幕末の武士。天保10年生まれ。常陸水戸藩士。筑波山での挙兵(天狗党の乱)に参加。武田耕雲斎にしたがい京都へいく途中、金沢藩に降伏し、元治2年2月16日越前敦賀で処刑された。27歳。名は茂高。

檜山三之介は天狗党の乱の一員ですが、乱のメンバーを見ると分かるように、二十代の若い人たちが大勢参加していました。古今東西、独立運動や民主化運動は若い人達が中心になって行われてきましたが、明治維新もその例に漏れず、多くの若い人達がその中心となっていました。その結果は天狗党員828名のうち、352名が処刑されるというものであり、その中にはかなりの数の若い人たちがいました。自らの理想と野望のために戦ったとはいえ、このような結果になってしまったことは、因果応報なのでしょうか?

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

丈夫のつる張りこめし梓弓 引つめてこそなど撓むべき

たくましい男が張り込めた弓を 引き詰めてなぜたわめるべきだろうか

長谷川通之介の辞世の句。長谷川通之介(はせがわ-みちのすけ 1838-1865)幕末の武士。天保9年生まれ。常陸水戸藩士。元治元年尊攘派武田耕雲斎らの天狗党の乱にくわわる。のち加賀金沢藩に降伏し、翌2年2月4日越前(福井県)敦賀で処刑された。28歳。名は守本。

長谷川通之介は天狗党の一員です。彼は安政年中大番組に列し、文久三(1863)年大番組頭となりましたが、天狗党の乱に参加し、大将である榊原新左衛門が降伏すると、武田耕雲斎の陣に移って戦い、最期は降伏し処刑されました。大番組とは江戸幕府の職名で、老中に属する常備兵力として旗本を編制した部隊で、戦時にはいくさの先頭に立ち、平時には江戸城・大坂城・京都二条城および江戸市中を交代で警備していました。長谷川は25歳にして大番組の組頭となっていたのですが、組頭は役高600石の躑躅間席だったので、これはけっこうな出世でした。しかし、彼は親不孝にもその二年後に処刑されてしまいました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

白露の霜とかはれる今ははや 君が衣手薄くなるらん

白露の霜と変わってしまう今はもはや 主君の衣手が薄くなるだろう

土田衡平の辞世の句。土田衡平(つちだ-こうへい 1836-1864)幕末の武士。
天保7年生まれ。出羽矢島藩(秋田県)藩士。赤坂貞介と名前をかえて水戸の天狗党の挙兵に参加し、幕府および諸藩の兵とたたかう。捕らえられて元治元年11月5日処刑された。29歳。通称は久米蔵。

土田衡平はかなり優秀な人物だったようで、「筑波党中の人材は藤田を第一とし、つぎは土田衡平なるべし。」「土田は筑波党中第一の人物なるべし。」と評されていました。土田は京にいたとき、後に天誅組三総裁の一人となる軍学者藤本鉄石について学び、江戸に帰ってからは古賀謹一郎の門に入り、その学塾久敬舎に学びました。その後土田は天狗党の乱において、田中愿蔵の参謀となりました。田中隊の活躍は、土田の用兵と奇策によるものであるという評がありますが、さすがに略奪・放火はやりすぎです。土田にどのくらい責任があるのかは知りませんが、目的は手段を正当化せず、正義とは結果ではなく過程に宿るものですから、やはり悪党の謗りを免れることは能わないでしょう。土田は助川の戦いで敗れたあと、小舟で仲間と海へのがれましたが台風にあい、漂流の末相馬藩中村にたどりつき、捕らえられて斬刑に処せられました。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

みちのくの山路に骨は朽ちるとも 猶も護らむ九重の里

東北の山道に死んだとしても なお宮中の里を守ろう

田中愿蔵の辞世の句。田中愿蔵(たなかげんぞう 1844~1864)は、久慈郡東連地村(現水府村)で生まれた。藩制時代後期に建てられた郷校の一つ、野口時雍館の館長を務め、一八六四年三月、水戸学の指導者藤田東湖の子、藤田小四郎らとともに筑波山で挙兵し、天狗党幹部になった。田中愿蔵は、山田一郎とともに天狗党の資金調達を担当していおり、田中により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木(6月5日~6日)・真鍋(6月21日)などの町で放火・略奪・殺戮を働いた。とりわけ惨劇が展開されたのが栃木であった。6月5日、栃木宿に到着した田中隊は、家々に押し入って金品を強奪したうえ、町に対し軍資金30,000両の差し出しを要求した。町側がこれに応じられないと知るや、田中は宿場に火を放たせ、この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失した。水戸天狗党田中愿蔵は、水戸近郊の戦いに敗れ、八溝山に拠るも再起図れず、解散し、町内の真名畑にて捕縛され、この川原に於いて斬首される。元治元年(1864年)10月16日遺体は安楽寺に埋葬される。翌年慶応元年、ゆかりの者により供養の碑が建てられた。昭和4年金澤春友氏により「田中愿蔵刑場の跡」の碑が建立される。享年21。

田中愿蔵は天狗党の中でも特に悪名高い人です。彼は略奪・放火などの悪事を行い、明治以後も悪党として知られていました。このような天狗党の行いは天下の同情を失わすには十分で、天狗党はあっけなく壊滅することとなりました。ところが大仏次郎の『愿蔵火事』や中山義秀の『関東狂少年』といった小説では、田中は好意的に書かれています。彼のやった無茶なことは、物語とするには面白かったのでしょう。大暴れした上に、慰霊碑なども建ててもらっていることなどを考えれば、人間何でもやってみるものなのかもしれません。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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今日の辞世の句 

咲初めて風に散りなん桜花 散ての後に知る人は知れ

咲き始めて風に散ってしまうであろう桜の花 散った後に知る人は知れ

武田魁介の辞世の句。武田魁介(たけだ-かいすけ 1828-1865)幕末の武士。文政11年生まれ。武田耕雲斎の次男。常陸水戸藩士。元治元年父にしたがって天狗党の挙兵にくわわる。京都にむかう途中、越前(福井県)で金沢藩に投降し、2年2月4日敦賀で処刑された。38歳。名は正義。

武田魁介は天狗党の乱の首領である、武田耕雲斎の次男です。武田魁介は武田耕雲斎の次男であるという以外には、特に重要な人物ではありません。武田魁介の行動で伝わっているのは、天狗党が降伏したときに、武田耕雲斎が魁介を遣わして、嘆願書及び始末書と口上書を差し出した事くらいです。残念ながらこの文書は、加賀藩の目付由比図書が、真の降伏状ではないとみなしたため、受け取られませんでした。武田魁介は自分の意志で父親に従い天狗党の乱に参加したようですが、やはりとんでもない父親を持つと息子は苦労するようです。

Category: 畠山首席参謀主筆! 立戦研連載企画 《今日の辞世の句》

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